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今回の部分は、独立した単独の段落ではなく、先回からの段落の後半部分です。

カミュの人間観や歴史観が哲学的随筆のように展開されています。

 

Quand une guerre éclate, les gens disent: « Ça ne durera pas, c’est trop bête.» Et sans doute une guerre est certainement trop bête, mais cela ne l’empêche pas de durer. La bêtise insiste toujours, on s’en apercevrait si l’on ne pensait pas toujours à soi. Nos concitoyens à cet égard étaient comme tout le monde, ils pensaient à eux-mêmes, autrement dit ils étaient humanistes: ils ne croyaient pas aux fléaux. Le fléau n’est pas à la mesure de l’homme, on se dit donc le fléau est irréel, c’est un mauvais rêve qui va passer. Mais il ne passe pas toujours et, de mauvais rêve en mauvais rêve, ce sont les hommes qui passent, et les humanites en premier lieu, parce qu’ils n’ont pas pris leurs précautions.

 

ひとたび戦争が勃発すると、世間の人々は「こんなことは長引かないだろう、あまりにも愚かなことだから」と言う。そして、戦争はあまりにも愚かなことであることには違いない。だからといってそれが長引かないという理由にはならない。愚行は飽くことなく常に繰り返される(註1)。常に私事にばかりにかまけてさえいなければ(註2)、私たちは、そのことに気づくはずである。わが市民も世間並であり、皆自分たちのことばかりを考えていた。つまり彼らは俗物主義者であるため、天災いが襲ってくることなど気にも留めていなかった(註3)。天災は人間の尺度で測ることはできない。人々は天災とは非現実的なもの、だからやがては過ぎ去る悪い夢なのだと自分に言い聞かせることになるのだ(註4)。しかし、悪い夢はいつも過ぎ去るものとは限らないし、悪い夢から悪い夢へと過ぎ去っていくのは人間たちのほうである。その筆頭が世俗主義者社会たちであるというのは、彼らは警戒を怠っていたからである。

 

 

(註1)

愚行は飽くことなく常に繰り返される。

La bêtise insiste toujours,

 

La bêtise(愚行、ばかげたこと)とは、文脈に沿うならば、une guerre(戦争)ということになります。ただし、女性名詞 guerre には不定冠詞uneが付されているのに対して、同じく女性名詞bêtiseには定冠詞laが付されています。
    

La bêtise=La guerre(戦争)はinsiste toujours(いつまでも続くものである)という意味であるとすれば、以下の各氏は、それぞれ適切に訳されていることになるでしょう。

 

「愚行は常にしつこく続けられるものであり、」(宮崎訳)

 

「ばかげたことはいつまでも続くのだ。」(三野訳)

 

「愚行はつねに長びくものであり、」(中条訳)

 

各氏に共通する視点とは別に、人間中心主義の世俗的な考えの人々に対する視点から『愚行(戦争)とは、ひとたび収まったかのようにみえても、実は人知れず水面下でくすぶり続けていて、いずれ不意打ちを食らわせたかのように再発するものである』という理解を前提とした訳を試みました。

 

(註2)

常に私事にばかりにかまけてさえいなければ、人間中心主義の世俗的な考えの人々が大多数を占める社会では、「今だけ、金だけ、自分だけ」といったことが価値観や行動原理になってしまいがちです。
民主主義が人類の危機を招くとしたら、このような堕落した人間中心主義の世俗的な価値観の支配を無批判に受け入れてしまいがちな社会風潮にあるのかもしれません。

 

私事を離れて歴史の流れを振り返りつつ、現代社会全体の在り方を俯瞰し、望ましい未来を展望する、といった習慣を身に着けることの大切さを改めて気付かされます。
    

on s’en apercevrait si l’on ne pensait pas toujours à soi.
   

「人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ」(宮崎訳)

 

「自分のことばかり考えるのをやめれば」(三野訳)


「人々も自分のことばかり考えなければ、」(中条訳)


    
(註3)

彼らは俗物主義者であるため、天災いが襲ってくることなど気にも留めていなかった。

ils étaient humanistes: ils ne croyaient pas aux fléaux.

 

このセンテンスの構造は、文中に<:>、すなわちドゥポワン(deux-points)によって2つのセンテンスが関連しているということです。このコロンは句読点の一種であり、説明や引用を導きます。
 

また、単語としてはhumanistesをどのように理解するかで、翻訳者各位が苦労された形跡がうかがわれます。意味の文化的背景が深く、ただちに適切な日本語に訳しにくい単語です。

 

à l’humanisme, aux humanistes de la Renaissance,aux humanités.

ルネッサンス期の人文科学分野での人文主義者に、
   

Caractère d‘une personne en qui réalise pleinement la nature humaine.

人間性が十分に発揮された人物の性格。
   

L’amour suscite 《une source vive d’humanite》CHARDONNE

愛が呼び覚ます《ウマニテの生きた源泉》シャルドンヌ

 

宮崎、中条の両氏はhumanistesを人間中心主義者(ヒューマニスト)と訳し、三野は、より柔らかい説明体で「人間を中心に考えていた」と訳しています。
    

私は、「人間中心主義」と直訳しておいて、カタカナで(ヒューマニスト)と添えるのは、かえって読者に違和感を与えることになるのではないかと危惧します。
    

もはや、日本語にもなっている(ヒューマニスト)が、私事にばかりかままけている人々という理解からは遠ざかってしまうのではないかと思われます。

 

「彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)であった。つまり、天災などというものを信じなかったのである。」(宮崎訳)

 

「彼らは人間を中心に考えていたのであり、災禍が起こるなどとは想定もしていなかった。」(三野訳)

 

「彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)だった。つまり、天災など信じなかったのだ。」(中条訳)

 

(註4)

だからやがては過ぎ去る悪い夢なのだと自分に言い聞かせることになるのだ。

on se dit donc le fléau est irréel, c’est un mauvais rêve qui va passer.


まず<on se dire +直接話法>は、…だと(自分自身に)言う、思う、考える、などの訳語があります。

前者の…だと(自分自身に)言う、に近いのは(三野訳)「…とみなすのだ。」、これに対して、後者は(宮崎訳)「…と考えられる。」と(中条訳)「…と考える。」です。

私は、結果や結論に結びつけるdonc (だから)という接続詞の働きを活かした三野訳を高く評価したいと考えます。
      

次いで、un mauvais rêveは、そのまま「悪い夢=悪夢」と訳すこともできるのですが、ここで気になることがあります。英語の場合「夢」と「悪夢」は、それぞれdream, nightmareという別系統の語がありますが、フランス語でもrêve(夢)に対してcauchemar(悪夢)という語があります。

 

カミュがcauchemarという単語を用いなかったのには、理由があるのか、という疑問が浮かんだため、Petit Robert仏仏辞典で確認すると以下のような記述がありました。

 

Rêve pénible dont l’élément dominant est l’angoisse.

《 je tombais de rêve en cauchemar, de cauchemar en convulsions nerveuses 》COLETTE

 

「苦悩を主な要素とする苦痛な夢。」という説明があり、コレットの文章からの用例が添えられています。

 

《夢から悪夢へ 悪夢から神経痙攣へ》COLETTE

 

その悪夢は、漠然とした悪夢ではなく、苦悩を背景とする悪夢であることから、「苦悩」とまで深く認識されていない悪夢の場合は、これに該当しないということになりそうです。このような理解に立つならば、un mauvais rêveの訳語は「悪夢」という熟語的な硬い表現ではなく「悪い夢」という、より柔らかい形にしました。
      

「やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。」(宮崎訳)

 

「やがて過ぎゆく悪夢とみなすのだ。」(三野訳)


「やがて消え去る悪夢だと考える。」(中条訳)

 

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聖楽院主宰 テノール 

飯嶋正広

 

第13回レッスン(7月5日)

 

別科前期のレッスンは第15回(7月19日)まで、夏休みを隔てて後期は第16回(9月20日)から個人レッスンが再開されます。

 

この間、8週間の夏休みのほぼ中間の8月22日(月)には、岸本門下コンサートが開催され、私も参加させていただくことになっております。

 

そこで、夏休み前半は、主としてコンサート出演準備ということになろうかと思います。私の発表曲は歌曲(ロマンス)のみで固めるのであれば、現在レッスン中のチャイコフスキーの作品の中から3曲ということになる予定です。そして、その3曲は、大学院入試の実技試験の提出曲目の一部を構成することになります。

 

大学院修士課程声楽専攻声楽コースの専攻別実技試験では、課題曲(予めリストされた作曲家群の作品)3曲と自由曲3曲を提出し、その6曲の中から演奏時間に応じて指定されることになります。

 

課題曲の3曲については、すでに前回の第12回レッスン(6月28日)の段階で、以下の作品が候補となりました。

 

a) 群からA.Scarlatti(スカルラッティ):

イタリア歌曲

<Già il sole dal Gange>(陽はすでにガンジス川から)

 

b)群からTchaikovsky(チャイコフスキー):

ロシアロマンスもしくはアリアの中から選択しますが、受験曲中1曲は受験者が指定できることと、受験曲6曲中には必ずアリアが含まれなくてはならないという規定があることから、チャイコフスキーのオペラ・アリア:

歌劇「エフゲニー・オネーギン」第2幕から、

「レンスキーのアリア」

(青春は遠く過ぎ去り)


を受験者指定曲とする可能性が高いのではないかと考えておりま
す。

 

c)群からRachmaninov(ラフマニノフ):

ロシア・ロマンス
   

<Полюбила я на печаль свою>

(私は悲しい恋をした)

 

また自由曲の3曲は、

Tchaikovsky(チャイコフスキー):

ロシアロマンスで統一、という方針で行くことになりました。
現在レッスン中の曲で完結します。

 

さて、この回のレッスンは、早速、受験課題曲の中から、はじめました。

 

最初は、A.Scarlatti(スカルラッティ):

イタリア歌曲

<Già il sole dal Gange>

(陽はすでにガンジス川から)

 

岸本先生の前で歌うのは初めてでしたが、やはり、この曲が候補課題曲の一つになりそうです。

 

次が、Rachmaninov(ラフマニノフ)の<Полюбила я на печаль свою>(私は悲しい恋をした)

 

歌詞の発音チェックを受けた後、直ちに歌唱することになりました。
 

私にとっては最初のラフマニノフの作品です。これも、候補課題曲として稽古を続けていくことになりました。
  

そして、別科の後期には、すでに岸本先生に推薦していただいているラフマニノフのロマンス数曲をご指導いただくことになっています。
  
  

大学院の受験とその後については未解決の課題があることについて、岸本先生に率直に申し上げたところ、別科をもう一年繰り返す、という選択肢についての御示唆を受けました。
  

私は、別科を複数年繰り返す希望は全くないため、むしろ、別科の一年間で学ぶべきことを徹底したいと御返事しました。
  

そこで、別科終了までに、大学院入学試験の課題曲にリストされている作曲家群中から、チャイコフスキー、ラフマニノフ以外のロシア作曲家の作品を、それぞれ1曲ずつを岸本先生にご推薦いただくことにしました。

 

それはグリンカ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチから各1曲、計5曲です。これらを別科終了までに一通り歌えるようにできれば、別科1年間の課程をまとまりのある充実したものに仕上げることができるものと考えているからです。

 

私が仮に、大学院に進学したとしても、私にとっては、修士論文作成はあまり気乗りがしないので、修士論文を提出せずに修了することはできないのかを岸本先生にお尋ねしました。

 

すると岸本先生は、修士課程では修士論文を提出することが必須であるとのことでした。

 

実際には、修士論文を提出せずに修了することができるコースがあるのですが、岸本先生は、そのコースについては論外とされていることを推測することができました。

 

そのコースとは、声楽専攻ヴィルトゥオーゾコース(声楽)です。このコースは声楽専攻声楽コースと併願することができることになっています。

 

歌曲5曲、オペラ、コンサートアリア、オラトリオまたはカンタータアリア4曲を予め提出し、その中から当日指定され、あわせて30分程度の歌唱実技試験となります。ただし、[声楽コース]で演奏する課題曲および自由曲と重複しないこと、という注意書きが入試要項にあります。
  

私は、もし大学院を受験することになるのであれば、併願を考えています。この件に関しては、適切な時期を見計らってご相談することになるでしょう。

 

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認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

 

感染症に対する予防対策の必要性

 

新型コロナウイルス感染症に限らず感染症対策の要は予防です。ウイルス感染症に関しては、予防がとりわけ大切です。

 

残念ながら今年度になってから、当クリニックの受診者の中で新型コロナ感染者が発生するようになりました。

一例を除いて他の全員がmRNAワクチンを複数回接種した方ばかりでした。

その方々に共通しているのは、亜鉛、カルシウム、ビタミンD欠乏症であるにもかかわらず、私が推奨していた感染予防のための漢方薬を積極的に継続服用していなかった方々です。

 

幸い、感染後に推奨漢方薬を服薬して快方に向かっていますが、ふだんから予防内服をしていれば、感染や発症リスクを下げることができた可能性があるばかりか、発症後に内服した漢方の効力も高かったのではないかと推測しています。

 

その理由は、漢方薬は本来の自然免疫力にかわるものではなく、それを助け増強させるものだからです。自然免疫力は、長期間にわたって少しずつ養っていくものであり、ましてや、感染症に罹患している状態は免疫力が低下している状態だからです。

 

予防がなぜ重要なのかは、治療薬である抗ウイルス(療法)薬の効果には限界があるからです。

 

 

 

課題が残される抗ウイルス(療法)薬

 

抗ウイルス(療法)薬と表記したのには理由があります。

 

それは、抗ウイルス薬はウイルスに直接作用する薬剤であるのに対して、ウイルス療法薬はウイルス排除機構を補助する薬剤であるため、本来であれば分けて書くべきだからです。
 

抗ウイルス薬は、本来は抗悪性腫瘍薬として開発され、その中でも核酸であるヌクレオシド誘導体が抗ウイルス薬の主流をなしています。これは、正常細胞機能を損なうことなく、ウイルスの増殖過程に不可欠なウイルス核酸合成のみを阻止するため使いやすい薬剤です。
 

これに対して、抗ウイルス療法薬としては、インターフェロン(IFN)や免疫グロブリン、抗RSウイルス薬などを挙げることができます。

 

 

<新型コロナウイルス感染症>

 

はじめて承認された抗ウイルス薬としてレムデシビル(2020年)があるが、その効果は限定的です。

しかし、2種類のモノクローナル抗体(カシリビマブとイムデビマブ)による治療である抗体カクテル療法は2021年に承認されています。

この抗体は新型コロナウイルスのスパイク蛋白の受容体結合部位に結合することによって、ウイルスに中和活性を示します。ただし、承認されているのは、軽症か中等症で酸素投与の必要のない重症化リスクのある患者への投与に限られています。

 

 

<インフルエンザ感染症>

 

インフルエンザ治療薬の主流はノイラミニダーゼ阻害薬です。ノイラミニダーゼ阻害薬はA・Bいずれの型にも有効であるため、多用されてきました。

 

バロキサビルマルボキシル(ゾフルーザ®)は2018~2019年のシーズンには、耐性ウイルスの頻発が大きな問題となりました。そのため、オセルタミビル(タミフル®)が処方されることが多いですが、近年、やはり耐性株が報告されています。

しかし、この耐性株はベラミル(ラピアクタ®)にも耐性を示します。

そのため、インフルエンザ治療薬の選択は容易ではないといえます。

 

なお、ファビピラビル(アビガン®)は、新型コロナウイルス感染症の治療候補薬として一時注目されましたが、これはRNAポリメラーゼ阻害薬であり、新型あるいは再興型インフルエンザ感染症が発生した場合に限って、国の判断のもとで投与が許されるに過ぎないため、一般外来で処方できる治療薬ではありません。

 

また、小児のインフルエンザは水痘と同様に、一般的な解熱鎮痛剤である非ステロイド性抗炎症薬やアスピリンを投与するとライ症候群(意識障害、けいれん、脳浮腫、肝障害など)を発症することがあるため投与しないことになっています。

 

 

<中枢神経系感染症>
 

単純ヘルペスウイルス(HSV)感染症は頻度が高いですが、脳炎を伴うと予後が悪いので注意しなければなりません。

診断が確定しなくても、それを疑った時点でアシクロビル(ゾビラックス®)を可及的速やかに投与することで、予後や死亡率を改善させることができるとされますが、予防投与は保険適応外であることが問題となります。

 

 

<エイズ(HIV)感染症>

 

抗HIV薬は、副作用や併用薬との相互作用が多いことが問題になります。そのため、最新の添付文書などで確認してから使用しなければなりません。ガイドラインは毎年改定されているので、実際には専門の医療機関でない限り、適切な最新の情報に基づく使用は困難であると考えます。

 

なお、抗HIV療法は、性的接触による他者へのHIV感染を低下させますが、危険性を完全に排除できないことに留意しなければなりません。

 

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声楽の理論と実践から学ぶNo.8

 

水氣道の稽古と声楽のレッスンの共通点(続・続・続・続々)

 

水氣道は、浮力によって支えられることによって、立位であっても抗重力筋の緊張が緩和されます。それによって、身体の内側の深層筋を活性化させることができます。

また、深層筋の活性化によって、外側の筋をリラックスさせることができます。 

 

このように、水氣道の稽古では直立姿勢を内側から安定させることができます。そのため、水氣道の稽古を続けることによって筋肉を3次元的に活性化させることができるようになります。

 

歌を歌うときにはフレーズの前で息を吸いますが、舌の後方の筋肉(舌骨筋など)と舌の付け根でギクシャクした動きが発生し易くなります。私も例外ではありませんでした。その原因は、口呼吸と鼻呼吸の正しい呼吸バランスがとれていなかったためです。そのような場合には、どうしてもフレーズの始まりに圧力がかかり易くなるために、このとき、筋肉を三次元的に活性化させて、この緊張を補正する必要があります。

 

プロの声楽家でさえも、ほとんど反射的に間違ってしまいかねないのが「舌の支え」方です。これを避けるためには、喉頭の筋肉を意識的に弛緩させることが必要です。これはなかなか習得するのが難しいですが、私はこの難題を克服するために、水氣道で養われる注意力と忍耐力を用いています。

 

私は、「舌根が固くなっている」とよく注意を受けてきました。その状態のままでは、呼吸がアンバランスとなり、歌唱を継続させるために必要な水準のリラックスが得られなくなってしまいまうのです。そのような場合は舌の裏側が「ケーキの生地」のように大きく丸まり、なおかつリラックスした状態を保つことで、呼吸のバランスとリラックスを得るようにしています。こうすることで、喉仏を圧迫することもなくなりました。

 

このような方法で喉頭蓋の活性化により、軟口蓋が持ち上がり、口呼吸と鼻呼吸のバランスが取れるようになります。スローモーションであくびを始め、リラックスしてあくびをする前に少し間をおきます。 

 

今、あなたはこの活性化を感じ、心地よいリラックスした感覚を持ち、鼻と口で同時に息を吸ったり吐いたりすることができます。このエクササイズを完璧にこなすと、息を吸うときと吐くときの音が同じになるのがわかると思います。つまり、息を吸うときも吐くときも、呼吸圧が変わらないということです。

 

水氣道では、脱力状態と緊張状態のバランスの上にリラックスがあると教えています。声楽もこれと同じであり、感情レベルだけでなく、身体にもバランスのとれた緊張と緩和が構築されればされるほど、歌の芸術性が高まると考えられています。このバランスを崩し、リラックスよりも緊張して歌うと、声に負担がかかってしまいます。逆に、リラックスより緊張の方が強いと、色気のない声になってしまい、芸術性のない歌い方になってしまいまうのです。

 

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認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

見落とされがちな微量栄養欠乏症<亜鉛>No.6

 

今回は、亜鉛の栄養管理の実際について、診断基準から、治療、管理にいたる一連の流れについてまとめ、併せて、杉並国際クリニックでの実践例についてご紹介してみたいと思います。

 

 

<亜鉛欠乏症の治療の実際>

 

 

亜鉛欠乏症の症状があり,血清亜鉛値が亜鉛欠乏または潜在性亜鉛欠乏であれば,亜鉛を投与して,症状の改善を確認することが推奨される.

 

1. 下記の症状/検査所見のうち1項目以上を満たす

 

1) 臨床症状・所見:
皮膚炎,口内炎,脱毛症,褥瘡(難治性),食欲低下,発育障害(小児で体重増加 不良,低身長),性腺機能不全,易感染性,味覚障害,貧血,不妊症

 

2) 検査所見:

血清アルカリホスファターゼ(ALP)低値

 

 

2. 上記症状の原因となる他の疾患が否定される

 

 

3. 血清亜鉛値

 

3-1:60µg/dL未満:亜鉛欠乏症

 

3-2:60 ~ 80µg/dL未満:潜在性亜鉛欠乏  

 

血清亜鉛は,早朝空腹時に測定することが望ましい

 

3-3:80~130µg/dL:亜鉛充足(日本臨床栄養学会基準)

 

3-4:250µg/dL以上:亜鉛過剰(亜鉛摂取の減量を開始する)

 

 

4. 亜鉛を補充することにより症状が改善する

Definite(確定診断):

・上記項目の1.2.3-1 ~ 4をすべて満たす場合を亜鉛欠乏症と診断する.

 

・上記項目の1.2.3-2 ~ 4をすべて満たす場合を潜在性亜鉛欠乏症と診断する.

 

Probable(推定):

・亜鉛補充前に1.2.3.をみたすものは、亜鉛補充の適応になる.

 

 

<亜鉛欠乏の治療指針 >

亜鉛として

・成人50 ~ 100mg/日,

・小児1 ~ 3mg/kg/日
または体重20kg未満で25mg/日,

 

体重20kg 以上で50mg/日を分2で食後に経口投与します.
ただし、症状や血清亜鉛値を参考に投与量を増減します.

 

慢性肝疾患,糖尿病,慢性炎症性腸疾患,腎不全では、しばしば血清亜鉛値が低値になります。

 

血清亜鉛値が低い場合,亜鉛投与により基礎疾患の所見・症状が改善することがあります.

 

したがって,これら疾患では,亜鉛欠乏症状が認められなくても,亜鉛補充を考慮してもよいと考えられます.ただし、杉並国際クリニックでは、亜鉛欠乏症に至っていない、潜在性亜鉛欠乏症に対しては、経口亜鉛剤投与開始に先立って、食事療法を指導しています。

 

亜鉛を多く含む食品には魚介類、肉類、藻類、野菜類、豆類、種実類があります。特にかき(養殖/生)には100gあたり14.5㎎と亜鉛が多く含まれるほか、魚介類や肉類に亜鉛が多く含まれています。

 

・豚レバー(生100g)あたり6.9㎎

 

・うなぎの蒲焼(1串100g)あたり2.7㎎

 

 

<亜鉛投与による有害事象>

・消化器症状(嘔気,腹痛)

・血清膵酵素(アミラーゼ,リパーゼ)上昇

・銅欠乏による貧血・白血球減少

・鉄欠乏性貧血

 

が報告されています。

 

血清膵酵素上昇は特に問題がなく、経過観察でよいとされます。

亜鉛投与中は、定期的(数か月に1回程度)に血清亜鉛、銅、鉄を測定します。
血清亜鉛値が250µg/dL以上になれば、減量します。


また、銅欠乏や鉄欠乏が見られた場合は、亜鉛投与量の減量や中止、または銅や鉄の補充を行います。

 

しかし、本指針を広く周知してもらうために、今回,学会承認の指針として改定されました。従来から亜鉛製剤としてポラプレジンク(プロマックⓇ)と酢酸亜鉛(ノベルジンⓇ)が保険診療で使用可能であったが、ポラプレジンクは胃潰瘍、酢酸亜鉛はWilson病のみが保険適応でした。

 

2017年3月に酢酸亜鉛製剤(ノベルジンⓇ)の適応拡大が承認され、「低亜鉛血症」の疾患名で処方可能になりました。

 

亜鉛薬剤を適切に処方するためにも「亜鉛欠乏症の診療指針」は必要であり、その点においても本指針発行は非常にタイムリーでした。
以上により、日常外来診療において、適正な血清亜鉛のために、どのような検査をしておけばよいかが、明らかになります。下記を参考にしてください。

 

 

杉並国際クリニックにおける低亜鉛血症の標準検査項目

 

1)診断のための検査項目(2項目)

血清亜鉛、血清アルカリホファターゼ(ALP)

 

2)亜鉛投与による有害反応の早期発見のための必須検査項目(6項目)

血清銅、血清鉄、膵アミラーゼ、膵リパーゼ、血中ヘモグロビン、白血球数

 

3)基礎疾患のスクリーニングための参考検査項目(6項目)

肝機能(AST,ALT)、腎機能(血清クレアチニン、推定糸球体濾過率)、
耐糖能(血糖、HbA1c)

 

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臨床産業医オフィス


<高円寺南労働衛生コンサルタント事務所>

 

産業医・労働衛生コンサルタント・第一種作業環境測定士・衛生工学衛生管理者

 

飯嶋正広

 

 

<先月から、当面の間、職場の健康診断をテーマとして、産業医紹介エージェント企業各社が提供しているコラムを材料として採りあげ、私なりにコメントを加えています。>

 

産業医紹介サービス企業各社が提供する<健康診断>コラム

 

No2.ファースト・コール提供資料から(その2)

 

長時間労働がもたらすリスクと企業における解決策

 

2022-05-27

長時間労働が起こる原因

 

厚生労働省の『令和2年版 過労死等防止対策白書』によると、長時間労働が必要になる理由のうち、「業務量が多い」「仕事の繁閑の差が大きい」などが3〜4割を占めています。これらは、従業員数や作業効率を考慮せずに、無理な業務量を割り振ったり、短納期のスケジュールを設定したりすることに起因すると考えられます。

 

また、現在、少子高齢化によって生産年齢人口が減少しており、企業の人手不足感が高まっています。現場が人手不足になることで従業員一人あたりの業務量が増えることから、労働時間の増加につながります。

 

人手不足のなかで生産性を高めていくには、いかに効率的に業務を行えるかが重要です。しかし、紙媒体の書類をベースとしたやり取りや物理的な環境に依存する労働環境では、業務効率が悪くなり、結果的に労働時間の増加につながる可能性があります。

 

これらを踏まえると、残業時間を把握して長時間労働の把握や業務体制の見直しを行い、業務量やスケジュールを調整することが必要といえます。

 

出典:

内閣府『令和元年度 年次経済財政報告』/中小企業庁『第2章 生産性向上の鍵となる業務プロセスの見直し』/厚生労働省『令和2年版 過労死等防止対策白書』

長時間労働がもたらすリスクと自殺者の状況

 

 

長時間労働は、労働負荷が大きくなるだけではなく、次のような理由から従業員の心身の疲労につながり、健康障害や事故などを引き起こすリスクがあります。

 

▼心身の疲労につながる要因として考えられること

 

睡眠時間の不足

家庭生活や余暇時間の不足

仕事に対する精神的負担

 

実際に、厚生労働省の『平成28年版過労死等防止対策白書』では、残業時間が長いほど疲労の蓄積度とストレスが高いと判断される人が多いことが分かっています。

 

1

画像引用元:厚生労働省『平成28年版過労死等防止対策白書』

 

2

画像引用元:厚生労働省『平成28年版過労死等防止対策白書』

 

 

長時間労働によって睡眠不足や疲労の蓄積が起これば、業務中の事故・ケガを引き起こすおそれがあります。また、過重労働は脳・心臓疾患、精神障害などの重大な病気や過労死につながるリスクもあります。

 

 

産業医からのコメント

 

長時間労働が必要になる理由のうち、「業務量が多い」「仕事の繁閑の差が大きい」などが3〜4割を占めていると、厚生労働省の『令和2年版 過労死等防止対策白書』は報告しています。これは、実のところ、私たちのような医療機関も例外ではありません。

 

そこで、残業時間を把握して長時間労働の把握や業務体制の見直しを行い、業務量やスケジュールを調整することが必要であることが示唆されています。

 

平成元年7月から31年4月までのおよそ30年間にわたり、外来医療機関としての高円寺南診療所(当時)は、フリー・アクセスを基調として、予約診療は極力制限してきましたが、まさに「業務量が多い」、そして「仕事の繁閑の差が大きい」という二重の要因で、大きな負荷がかかり、ややもすれば重大な事故に繋がり兼ねないリスクの増大を意識せざるを得ませんでした。

 

こうした背景もあって、令和元年5月の改元とともに、医療機関名称を「杉並国際クリニック」に改称し、医療コンセプトを地域医療機関としてではなく、広域の専門医療機関として大胆に舵を切りました。そして、次第に、フリーアクセス制から、原則予約制とし、さらに、会員制に移行しました。

 

このような大胆なシステム改革に伴い、それまで、予測不能だった日常業務が、予測可能となり、診療のための事前の準備をすることができるようになりました。つまり、計画的・効率的な医療サービスを提供することによって、毎回の診療内容の質的向上を図ることに成功しました。

 

幸いにも、このような体制が予め定着していたため、新型コロナパンデミックに対しても無事に診療業務を継続することができたということができます。

 

医療の質の向上の礎は、何といっても相互の信頼関係の強化・促進です。
  

それによって、「業務量が多い」「仕事の繁閑の差が大きい」と言った長時間労働の二大要因が発展的に解消され、さらに、時間的、精神的な余裕を生み出すこともできました。それを、新たな創造的な取り組みに充当しているところです。
 

このような経験を医師自らが経験することによって、嘱託産業業務に対しる説得力のある、かつ効果的なサポートが可能になってきているのを実感しているところです。

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 


常陸国の万葉集歌を味わう(その2)

 

先週に引き続いて、今回も虫麻呂の歌です。私は虫麻呂の歌が大好きです。この歌は、万葉集の中の収録番号では、前回の作品の一つ前です。この作品は、私個人にとっては、最も馴染み深いものです。それは、どういうことかというと、中学・高校の6年間自宅から学校までの通学途上の程近くの歌だからです。

 

題詞の那賀郡曝井(なかぐんさらしい)とは、茨城県水戸市愛宕町の滝坂の泉であろうといわれていますが、他にもそれらしき候補の泉があります。この泉は『常陸国風土記』にも紹介されていて、村落の婦女たちが洗濯した布を曝すためこの名が付いたといわれています。

 

歌の冒頭の「三栗の」は、「那賀」に係る枕詞です。このあたりは、古来より栗の産地で、「三栗」は、一つのいがに三つの実ができる栗のことです。その真ん中の栗の意から「なか」に掛かるとされています。

 

那賀は、常陸国那珂郡です。現在の茨城県中央部で水戸市やひたちなか市を含む一帯に当ります。

 

万葉集 第9巻 1745番歌

 

作者:高橋虫麻呂、題詞:那賀郡曝井歌一首

 

左註:(右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出)

 

原文:三栗乃 中尓向有 曝井之 不絶将通 従所尓妻毛我

 

訓読:三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが

 

かな:

みつぐりの なかにむかへる さらしゐの たえずかよはむ
そこにつまもが

 

現代訳(飯嶋訳):

那賀の郷に向かって流れている清泉。
その水は絶え間なく湧き出ている。
そのように、私もそこに絶えず通ってみることにしよう。
ここを洗い場としてたくさんの女性たちが通ってきている。
その女性たちの中に、私の愛妻がいてくれたらよいのに。

 

英訳(飯嶋訳):

The clear spring flows towards the county of Naka,
its waters are continually gushing forth,
As such, I shall pass there constantly.
Many women come here to wash and bleach clothes,
I wish my beloved wife were among them.

 

前回はこちら

 

 

『ペスト』という作品は、五部構成で、各部は番号のない数章に分かれています。そこで、訳出にあたっての都合上、便宜的に章立てに番号を振っていることは、再三お断りした通りです。今回から、第一部の第5章が始まりますが、第1部は8章構成であり、まだまだ長い道のりが続くことになります。

 

なお、第5章は、会話の無い、地の文が延々と綴られていきます。そして、一つの段落は長文です。

 

本日はその最初の一段落なのですが、原文と訳出および註の比較のために、便宜的に3つのパッセージに分け、さらに小段落を設定することにし、今回は、その最初の小段落を検討することにしました。

 

 

第一部 第5章

 

Le mot de « peste » venait d’être pronouncé pour la première fois. À ce point du récit qui laisse Bernard Rieux derrière sa fenêtre, on permettra au narrateur de justifier l’incertitude et la surprise du docteur, puisque, avec des nuances, sa réaction fut celle de la plupart de nos concitoyens.
Les fléaux, en effet, son tune chose commune, mais on crois difficilement aux fléaux lorsqu’ils vous tombent sur la tête. Il y a eu dans le monde autant de pestes que de guerres. Et pourtant pestes et guerres trouvent les gens toujours aussi dépourvus. 
Le docteur Rieux était dépourvu, comme l’étaient nos concitoyens, et c’est ainsi qu’il faut comprendre aussi qu’il fut partagé entre l’inquiétude et la confiance. 

 

「ペスト」という言葉が初めて発せられた。ベルナール・リゥを物語の舞台裏に控えさせている語りのこの段階で、語り手がこの医師の不安と驚きを釈明することを読者にお許し願いたい(註1)。 程度の差こそあれ(註2)、彼の示した反応は大方の我々の仲間のそれでもあったからである。

災いは確かによくおこることなのだが、ひとたび自分の身に降りかかってきたならば(註3)、それを災いとは信じ難いものだ。この世は戦争と同じくらい多くのペストにも見舞われてきた。しかし、それにもかかわらずペストや戦争は、いつでも人々を不意打ちにするのである(註4)。

リゥ医師も、わが市民と同じように不意を打たれたのである。彼もまた疑念と確信との間で揺れ動いていたという次第については、そのように理解しておく必要がある(註5)。

 

 

(註1)

ベルナール・リゥを彼の自室の窓際に控えさせている、物語の中でのこの折に、語り手がこの医師の不安と驚きについて釈明することを読者諸氏にはお許し願いたい。
 
À ce point du récit qui laisse Bernard Rieux derrière sa fenêtre, on permettra au narrateur de justifier l’incertitude et la surprise du docteur,

 

本文中の<narrateur>は、話者とか語り手などと訳されますが、英語ではnarratorに相当し、日本語でも外来語としてナレーターというが使われています。映画・劇・放送などの語り手であるナレーターを意味します。また、物語る人の意味でも使われます。
この部分は、あたかも視覚的な場面設定がなされ、映画や劇のト書きのような書き方がされています。そして各翻訳者は、

 

「筆者」(宮崎訳)

「話者」(三野訳)

「本記録の筆者」(中条訳)

 

とそれぞれ訳出に工夫されていますが、そもそも<narrateur>とは誰なのか、という視点を慎重に検討することが大切だと考えていました。

 

たまたま、診察室でフランスのカンヌ出身のJ君が訪れ、この話をしたところ、<narrateur>とは、著者のカミュその人自身ではなく、あくまでも、物語の語り手としての役割を担う人物を別建てにして、その人物に仮託して背景を紹介しているのだというようなことを話してくれました。


その意味では、宮崎訳より三野訳が適切であり、また、中条訳はさらに含みが込められています。なぜならば、作品の中の「本記録」と作品自体を区別しているのと同時に、作家であるカミュと「記録の筆者」とを意識的に区別しているように読み取れるからです。

 

「物語のここのところで、ベルナール・リウーを彼の部屋の窓際に残したまま、筆者はこの医師のたゆたいと驚きを釈明することを許していただけると思う。」(宮崎訳)

 

「物語のこの地点で、話者としては、ベルナール・リユーを窓辺に残したまま、医師の不安と驚きを説明させてもらえればと思う。」(三野訳)

 

「物語のこの時点で、ベルナール・リューを窓辺に残したまま、本記録の筆者が、この医師のためらいと驚きを弁明することを許していただきたいと思う。」(中条訳)

 

 

(註2)

程度の差こそあれ、

avec des nuances,

 

ニュアンス<des nuances>も日本語の外来語になっていますが、カタカナ外来語の翻訳には慎重であるべきでると考えます。

しかし、外来語は本来の意味から離れて用いられがちであることから、「ニュアンス」(宮崎訳、三野訳)のようなカタカナで表記すれば良いとも限らないのではないかと考えます。

ただし、それぞれ(様々な)ニュアンス、(多少の)ニュアンス(の差)、など意味を補って訳すことによって、より適切に翻訳しようという工夫の跡を読み取ることができます。もっとも、意味の重心が、多様性(質の違い)なのか、差(量や程度の違い)なのか、ということは検討しておく価値があると思います。

 

中条訳はユニークで、三野訳と同様に、差(量や程度の違い)に着目した訳ですが、反応の程度の差(強弱)と受け止めていることが分かります。中条の翻訳は、とても音楽的に理解しており、たとえば、

notation des nuances en musique

(音楽における強弱を表す記号)

という用法例が想起されます。

 

さきほどの<narrateur>が演劇的・視覚的であるのに対して、<des nuances>は音楽的・聴覚的な感性が喚起されます。

 

「さまざまなニュアンスはあるにせよ、」
(宮崎訳)


「多少のニュアンスの差はあろうと、」
(三野訳)

 

「その反応に強弱はあったものの、」
(中条訳)

 

 

(註3)

ひとたび自分の身に降りかかってきたならば

lorsqu’ils vous tombent sur la tête.

 

日仏の類似表現のニュアンスを味わうことができる箇所です。<la tête>は頭であり、<sur la tête>なら「頭上に」(宮崎訳、中条訳)になります。

これで十分な翻訳ですが、私は「頭上にふりかかる」と訳すのではなく「身にふりかか(った)」という、三野訳を日本語としては好ましく感じます。

 

「そいつがこっちの頭上にふりかかってきたときは、」

(宮崎訳)

 

「それが自分の身にふりかかったとき、」
(三野訳)


「自分の頭上に降りかかってきたときには、」
(中条訳)

 

 

(註4)

ペストや戦争は、いつでも人々を不意打ちにするのである

pestes et guerres trouvent les gens toujours aussi dépourvus.

 

<pestes et guerres>は素直に直訳すれば「ペストと戦争」(三野訳)ですが、「ペストや戦争」(宮崎訳)との違いは、前者が限定的あるいは対比的であるのに対して、後者が例示的あるいは対等的であるところにあるのではないか、と思われます。

 

「戦争やペスト」(中条訳)では、さらに順序を入れ替えていますが、日本語では、より重要なものを後に置くことがあるからかもしれません。確かに、作品のタイトルは<La Peste>ではありますが、カミュが描こうとしているのはペストそのものではないところにある、と私は考えます。

 

そして<pestes et guerres>が主語となり、<trouver>という動詞が活用されることによって、「戦争やペスト」は擬人化され、人間に対して能動的に働き掛けます。三野訳では、このあたりが活かされています。

 

カミュはこの段落の後の方で<humanistes>(人間性)という語彙を用いています。人間性の本質は、能動的で環境支配的な存在なのか、それとも受動的で環境適応的な存在なのか、という問いを読者に投げかけてきます。そこで、私自身は、「ペストや戦争」を擬人化し、能動的に訳することを選択してみました。

 

「ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無容易な状態にあった。」
(宮崎訳)

 

「ペストと戦争は、いつも同じく、備えのできていない人びとを見つけ出す。」

(三野訳)

 

「戦争やペストが到来するとき、人間はいつも同じように無防備だったのだから、」(中条訳)

 

 

(註5)

彼が疑念と確信の間で揺れ動いていたという次第についても、そのように理解しておく必要がある。

リゥの理性は<l’inquiétude>と<la confiance>との間で揺れ動いていたことが語り手によって紹介されています。この場合<l’inquiétude>と<la confiance>は、同じ尺度上にある対立概念であると考えることができるでしょう。


「不安と信頼」(宮崎訳)、「不安と確信」(三野訳、中条訳)は、いずれも
<l’inquiétude>を「不安」と訳すことで一致しています。

それでは、「不安」の対立概念は何でしょうか。「信頼」や「確信」は、「不安」と対比関係にはありません。

むしろ、「安心」を意味する翻訳が期待されるはずです。それでは「不安と安心」では、なぜいけないのでしょうか。もし、そのように訳すならば、医師リゥは、オラン市の一般市民と全く同等になってしまい、一般市民との「ニュアンスの差」すら解消されてしまうことになってしまいます。

逆に<la confiance>の側から検討すると、これを「信頼」と訳すなら「不信」、「確信」と訳すなら「疑念」というのが相応しいように考えます。

そこで、もし「信頼と不信」と訳すならば、いったいそれは自分自身以外の何者かに対しての「信頼と不信」ということになるでしょう。これに対して「疑念と確信」と訳すならば、それは自分自身の観察に基づく情報分析に対する理性的態様ということに繋がります。
 

医師リゥは、確かに一般市民と同様に「不安と安心」の間で揺れ動いていたのでしょうが、それだけではなく、医師として自分自身の見立てについて、何度も「疑念と確信」の間を往来していた、ということを説明することが可能になるのではないでしょうか。
  

il faut comprendre aussi qu’il fut partagé entre l’inquiétude et la confiance.

「彼が不安と信頼との相争う思いに駆られていたのも、そういうふうに解すべきである。」
(宮崎訳)

 

「彼が不安と同時に確信を抱いたことも、同様に理解すべきである。」
(三野訳)

 

「彼が不安と確信のあいだでひき裂かれていたことも理解する必要がある。」

(中条訳)

 

前回はこちら

 


聖楽院主宰 テノール 

飯嶋正広

 

 

第12回レッスン(6月28日)

 

第12回レッスンは、思いがけないことがありました。岸本先生から次年度の大学院修士課程の受験の意思の有無を突然打診されました。私は全く想定していなかったため、とても驚きました。

 

私は全く情報を持っていなかったのですが、課題曲や候補曲等についてご紹介してガイダンスしていただきました。

 

仮に私が受験する場合には、

スカルラッティのイタリア歌曲
<Già il sole dal Gange>(陽はすでにガンジス川から)

 

チャイコフスキーのロマンスから1曲、

 

今後レッスン予定のラフマニノフのロマンスから1曲、

 

そしてチャイコフスキーのオペラ・アリア:

歌劇「エフゲニー・オネーギン」第2幕から、「レンスキーのアリア
(青春は遠く過ぎ去り)

 

というアドバイスを戴いて、ひたすら呆然としております。
 

受験情報も乏しく、開業医でもあるため、この年齢で大学院生を目指すことの困難は明らかです。しかし、受験するかどうかの最終決定は保留としつつ、仮に受験した場合に、合格できるような研鑽には努めたいと考えています。

 

#1.チャイコフスキー・ロマンス<нет,толькотот,ктознал...>

(憧れを知る者のみが...)

8月の門下コンサートの演奏候補曲として、第10回レッスンから稽古復活となった作品です。しかし、大学院受験準備曲としての意義が加わりました。現時点で、暗譜ができています。

 

 

#2.チャイコフスキー・ロマンス<Oтчего?...>

(何故?)

門下コンサートでの演奏候補曲であるため第10回からレッスン復活となりました。#1の作品と同様ですが、現時点で暗譜は不十分です。

 

 

#3.チャイコフスキー・ロマンス<Cредь шумного бала.>

(騒がしい舞踏会の中で...)

この曲も、同様ですが、暗譜する方針で稽古をすることになります。

 

 

#4.チャイコフスキー・ロマンス<Cеренада дон-жуана>

(ドン・ファンのセレナード)

この曲も、門下生コンサートでの演奏候補曲ですが、他の候補曲と同様に、念のため暗譜して歌えるように心がけることにしました。
   
  

 

次回第13回(7月5日)のレッスンでは、新たな月を迎えるため、私としては珍しく、チャイコフスキーの新たな2曲を自主的に選択し、歌曲の歌詞の歌詞読みのチェックを岸本先生にお願いしました。

 

すると、岸本先生は快諾してくださったのですが、その後「ラフマニノフを始めるつもりでしたが」と仰るのでした。私は、前期はチャイコフスキーのロマンスをしっかり固めて、後期からラフマニノフの手ほどきをいただくことになろうと思い込んでいたのでした。

 

そのように申し上げると、私の熱心さをとても評価してくださり、その流れで、院試のお話に繋がったのかもしれません。

 

そこで、次回のレッスンは、

Полюбила я на печаль свою (私は悲しい恋をした)の歌詞を読み、発音等のチェックをしていただく予定となりました。
  

この曲は、私がラフマニノフの作品で最初のレッスン曲になります。

 

岸本力デビュー50周年記念バス・リサイタル(6月3日)のプログラムで第一部の最後を飾るロマンスだったので印象に残っています。
   

元来女性の歌で、メゾ・ソプラノに好まれる作品ですが、岸本先生の珠玉のレパートリーの一つであると感じました。ですから、おそらく、この曲が、院試でのラフマニノフから1曲になる可能性が高いのではないかと考えました。

 

またチャイコフスキーのオペラ・アリア:

歌劇「エフゲニー・オネーギン」第2幕から、「レンスキーのアリア」
(青春は遠く過ぎ去り)

の稽古も復活することになりそうです。

 

前回はこちら

 


認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

総合診療が必要となってきた高齢者糖尿病

 

高齢者糖尿病の増加は、人口の高齢化に伴う社会問題になってきています。

それは、加齢に伴い次第にセルフケアが困難になる傾向があるからです。

 

高齢者糖尿病は、とくに、認知症と、フレイルを来しやすく、その他、転倒、うつ、低栄養等の老年症候群を約2倍来しやすくなります。

 

フレイルとは、もともと「か弱さ」や「こわれやすさ」を意味する言葉です。そして、フレイル高齢者とは「こわれやすい高齢者」、すなわち健康寿命を失いやすい高齢者であり、健康を保つための配慮が今まで以上に必要な人々です。

 

こわれやすいものは大切に扱う必要があり、通常の対応とは区別しなければなりません。 フレイル高齢者には一層の配慮が必要です。

 

また認知症に関しては、糖尿病の方はそうでない方と比べると、アルツハイマー型認知症に約1.5倍なりやすく、脳血管性認知症に約2.5倍なりやすいと報告されています。また、糖尿病治療の副作用で重症な低血糖が起きると、認知症を引き起こすリスクが高くなると言われています。

 

また、認知症とフレイルに共通の危険因子は、高血糖の他に、低血糖、大血管障害、低栄養、身体活動量低下が挙げられています。

 

人は誰でもが等しく年を取っていきますが、それでも加齢変化の個人差は大きいです。とりわけ加齢に伴って病気または心や体の状態の問題が複雑に関連しあうことにより生じる、高齢者に多くみられる症状のことを老年症候群といいます。

 

たとえば、ふらつく、つまずいてこけそうになる、だるい、眠れない、やせてくるなどの症状がそうですが、最初はたいした問題ではないけれど、だんだん生活の質や活動度が落ちてしまいます。

 

いずれにしても認知機能が低下すると糖尿病薬の内服や注射、食事や運動の管理がうまくできなくなり、糖尿病の悪化につながりやすいので問題になっています。

 

そのため、対策としては、栄養、運動、社会参加等の共通の対策を講じつつ、適切な血糖管理をはじめ、血管性危険因子の治療を継続していくことが必要です。

 

・食事療法では、目標体重を用いた適正なエネルギー(カロリー)量や充分な蛋白質やビタミン類を摂取できるようにします。


・運動療法は多要素の運動を週2回以上行うことが勧められています。

要素の運動とは、有酸素運動を基本としつつもレジスタンス(抵抗)運動その他を含む運動を意味します。

 

 

杉並国際クリニックでは、こうした目的に対して理想的な生涯エクササイズである水氣道®を週に4回(月・火・金・土)実践指導しています。

 

水氣道®では、季節ごと(3カ月に1回)のフィットネスチェック体組成・体力評価票(2022改訂版)や定期健康診断等とともに認知機能、フレイル・サルコペニア、ADL,心理状態、薬剤、社会状況を総合的に評価しています。

 

体組成

 

 

・薬物療法では、低血糖、転倒等の有害事象のリスクが小さい治療を選択します。

高齢者糖尿病では、腎機能低下が大きな問題になるため、推定糸球体濾過率(eGFR)などを指標として腎機能を定期的に評価し、薬物選択と用量調節を行っています。
  

 

重症低血糖のリスク評価も不可欠であり、低血糖やシックデイの対処に関する教育を患者だけでなく介護者にも行います。

 

シックディとは糖尿病患者が調子を崩す日のことです。

 

具体的には糖尿病の治療中に発熱、下痢、嘔吐をきたし、または食欲不振のため食事が取れない状況のことです。このような場合、血糖コントロールが良好な患者でも糖尿病性昏睡に陥る可能性があるため、十分な注意が必要です。高齢者の場合、意識障害が認知症の進行と思われることもあるため注意が必要になります。
  

高齢者糖尿病の血糖管理目標は、認知機能、ADL等の評価に基づいたカテゴリー分類と年齢、重症低血糖のリスクが危惧される薬剤使用の有無等を考慮して設定します。
  

血糖コントロール目標のカテゴリー分類を簡易に行なうために、8つの質問票からなるDASC-8(日本老年医学会2018)を活用することができます。
  

また、服薬アドヒアランス低下に対する対策として、服薬内容の単純化を検討します。 服薬回数が少なくて済む薬剤への変更や1包化、配合剤の使用、インスリンの脱強化作用(2型糖尿病の場合)など可能な方法を検討します。