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常陸國住人 

飯嶋正広

 

夭折の詩人、立原道造をしのんでNo1

 

唐突ではありますが、皆さんは、立原道造という夭逝の詩人をご存じでしょうか。この詩人については、現在でも多くの人々が魅せられています。詩人の立原道造は、水戸藩士立原氏の流れにつながる一族であるとされています。

 

安直ではありますが、立原道造について、ウィキペディアから抜粋して紹介させていただきます。

 

立原 道造 <1914年(大正3年)7月30日 - 1939年(昭和14年)3月29日>は、昭和初期に活躍し、24歳8か月で急逝した日本の詩人。建築家としての足跡も残した。別筆名(旧制一高時代の短歌投稿時に使用)に、三木祥彦・山木祥彦がある。東京帝国大学工学部建築学科卒業、学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。東大建築学科在学中の3年間、同学科より辰野賞を連続受賞、詩作では1938年に中原中也賞を受賞。
父の立原貞治郎は婿養子で、千葉県東葛飾郡新川村大字平方の狼家の出。旧名、狼貞次郎。母の立原トメ(通称 光子)は桓武平氏の一流である常陸平氏の大掾氏の一門鹿島氏庶流の立原氏。近い祖先には水戸藩の儒家で『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所がいるという(関東大震災時に家系図が焼失したため現在は確認が不可能だが、家紋は同じである)。

 

・・・・・・・・・

 

水戸市飯島町には、平安末期創建の旧村社である鹿島神社があります。古来、飯島の地は塩の産地である常陸鹿島地方から、内陸の下野國(栃木県)・上野国(群馬県)を結ぶ塩の道の要衝であったとされます。

 

飯嶋氏が現在の水戸氏飯島町に拠点を置いたのは、おそらく南北朝時代の頃からであり、安土桃山時代の終わり頃に、武家としての飯嶋本家は滅亡し、その子孫は、秋田に入封された佐竹氏の家臣として随行する者の他、水戸藩に仕えることなく、多くは帰農して近隣各地で庄屋などになったようです。

 

一方、それ以降、概ね江戸初期に、鹿島氏の庶流とされる立原氏は、本拠地の鹿島郡から塩の道沿いの要衝である飯島に転入してきた可能性があります。飯嶋家のルーツは秀郷流藤原氏とされ、これに対して立原氏の遠祖は桓武平氏であり、出自は全く異なります。しかし、それにもかかわらず、偶然ながら、いずれも「橘」という家紋であることが、興味深いです。

 

 

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外国語小説の翻訳にあたって、人名をどのように音訳するか、諸氏はどのように翻訳しているかも気になるところです。興味深いことに主人公のRieuxについては、三者三様です。

リウー(宮崎)、リユー(三野)、リュー(中条)、そこで私は、自分が最も気に入った音訳として、これからはリゥに決定することにしました。

 

フランス語の小説は代名詞を重宝していますが、人間関係を明確にするためには、より具体的な名詞で訳すことも必要だと思います。

 

とりわけ、今回のシーンの登場人物は、男性のみで3人以上が登場するので、混同しないように訳す必要もあるように感じられます。

 

カミュの小説には、登場人物の内面的な心理を、観察可能な具体的で写実的な動作を通して表現している箇所が見出されます。ですから、登場人物の会話だけでなく動作の意味するメッセージを丁寧に読み取らなければ退屈な小説であると誤解されかねないと思います。

 

なお、登場人物の発言内容も文字通りに受け止めておけばよいという代物ではなく、背景や状況を十分に弁えた上で、より深い意味や裏の意味を味わっていくことが求められているかのように感じ始めているところです。

 

 

― C’ est la police, hein?
— Oui, dit Rieux, et ne vous agitez pas. Deux ou trois formalités et vous aurez la paix.

Mais Cottard répondit que cela ne servait à rien et qu’il n’aiment pas la police. Rieux marqua de l’impatience.

 

「警察ですか、ねえ?」

- 「そうです。だけど慌てることはないですよ。型通りの手続きの二、三済ませれば、すっかり放免されます。」とリゥ医師は言うのであった。
しかし、コッタールは、そんなことをしても何の役にも立たないし、自分は警察が好きではないのだと答えた。リゥはいらだちを隠さなかった(註1)。

 

(註1)(リゥは)いらだちを隠さなかった

Rieux marqua de l’impatience

 

「リウーは、いらだった素振りを示した」(宮崎訳) 

 

「リユーはいらだちを示した。」(三野訳)

 

「リューは苛立った様子を見せた。」(中条訳)

 

この部分の訳し方は、翻訳者がリゥのキャラクターをどのように受け止めているか、また著者のカミュがリゥをどのように紹介しようとしているか、誰の視点からの描写なのかの解釈によって微妙に違いが表れてくるのではないでしょうか。

 

リゥがコッタールに苛立ちを感じていることには異論はないが、その苛立ちを敢えてコッタールに示そうとしたものか、あるいは陰性感情が表出を意図的に表出する意図ではないが、強制的に抑え込むことまではしないというスタンスなのか、私は後者の方であると考えて訳しました。

 

 

― Je ne l’adore pas non plus. Il s’agit de répondre vite et correctement à leurs questions, pour en finir une bonne fois.

Cottard se tut et le docteur retourna vers la porte. Mais le petit homme l’appelait déjà et lui prit les mains quand il fut près du lit:

 

「私だって警察が好きなわけではありません。ただ彼らの質問には手短に明確に答え、それで一度きりで片づけてしまうことです。(註2)。」

コッタールは黙り込み、リゥ医師はドアに向けて引き返した。しかし、この小柄なコッタールはいち早くも彼を呼び留め、彼がベッドに近づくとその両手をつかんで言った(註3)。

 

 

(註2)それで一度きりで片づけてしまうことです

pour en finir une bonne fois

 

「これっきりもうおしまいにするように」(宮崎訳) 

 

「一度で済ませたければ」(三野訳)

 

「これっきりで終わりになるように」(中条訳)

 

Pour une bonne foisというのは、ロワイヤル仏和辞典では、(古)い表現で、「これを最後に」という訳文が添えられています。

この慣用表現にen finirが挿入されているのですが、en(中性名詞:前節の内容を受ける)+finir(済ませる、決着をつける)の例文としては、Il veut en finir avec elle.(彼は彼女と手を切りたがっている.)などがありますそこで、やっかいなことを片付けてしまうニュアンスを活かした訳としました。

 


(註3)しかし、この小男のコッタールはいち早くも彼を呼び留め、彼がベッドに近づくとその両手をつかんでこう言った

Mais le petit homme l’appelait déjà et lui prit les mains quand il fut près du lit:
    

この一文には、翻訳上の課題が山積しています。それは三氏の訳文の比較においても明らかです。
 

「しかし、この小柄な男コタールはそれより早く彼を呼びとめ、そして寝台のそばへ来ると、その両手をとった。」(宮崎訳) 

 

「しかし、小柄なその男はすでに彼を呼んでいて、医師がベッドに近づくと、男は相手の両手を取って言った。」(三野訳)

 

「だが、小柄なコタールはすぐにリューを呼び、リューがベッドのそばまで来ると、その手を掴んだ。」(中条訳)

 

ポイントの第一は、人物を表す代名詞の処理です。直訳すれば、<その小さな男>ですが、代名詞を多用しない日本語の習慣としては不自然な感じがします。そこで<小柄なその男>⇒<小柄なコタール>⇒<小柄な男コタール>の順でより丁寧な訳となるわけですが、小柄な男とは、端的に言えば小男ということになります。

 

ポイントの第二は、コッタールの動作に表現された彼の心理をどのように理解するかということです。

その際には、Les mainsは複数形なので、片手ではなく両手に他なりません。宮崎訳や三野訳は<両手>であるのに対して、中条訳は<その手>と訳しているのは残念です。リゥ医師に対するコッタールの心理を読み解く上での重要な所作の表現なのですが、片手を掴むのと、両手を取るのでは、天地程の開きがあるように感じられます。

 

ポイントの第三は、コッタールの一連の動作の流れやタイミングです。

déjàという一見シンプルな単語は、仏文和訳的には三野訳のように「すでに」と訳されるのですがふつうです。

しかし、この単語にも動作主たるコッタールの内面が表出されているので、「それより早く」(宮崎訳)、「すぐに」(中条訳)と様々に工夫を凝らして訳されているのは納得がいき、評価に値します。

 

ポイントの第四は、文末の「:」(deux points)の処理です。

フランス語のドゥポワンは接続的な働きをします。すなわちドゥポワンの前後の節(または語句)が意味上結ばれていることを示します。

ここでは、直後にコッタールのリゥ医師に対しての問いかけの言葉が続きます。そこで、「両手を取った」で訳し終えてしまうのではなく、「男は相手の両手を取って言った。」(三野訳)と丁寧に反映させて訳出するのが良いと考えます

 

 

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聖楽院主宰 テノール 

飯嶋正広

 

 

第5回レッスン(5月10日)から第8回レッスン(5月31日)まで

 

5月10日(第5回)のレッスンは、いずれもチャイコフスキーの歌曲

 

#1.<Oтчего?...(何故?)

 慣れないロシア語の発音に伴う活舌の悪さが次第に修正され、表現をのせてレガートに歌えるようになってきました。一応の基礎ができたため、毎週の稽古はいったん終結。今後は、演奏の機会などの必要に応じて、その際におさらいすることになります。

 

 

#2.<Cредь шумного бала.(騒がしい舞踏会の中で...)

ロシア語のアクセントと拍節感がそのまま楽曲になっているように感じられてきました。まだわずかですが、馴染みになってきたロシア語がちらほら見出され、その語感と意味、イメージが音楽と結びついていくようになることを目指したいところです。

 

 

#3.<Cеренада дон-жуана(ドン・ファンのセレナード)

この曲は、大局であり、私にとってはオペラ・アリアに匹敵するといっても過言ではありません。しかしながら、芸術歌曲であるため、丁寧にレガートに歌わなければならない作品です。焦らずコツコツ、じっくりと鍛錬していくしかありません。

5月17日(第6回)から3回連続で同じ稽古プログラムで進んでいます。

 

<Oтчего?...(何故?)>は上がりになったので、発声練習が済んだら、歌曲は2曲、残りの時間でアリア、という稽古内容が続いています。

 

 

#1.歌曲<Cредь шумного бала.(騒がしい舞踏会の中で...)

 

全体を5部に分け、1部ごとに場面を構築していくイメージで稽古をしています。それぞれの場面の歌詞のキーワードを大切に扱い、心身に馴染んできたら、その単語を含んだフレーズ全体を構築する、とう方向性で試みています。

 

 

#2.歌曲<Cеренада дон-жуана(ドン・ファンのセレナード)

 

岸本先生も仰っていましたが、チャイコフスキーの歌曲の中では特異なキャラクターをもつ大曲です。もちろんロシア語の歌曲ですが、「セビリャからグラナダまで」という歌詞にも現れているように、すこぶる南欧的な雰囲気の作品です。不慣れなロシア語を、幾分なりとも馴染んできたイタリア歌曲のように歌う感覚を身につけるには格好の作品かも知れません。

 

はじめて、この曲をいただいたときには、果たして自分のレパートリーの一つにできるかどうか定かではありませんでした。私のこうした印象もあながち見当違いではなかったことが判明したのは、岸本先生が私のためにこの曲を加えてくださったときに、果たして難しすぎるのではないか、と心配してくださっていた、とのことをうかがったからです。

 

それもそのはず。この作品は岸本先生にとっても記念となる曲であって、日本音楽コンクールとチャイコフスキーコンクールのファイナルの演奏曲で、これで優勝されたとのエピソードつきだからです。そして、一言「この曲は、コンクール向けの曲です」とのこと、熱のこもったご指導に感謝申し上げています。

 

 

#3. オペラ<「エフゲニー・オネーギン」第2幕から、「レンスキーのアリア(青春は遠く過ぎ去り)」
   

私にとって、最初のロシア語の作品です。この曲との出会いは、すでに5年以上を経ています。しかし、まったく歯が立たず、放置したまま、長いブランクがありましたが、岸本先生に師事することになってから、俄然、目標が明確になって、再チャレンジ中です。
   

しかし、私の歌唱法はどうしても余分な力が抜けないため、この曲本来の芸術的味わいを表現できるようになるためには、相当の稽古を要する見込みです。岸本先生の分析では、私がこの曲が「オペラのアリアであることを過剰に意識しすぎるために、レガートに歌うことが難しくなっている」ということですが、その通りでした。歌曲のように静かに丁寧に歌えるようにならなければなりません。
   

それから、「歌いだしの声が強すぎるので、たとえフォルテと表示されていても、ピアノから歌い始めるとよい」というアドバイスも大いに役立てて、稽古の際にはアタッコ(attacco:曲の出だし)を工夫したいたいと考えています。また、「息の上に声を載せる」(sul fiato)ことの大切さを教えていただきました。私の歌い方の悪癖としては、アタッコの仕方とも深い関係があることを薄々ながら気づいてはいました。私は「息と声を同時に発する」(con fiato)タイプであるために、第一声から硬い声ではじまるため、これがレガートで美しいフレーズの完成を阻んでいたということを明確に反省しなければなりません。

 

岸本先生のご指導は、専門用語を多用せずに教えてくださるので、とても親切です。むしろ、私自身がこれまで学んできた音楽用語と照らし合わせつつ、岸本先生にご確認いただくと、「専門的にはそのように言います」という風に保証してくださることもしばしばです。
    

「どんなに優れた原石でも磨かなければ本物にはなりません。声も同じです。ですから、これからしっかりと声に磨きをかけていきましょう。」との励ましの言葉をいただきました。

 

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認定内科医、認定痛風医
アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医


飯嶋正広

 

 

肝疾患の治療薬について(No1)

 

<肝炎の予防について>

 

わが国の慢性肝炎や肝硬変・肝癌の原因の大部分はウイルス性です。C型肝炎ウイルス(HCV)が約50%、B型肝炎ウイルス(HBV)が約12%です。
 

当クリニックでは、慢性肝炎またはそのキャリア(註)の方は限られていますが、後述するように、医療従事者自身がHBV感染ハイリスクグループでもあるため、常に警戒を怠らないようにして、早期発見に努めています。

 

(註)キャリア:

免疫機能が未熟な乳幼児、透析患者さん、免疫抑制剤を使用している方などがB型肝炎ウイルスに感染すると、免疫機能がウイルスを異物と認識できないため肝炎を発症しないことがあります。その場合、ウイルスが排除されず、ウイルスを体内に保有した状態< 持続感染 >になります。このように、ウイルスを体内に保有している方を “ キャリア ”と呼びます。

私自身は、研修医療機関であった虎の門病院で、勤務早々にB型肝炎ワクチン接種を受けました。

 

 

さて、肝硬変・肝癌の原因となる慢性肝炎の発症を予防することはとても重要です。
一般に、肝炎の予防には ❶ 免疫グロブリン、❷ 肝炎ワクチン、❸ 抗ウイルス薬、などがあります。

 

❶ 免疫グロブリン:B型肝炎予防のためには、そのウイルス抗原であるHBs抗原が陽性である血液に汚染する事故が発生した場合に、その曝露者に対して、予めHB抗原抗体系統の検査をします。
そして、曝露後48時間以内に、抗HBsヒト免疫グロブリン(HBIG)を筋注します。
検査の結果、HBs抗原陰性の場合にのみ、ワクチンを接種します。
その後、6カ月間、肝機能検査、HBs抗原・抗体を定期的に検査して、肝炎発症を監視し続けます。

 

❷ 肝炎ワクチン:B型肝炎ウイルス(HBV)のワクチン接種は、母児感染やハイリスクグループ(註)の感染予防のために行います。使用するのは精製HBs抗原です。通常接種者の90%以上が免疫を獲得できます。ただし、抗体で中和できないHBV株も存在するため注意が必要です。

 

2016年よりHBVワクチンは0歳児対象の定期接種(公費)となりました。 初回、1カ月後、6カ月後と3回接種します。

 

(註)HBV感染ハイリスクグループ

・第1高リスク群:HBVキャリアの配偶者・同居者
    

・第2高リスク群:医療従事者(医師、看護師、検査技師など)
    

・第3高リスク群:消防士、救急救命士、警察官

 

 

❸ 抗ウイルス薬:C型肝炎ウイルス(HCV)陽性の血液による汚染事故後は、定期的な採血で経過観察しますが、予防的投与は推奨されていません。

ただし、HCVのRNA陽性、トランスアミナーゼの上昇が6カ月以上見られた場合に、はじめて抗ウイルス薬を投与します。

 

また、抗ウイルス薬には種々の注意点があります。

まず胎児毒性の可能性があるため、若年者では服用中に妊娠しないように注意させます。その他、

1) 副反応:汎血球減少症、頭痛、倦怠感など

 

2) 併用禁忌・注意薬:脂質異常治療薬(スタチン系)、糖尿病治療薬、高血圧治療薬(カルシウム拮抗薬、ARB)、抗不整脈薬、抗てんかん薬、睡眠薬、抗アレルギー薬など多数

 

3) 耐性株の出現(要注意)

 

4) 服用中止後の増悪(要注意)

 

 

次いで、A型肝炎の予防について、同様に確認してみます。

 

❶ 免疫グロブリン:A型肝炎流行地に抗体陰性者が駐在する場合や保育園・施設での流行時などに施行します。

市販のヒト免疫グロブリンは高力価のHVA抗体価を有しています。これを3~5カ月間隔で筋肉注射します。

 

❷ 肝炎ワクチン:A型肝炎のワクチンは副反応が少ない3回接種法を基本とします。ただし、緊急予防の場合には2回接種で予防可能となります。

 

❸ 抗ウイルス薬:A型肝炎用の抗ウイルス薬はありません。

 

 

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水氣道の3カ月周期システムについて

 

生涯エクササイズである水氣道は、稽古習慣を確立し、維持し、発展させるための仕組みをもっています。それが3カ月周期システムです。

 

3カ月周期システムが端的に表れているのが、<小審査制度>です。小審査制度とは、体験生と訓練生を対象として、稽古への参加状況や目標達成度等を評価して、昇級を吟味する制度です。3月、6月、9月、12月の下旬までに審査を実施し、翌月、4月、7月、10月、年明け1月には合格者の昇格を発表しています。

 

また小審査と期を一にして、訓練生5級(中等訓練生)および4級(高等訓練生)を対象とする<ファシリテーター認定>を実施しています。現在5つの技法のファシリテーター資格を認定しています。

 

 

訓練生になると、まずファシリテーター資格を2つ取得することを目標とします。そして、ファシリテーター資格を2つ取得した訓練生5級(中等訓練生)が、4級(高等訓練生)認定候補者となります。また、残りの3つのファシリテーター資格を取得した訓練生4級(高等訓練生)が、帽子の色を白から朱に替えて准3級(特別訓練生)を目指すための準備段階に入ります。
 

昨年は、このファシリテーター制度が確立し、今年も順調に発展しています。

 

そして、今年の課題は、半年ごとに実施される<中審査制度>に併せて実施している<インストラクター認定>です。
 

中審査の対象者は、准3級(特別訓練生)、3級(初級修錬生)、正・准2級(中等訓練生)、准1級(高等訓練生)です。インストラクター資格は現在のところ7つを予定していますが、詳細は、必要な段階になったら、改めて紹介いたします。

 

このように、水氣道では、3カ月周期で、昇級審査や技法資格授与(ファシリテーターおよびインストラクター)を行っています。

 

そのため、3カ月単位で、月ごとに甲の月(全体で同じプログラムを稽古する月)、乙の月(稽古の前半は全体稽古、後半は階級別稽古をする月)、丙の月(昇級対象者や技法資格取得予定者のための強化プログラムを軸とした稽古をする月)というローテ―トを実施していくことになります。

 

水氣道の3カ月周期システムは3カ月ローテートシステムと一体的に運用していくことによって、無理がかからず、マンネリズムに陥ることもない螺旋的な発展を目指すことが可能になることでしょう。

 

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認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

 

なぜ病気が長引くのか…発作性の症状対策

 

<痛風発作編その5>

 

・・・ふだんからの血清尿酸血のコントロールが決め手・・・

 

尿酸はプリン塩基(アデニン、グアニン)分解の最終産物です。
高尿酸血症を4大分類すると、

 

1) 腎負荷型(尿酸産生過剰型あるいは腎外排泄低下型)
尿酸合成阻害薬:主にキサンチンオキシドレダクターゼ(XOR)の阻害による酸化ストレスの低下、臓器障害の予防効果あり

 

2) 尿酸排泄低下型

 

3) 腎外排泄

 

4) 腎外排泄型

 

となります。

 

尿酸産生過剰の原因は、①食事からのプリン摂取過剰、②内因性のプリン酸性の増加、③プリン体の分解亢進などが考えられます。

 

特殊な病態としては、レッシューナイハン症候群といって、プリンサルベージ酵素(HGPRT)の完全欠損症では、プリン体産生が増加し、高尿酸血症となります。

 

また、癌化学療法時にも腫瘍細胞内のプリン体が多量に放出されるために高尿酸血症を来すことが知られています。とりわけ、腫瘍崩壊症候群といって、癌化学療法に伴う急激な高度の高尿酸血症も知られています。

 

 

痛風の治療も副作用管理が重要です。

・キサンチンオキシダーゼ阻害薬:メルカプトプリン、テオフィリンの血中濃度が上昇するため

 

・ベンズブロマロン:劇症肝炎の報告があり、投与開始後6カ月は定期的に肝機能検査を実施します。

 

・ラスブリカーゼ:主に肝障害、アナフィラキシー、溶血性貧血(G6PD欠損症など赤血球酵素異常による)があります。

 

 

<腎障害時の注意点>

通常では中等度以上の腎障害例や尿路結石保有例ないし既往例などでは尿酸生成抑制薬を用いることが多いです。アロプリノール(ザイロリック®)が多く使用されています。しかし、腎不全では、代謝産物であるオキシプリノールが増加し、副作用が重篤化することがあります。そこで中等度の腎障害まで投与量の調整は不要な、フェブキソスタット(フェブリク®)が使いやすいです。

 

また、血中尿酸濃度低下が最も強力な尿酸排泄促進薬(ユリノーム®)を使用する場合には、尿路結石を予防するために、尿アルカリ化薬である重曹(ウラリット®)を併用し、尿pHを6.0~7.0に維持します。また、選択的尿酸再吸収阻害薬であるドチラヌラド(ユリス®)が承認され、肝障害や薬物相互作用の懸念が少ない薬剤として期待されています。

 

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臨床産業医オフィス

<高円寺南労働衛生コンサルタント事務所>

 

産業医・労働衛生コンサルタント・第一種作業環境測定士・衛生工学衛生管理者

 

飯嶋正広

 

 

企業の禁煙推進戦略 No.5

 

職場は、適切な組織的対策が求められている!

 

Q5.衛生担当者からは、どのようなアプローチが求められますか?

 

禁煙サポートには、人事部と衛生管理者をはじめ衛生委員会参加者と産業医が連携して進めることが良いと思います。そして、禁煙成功者に禁煙促進員(ファシリテータ)に加わっていただくことも有効です。


安全衛生委員会の委員の中にも、当然、喫煙者の方が参加されている可能性はあります。私が、禁煙対策について地道なサポートを続けていく過程で、そうした喫煙者であった委員の方から禁煙成功のご報告を受けることがしばしばあります。

 

私のように喫煙歴のない産業医より、禁煙に成功した元喫煙者の方の方が影響力が大きいことをしばしば実感します。ですから、そうした禁煙成功者を禁煙推進者として活躍していただきことはとても有意義だと思います。

 

つまり、<善意による健康の拡大再生産>をはかることです。

そのためには、企業の衛生担当者がタバコについて情報収集することも大切です。
今では禁煙に関する有用なテキストが数多くありますので、そういった資料を活用して、企業の方には理解を深めていただくことも大切です。

 

また、経済産業省の認定制度「健康経営優良法人」の認定基準にも「受動喫煙対策」は必須項目になっています。

 

最近の高校生、大学生は吸わないことが当たり前の世代ですから「スモークフリーな職場」でないと新入社員が確保できにくくなると考えています。

 

2022年度を新たな節目の年度として、この流れの先陣を貼っていただきたいと願っております。

 

 

まとめ:企業の経営者、衛生担当者、喫煙者の方へメッセージ

 

職場の喫煙問題の解決に必要なこと、それは受動喫煙が発生しないための環境づくりです。

 

繰り返しになりますが、第一歩は、決断することです。

つまり、思い切って職場から喫煙スペースを無くしてしまうことです。
タバコが吸える環境を無くしてしまうことで「禁煙企図」が高まり、その結果、禁煙の支援になります。

 

1年間だけでもトライしてみて、支障がなければそのまま喫煙スペースを無くしてしまうのも手でしょう。

 

そして、喫煙者の方に知ってもらいたいのは「禁煙は、何歳からでも遅くない」ということです。

「もう長年タバコを吸ってきたから、今さら…」という方も多いですが、禁煙をはじめた瞬間からリスクは減少していきます。

 

禁煙して10年で心血管系疾患への影響はなくなり、15年経過すると肺がんのリスクも非喫煙者と差がなくなります。

仮に失敗しても、あきらめずに何度でもトライしてください。

 

私の禁煙指導歴は30年以上に及びますが、現在私のクリニックを受診される方で喫煙者はゼロです。私は諦めることも、匙をなげることも決してせずに、根気強くチャンスを待ちました。こうして喫煙者も全員禁煙に成功しました。ですから、禁煙の最大のコツは「成功するまでトライする」ことです。

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その9)

 

応永26年(1419)から天正18年(1590)にかけての飯島氏

 

泰平で長続きしたとされる応永の約35年間も、常陸国においては必ずしも平穏な時代ではなかったようにみられます。その後の飯島氏にとっても、主家(本家?)の江戸氏とともに水戸の近隣の支配を拡げたものの、ごく限られた期間の表面的な繁栄に過ぎなかったのではないかと見られます。とまれ、応永年間の後も、応仁の乱が終焉した文明5年(1473)をその間に挟み、およそ170年に及ぶ領主として支配していた時の流れの有様については興味深いものを感じています。

 

飯島氏が、飯島(水戸市)から勝倉(旧:勝田市、新:常陸那珂市)に本拠を移した時期は、江戸氏3代通房が水戸城を奪った応永34年(1427)以降であろうと思われます。

それは、河和田城のある河和田に隣接して飯島があるように、勝倉城は那珂川を挟んで水戸城と指呼の距離にあります。

そして、飯島氏は江戸氏の重臣であるとされますが、一族であるという資料もあります。もちろん一族が臣下になることに矛盾はありません。

 

いずれにしても、主家の江戸氏の新領となった、河和田・鯉渕・赤尾関などの地名に並んで飯島が登場していないことに疑問を感じていました。しかし、そもそも飯島が河和田の一部であると認識されていたのではないかと考えると納得がいくように思われます。

そして、飯島氏の棟梁が飯島から勝倉(城の内、台城)に移った後も、飯島には砦(飯島砦)が築かれていて、七字氏(飯島の同族か?)が部将として支配していたようです。

 

現在に続く水戸市飯島町字薬師原の七字氏について、太田亮の「姓氏家系大辞典」によれば、「悉知」姓が改められたとあります。私自身の知人にはいませんが「悉知」「七字」両姓とも茨城に多いとされる苗字です。また<茨城県水戸市飯島町(旧:悉知)発祥。記録時代不詳の地名。伝承での比定地。伝承では室町時代に称する。

同地に江戸時代にあった。茨城県水戸市三湯町では草分けと伝える。>とあります。

 

さて、応永年間から時代が降り永禄年間(1558年から1570年までの期間)に飯島七郎という者が勝倉を領しており、永禄5年(1562)8月、相馬盛胤が多珂郡に侵攻してきたとき、勝倉台の館主飯島七郎は佐竹の軍師として戦ったという説があります。

 

「佐竹秘録」に記された義重の代の家臣名簿に軍師として「小田原伊勢、飯島七郎、神長将監、藤弥衛門、安次郎兵衛、同次三郎、岡民部少輔」がみえます。

「常陸遺文」所収の金上系図に、鎌倉時代の人に「飯島七郎頼明、勝倉藤山二居」とあるが、史料の信憑性に問題があるという指摘があります。その理由として、永禄のころ、勝倉の地が佐竹氏の支配下にあったとは思われないので、たしかなことは不明である、ということです。

 

しかし、この考察が妥当でないことは、永禄5年(1562)8月に、勝倉台の館主飯島七郎が佐竹の軍師として戦った説から、飯島七郎の本拠とする勝倉が佐竹氏の支配下でなくてはならないという先入観にまどわされたものであると考えます。

永禄年間、すなわち1558(永禄元年)から1570(永禄12年)については、勝倉は水戸城に本拠を置く累代の江戸家との密接なつながりがあるため、当然、佐竹領ではありません。

永禄元年(1558)および同5年(1562)の水戸城主は、いずれも江戸氏7代当主忠通(1564死去)、また永禄12年(1570)の水戸城主は江戸氏9代当主重通(1567家督相続)でした。

 

さらに、飯島七郎の先祖は江戸氏の一族であり、当時は江戸氏の譜代の重臣であるとしても、陸奥の相馬氏が常陸国を侵攻するという非常事態において、それを迎え撃つ佐竹氏に軍師として急遽加勢することは何ら不思議ではないと考えます。

その当時の江戸氏と佐竹氏の関係も複雑であり、互いに姻戚関係となったり、江戸氏が佐竹氏に臣従したり、あるいは佐竹領を脅かしたりするなど、謀略に満ちた駆け引きが繰り広げられているからです。

 

しかし、私がここで興味深く感じられるのは、「飯島七郎頼明」と名乗る人物が、鎌倉時代に既に勝倉に居していた可能性が残されていることです。鎌倉時代は1333年(元弘3年/正慶2年)に終焉を迎えますが、常陸国飯島氏の名の初出となる飯島七郎光忠・子息宗忠の「熊野山願文」(1391)と比べても極端に大きな年代的隔たりはありません。

つまり、飯島七郎という名乗りが鎌倉期から続いてきた名跡である可能性も若干残されているのではないかということです。また、これに比べて飯島の地名(現水戸市飯島町)は、旧くは悉知と呼ばれていたことから、飯島氏が悉知を支配することで、その地を飯島と命名した可能性も残されていることになります。

 

そこで再び「勝倉今昔多抄」に立ち戻ってみたいと思います。それは、巻末の年表(勝倉年代表)がよく整理されているからです。
 

抜粋ですが、室町時代の表の中から、飯島氏関連の記述を抜粋してみます。

「1392(元中9年)南北朝合一、1427(応永34年6月2日)大掾(21世)満幹は河和田城主江戸但馬守通房に敗れ水戸城を奪われる。<勝倉関係の記録>勝邑城主持幹その子幹行大敗し、録千貫を奉り江戸氏に降る。この戦で不二佐久(藤咲)要、鹿島二郎、福平(福田)信方等18名戦死。江戸氏の一族、飯島七郎城の内に台城を築き城主となる。1561(永禄5年)佐竹義昭相馬盛胤と孫沢原に戦いこれを破る。<勝倉関係の記録>台城主飯島氏、佐竹軍の軍師となり参戦。台城主飯島氏失脚、持幹四世の孫満幹その領地を併合する。」

 

天正十八年(1590)

水戸落城時討死江戸氏家臣(常陸誌料):飯島縫殿(いいじまぬいのすけ)

天正末期の江戸氏支城砦

 


天正(1573~1592)末期は(1590頃か?)

城砦:飯島、部将:七字勘解由、

典拠:江戸旧記

 

1572年                       

勝倉城主:飯島縫殿
水戸城主:江戸通政

 

1582年

勝倉城主:飯島縫殿

水戸城主:江戸重通

 

1590年

勝倉城主:飯島縫殿

水戸城主:江戸重通


<出典:「戦国大名事典」より>

 

1572年から1590年に至る勝倉城主が飯島縫殿であることを前提とするならば、飯島縫殿は同時に七郎を名乗っていた可能性はあるのかがよくわかりません。同一人物であるとすれば、江戸家臣で勝倉城主の飯島七郎縫殿は天正十八年十二月に佐竹義宣に滅ぼされたことになります。いずれにせよ、七郎は、飯島氏の通字であるとするのが妥当なのではないかと考えます。しかも、水戸城落城時の飯島縫殿と飯島砦の部将七字勘解由は同族である可能性が高いと考えています。

 

ただし、上記の表には誤りがあるようです。1572年(元亀3年)は、9代当主重通が城主であったと考えられます。その理由は、8代当主通政が1567年(翌永禄10年)に、享年30で死去しているからです。また、通政は、1570年(永禄13年/元亀元年)に14歳で元服し、1572年には16歳になっていたからです。なお「重」の字は佐竹義重から偏諱を受けたとされます。1590年(天正18年)12月19日に重通は佐竹義重の攻撃を受け、居城の水戸城を落とされて結城晴朝の下へ落ち延びました。 慶長3年(1598年)、享年43にて死去。

 

今回をもって、常陸国飯島氏のルーツ探訪のシリーズは、いったん終了といたします。

新たな資料が入手できましたら、更なる研究を進めていきたいと考えます。

以下は、参考資料です。

 

<歴代水戸城主江戸氏通史>

江戸 通景:江戸氏2代当主。

那珂通泰の子、通高は嘉慶二年(1388)には南朝方の難台城を攻略する軍功をあげています。しかし、通高はこの難台城攻めで戦死し、その賞として子の通景は鎌倉公方氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられた。江戸氏を名乗る。因みに、飯島は河和田、鯉渕、赤尾・関に囲まれる場所に位置する。

 

江戸 通房:江戸氏3代当主。

初めは河和田城(水戸市)を本拠としていたが、応永34年(1427)水戸城主・大掾満幹が青屋祭を行うために城を離れて常陸府中に向かった隙に水戸城を占拠して自らの居城とした。その後、子・通栄を額田小野崎氏の後継者に送り込み、周辺を子弟で固める一方、守護の佐竹義人と結んだ。義人の後を巡る佐竹義俊・実定兄弟の争いに対しては山入祐義と共に実定を支持し、享徳元年(1452)に実定が常陸太田城を占拠し義俊から佐竹氏の家督を奪うと、通房は実定の補佐役としてその政権を支える役目を果たす。享徳の乱では、関東管領上杉房顕に従って古河公方足利成氏と戦い、長禄3年(1459)には、室町幕府将軍である足利義政から幕府と主君・実定への忠節を賞賛されている。但し、11月には成氏派の小田持家に敗れている。

寛正6年(1465年)、死去。享年56。

 

江戸 通長:江戸氏4代当主。

江戸通房あるいは通房の子・通秀(修理亮)の嫡男として誕生。
寛正6年(1465)、家督相続。当時の常陸守護・佐竹氏では、先々代の佐竹義人が一旦家督を譲った嫡男・義俊を廃して弟・実定を守護にした事から内紛が生じていた。通長は実定を支持していたが、実定の死後に義俊が常陸太田城に復帰して、実定の嫡男・義定は水戸城の通長を頼った。ところが、義人の死後の文明9年(1477)に義俊方の刺客が水戸城を襲撃して義定を暗殺すると、通長はこれに驚いて義俊に降伏した。その後は佐竹氏傘下として文明13年(1481)には小鶴原の戦いで小田成治を破り、続いて鹿島郡に進出するなど、常陸南東部に勢力を広げた。ところが、延徳2年(1490)に山入義藤が佐竹氏に叛旗を翻すとこれに加担した。明応3年(1494)、病没。通長には子が無かったため、家督は弟・通雅が継いだ。

 

江戸 通雅:江戸氏5代当主。

寛正4年(1463)、誕生。父は江戸通房または江戸通秀あるいは江戸通長ともされる。文明18年(1486)、大山義成と共に徳宿城主・徳宿三郎を滅ぼす。延徳2年(1490)、山入の乱で山入義藤に呼応し水戸城周辺から那珂川にかけての佐竹氏の所領を奪うも、明応元年(1492)に義藤が死ぬと岩城氏の仲介で佐竹義舜と和睦、那珂川周辺の所領を義舜に返還。翌明応3年(1494)、父または兄である通長が没したため、家督相続。以後、佐竹義舜に従属して永正元年(1504)、義舜と共に山入氏義を攻め滅ぼした。永正7年(1510)12月2日、義舜から「一家同位」の家格を認められたが、直後の12月20日に死去。享年49。

 

江戸 通泰:江戸氏6代当主。

文明18年(1486)、江戸通雅の子として誕生。永正7年(1510)、父が没すると兄・通則も先だって死去していたため家督相続。
佐竹義舜に従属して常陸南部に勢力を広げる。永正の乱では義舜と共に足利高基を古河公方に擁立して小田氏などと戦った。大永4年(1524年)には大掾忠幹や鹿島氏重臣・松本政信(右馬)と結んで鹿島義幹を攻め下総国に追放、通泰の姪婿・通幹(大掾忠幹の実弟)を鹿島氏当主に送り込み 、鹿島郡進出を図った。天文元年(1532)、大洗の小幡義清を滅ぼし、その城を奪う。しかし、鹿島郡への進出は後に大掾氏と敵対したために、その野望を十分に果たす事は出来なかった。天文4年(1535年)、死去。享年50。

 

江戸 忠通:江戸氏7代当主。

永正5年(1508年)、江戸通泰の子として誕生。天文4年(1535年)に父・通泰が没したため家督相続。佐竹氏の所領を侵略するが伊達稙宗の斡旋で佐竹義篤と和睦。その後、内紛を収拾し勢力を拡大する佐竹義篤に従属。宇留野義元の起こした部垂の乱(享禄2年(1529年)から天文9年(1540)や天文11年(1542)からの伊達氏の洞の乱に出兵。天文14年(1545)、佐竹義篤が病死すると佐竹氏に反抗、義篤の後を継いだ佐竹義昭と争う。天文19年(1550)に戸村で勝利を収めたが、翌天文20年(1551年)に降伏に追い込まれた。
後に許されて小田氏治と大掾慶幹の仲裁を行い、また弘治2年(1556)に芳賀高定の要請を受け嫡男・通政や足利義氏、佐竹義昭らと共に、壬生綱雄に宇都宮城を追放された宇都宮広綱が宇都宮城に復帰する際、援軍として参加。
晩年は嫡男・通政の健康問題に悩まされる。鹿島神宮に鎧兜一式を奉納して健康回復を願うも好転せず、やむなく嫡孫・重通を後継者としたが、永禄7年(1564)重通が9歳の頃、死去した。享年57。

 

江戸通政:江戸氏8代当主。

天文7年(1538年)、江戸忠通の子として誕生。
弘治2年(1556)、芳賀高定の要請を受け父・忠通や足利義氏、佐竹義昭らと共に、壬生綱雄に宇都宮城を追放された宇都宮広綱が宇都宮城に復帰する際、援軍として参加。しかし、通政は生まれつきの病弱で、回復の見込みが無いため廃嫡して孫・重通を後継者とするが、永禄7年(1564)に父・忠通が急死し、重通も僅か9歳であったために重通の元服までという条件で通政が当主となった。
永禄9年(1566年)、上杉謙信と佐竹義重の意見が対立した際にその仲裁を行っているが、翌永禄10年(1567年)、死去。享年30。その治世は僅か3年であった。
江戸重通:江戸氏9代当主
弘治2年(1556年)、江戸通政の嫡男として誕生。
永禄10年(1567年)、父・通政が病死したため家督を相続。この頃になると北条氏政の関東における勢力拡大が常陸にまで及び、重通は佐竹義重に半従属の形で従って北条軍の侵攻に対抗していた。永禄13年/元亀元年(1570年)、元服。「重」の字は佐竹義重から偏諱を受けたと思われる。
天正3年(1575年)、江戸氏が保護していた真言宗の僧侶に絹衣の着用を許可。これは当時、朝廷が定めた僧侶の服装規定に反するものであったため、正親町天皇と織田信長が揃って問責の使者を出した。ところが、重通はこれを逆手に取って朝廷と信長に自分を売り込み、翌年8月4日には従五位下・但馬守に補任される事になった(絹衣相論)。

しかし、北条軍の攻勢は激しく、天正6年(1578年)に重通は後北条氏と降伏に近い形で和睦した。ところが、ここでも重通は抜け目無く佐竹氏・北条氏両方に自分を売り込んで大掾氏・鹿島氏の討伐の許しを得る。

天正15年(1587年)に鹿島郡を制圧し、翌天正16年(1588年)には佐竹義重の援軍を受け大掾清幹を降伏させた。

だが、こうした急激な拡大路線によって負担を強いられた神生氏など家臣団が離反し始めて家中は分裂、江戸氏は急速に衰退していく。

また、その後も江戸氏と大掾氏の対立は収まらなかったとみられ、天正18年(1590年)の小田原征伐に際して、大掾清幹は豊臣秀吉の命に応じて出陣する佐竹義宣に対して秀吉への詫言(謝罪)を依頼する書状を送っている。実は重通も同様の動きを見せており、近世以来言われてきた「江戸・大掾両氏は北条氏と結んで参陣しなかった」という説は事実ではなく、江戸氏・大掾氏ともに豊臣方について出陣する意向はあったものの、留守中、相手側による攻撃を互いに恐れて出陣できず、同盟国である佐竹義宣らに秀吉への執り成しを望んでいたのが実情であったと考えられている。
しかし、ここにおいて佐竹義宣はこれを常陸統一の好機と捉えて江戸氏・大掾氏らの執り成し要請を黙殺し、8月1日に秀吉から常陸全域54万石の安堵を受けた。

これにより、同年12月19日に重通は佐竹義重の攻撃を受け、居城の水戸城を落とされて結城晴朝の下へ落ち延びた。佐竹軍はそのまま南下して府中城を攻略し、大掾氏も滅ぼした。

慶長3年(1598年)、死去。享年43。

 

重通の子・水戸宣通は越前国の結城秀康に仕えた。

 

前回はこちら

 

本日の物語には、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」第一幕「冷たき手を」を連想させる描写を見出しました。孤独に生きる人は対話の相手を求めるのものですが、きっかけが必要です。都市生活にあっては、なかなかそれもままならないことが多いのではないでしょうか。

 

 

― Il a frappé hier à ma porte, dit Grand, pour me demander des allumettes. Je lui ai donné ma boîte. Il s’est excusé en me disant qu’entre voisins... Puis il m’a assure qu’il me rendrait ma boîte. Je lui ai dit de la garder.

Le commissaire demanda a l’employe si Cottard ne lui avait pas paru bizarre.

「彼は昨日、私の部屋のドアをノックして、マッチを貸してほしいと言ってきたんです。私は一箱を渡しました。ご近所のよしみで......とか何とか申し訳なさそうに言い淀んでいました(註1)。そして、マッチは必ずお返ししますのでと言うものですから、それはよいから取っておいてください、と言ったんです。」とグランは語った。

警部は、コタールの様子に変ったところがなかったかと、吏員であるグランに(註2)尋ねた。

 

(註1)ご近所のよしみで......とか何とか申し訳なさそうに言いました

Il s’est excusé en me disant qu’entre voisins...

 

「どうも悪いんだが、まあ近所同士だからっていうようなことを言ってましたっけ。」(宮崎訳)

 

「彼は言い訳して、近所に住んでいるからなんとか……」(三野訳)

 

「申し訳ないが隣同士のよしみで、とかんとか言って……」(中条訳)

 

 

(註2)吏員であるグランに 

a l’employe
    

「グランに」(宮崎訳、三野訳、中条訳)
    

いずれの翻訳者も固有名詞であるグランを、職業名の代わりに用い ています。しかし、警部にとって職務質問をする相手である事件関係者が不特定の個人であるグラン氏というよりも、地方自治体の吏員であるグラン氏であるということが大切ではないかと考えます。

 

 

Ce qui m’a paru bizarre, c’est qu’il avait l’air de vouloir engager conversation. Mais moi j’étais en train de travailler.
Grand se tourn avers Rieux et ajouta, d’un air embarrassé:
― Un travail personnel.

「私が妙だと思ったのは、彼が対話をはじめたがっているように見えた(註3)ことです。でも、私は仕事の最中だったものですから。」
グランはリウ医師の方を向き、きまり悪そうにこう付け加えた。
「個人的な雑用だったのですが(註4)。」

 

(註3)対話のやりとりを始めたがっているように見えた

il avait l’air de vouloir  engager conversation.

 

「なんだか話し相手でも欲しがっているような様子だった」(宮崎訳)

 

「彼が話をしたがっているように見えたことです」(三野訳)

 

「話し相手が欲しそうに見えたことですね」(中条訳)
  

コタールがグランとのみ会話したかったのか、人恋しさのあまり、たまたま隣人であったためにグランとの対話を始めたいと思っていたのかについては、この段階ではわかりません。そのため、ここでは三野訳が良いのではないかと思います。ただし、私はコタールがグランとのやりとりをはじめるきっかけを探っている描写であると解釈しています。

 

 

(註4)個人的な雑用だったのですが

Un travail personnel.

 

「個人的な仕事なんですがね」(宮崎訳)

 

「個人的な仕事なんですが」(三野訳)

 

「個人的な仕事だったんですが」(中条訳)

 

宮崎訳や三野訳では、グラン氏の気持ちを伝えることは難しいのではないかと思います。中条訳では、グラン氏の仕事は、さしたる重要な仕事でなかったにもかかわらず、コタールとの関りを避けてしまったことへの忸怩たる思いというニュアンスが感じられます。

 

Le commissaire voulait voir cependant le malade. Mais Rieux pensait qu’il valait mieux préparer d’abord Cottard à cette visite. Quand il entra dans la chambre, ce dernier, vêtu seulement d’une flanelle grisâtre, était dressé dans son lit et tourné vers la porte avec une expression d’anxiété.

ともかく警部は病人に面会することを望んでいた。しかし、リウ医師はまずコタールにこの会見を受けるにあたって心の準備をさせることが先決だと考えた(註5)。リウが部屋に入っていくと、コタールは灰色がかったフランネルの下着を身にまとったきりで、ベッドの上に身を起こし、不安気な表情でドアの方を向き直っていた(註6)。

 

(註5)この会見を受けるにあたって心の準備をさせることが先決だと考えた

Rieux pensait qu’il valait mieux préparer d’abord Cottard à cette visite.

 

「まずコタールにこの会見の心構えをさせておいたほうがいいと考えた」(宮崎訳)

 

「まずコタールにこの訪問に対する心の準備をさせるほうが良いと考えた。」(三野訳)

 

「あらかじめコタールに心の準備をさせたほうがいいと考えた」(中条訳)
各氏の翻訳には本質的な相違はないようです。

 

(註6)ドアの方を向き直っていた

tourné vers la porte avec une expression d’anxiété.

 

「扉口のほうを振り向いた」(宮崎訳)

 

「ドアの方を向いていた」(三野訳)

 

「ドアの方を・・・振り向いた」(中条訳)
 

宮崎訳や中条訳では、コタールは顔だけをドアの方へ向けた、という顔の動作という動的解釈になります。これに対して、三野訳では、体全体がドアの方を向いていた、という静的解釈になります。ベッドの上で身を起こしているコタールのいで立ちは、医師の診察を今か今かと準備して待つ入院患者の様でもあります。

 

前回はこちら

 

 


聖楽院主宰 テノール 

飯嶋正広

 

武蔵野音大でのレッスン中にNHKから(5月24日)

 

5月24日12時40分からの岸本力先生の個人レッスンは、少し早めに始めてくださいました。

 

6月3日(金)に日経ホールで、岸本先生のリサイタルがあることの確認や、NHKの取材があったこと、その他、8月22日(月)に練馬のゆめりあホールで開催される門下生コンサートでの私の歌唱予定曲の相談などをしていました。

 

私はすべてロシア物で統一し、歌曲のみであれば3曲、アリア1曲を含めれば、歌曲も1曲ということを承りました。現在レッスン中の曲の中からチョイスすることになるため、前期のレッスンの総決算という位置づけを兼ねることになろうかと思います。

 

その後、定例の発声練習が済んで、王さんのピアノ伴奏によるレッスンが始まり、2曲目に取り組んでいるところでした。

 

岸本先生の携帯電話に、NHKから最終打合せの連絡のため、数分間のレッスン中断となりました。当日18:00からのラジオ放送が予定されているとのことでした。

 

レッスンから戻り午後の診療が一段落したところで、NHKのニューズウェッブを検索したところ、すでに案内が掲載されておりました。

 

今回は、その報道内容を御紹介いたします。

 

 

NHK NewsWeb(首都圏)

 

声楽家 ロシア音楽歌っていいのか苦悩も“歌で平和訴えたい”

05月24日 16時23分

 

 

「ロシアの音楽を歌い続けていいのか」。

 

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から3か月、日本でロシア音楽の普及に取り組んできた声楽家は、苦悩しながらも、歌うことを通じて平和を訴えたいと考えています。

 

都内に住む声楽家の岸本力さん(74)は、長年、ロシア音楽の普及に取り組み、その功績をロシアから表彰されたこともあるということです。

 

しかし、ウクライナへの軍事侵攻が長期化するなか、ロシア音楽の演奏会で集客が落ち込むなど、影響が出ていると言います。

 

さらに、30年以上指導を続けてきた東京・練馬区にあるロシア音楽の合唱団でも、一部のメンバーから「ロシアの音楽を歌いたくない」という声が上がり、当面、日本の歌を練習することになったということです。

 

岸本さん自身も、ウクライナでの凄惨な映像を目にすることで、「ロシア音楽を歌い続けていいのだろうか」と気持ちがゆらいだと言います。

 

岸本さんは、苦悩しながらも、来月の演奏会の準備をしていて、そこではウクライナの詩人の詩にロシアの作曲家が曲をつけた歌を歌うことを決めたと言います。

 

2つの国を感じることができる曲を披露することで、“音楽に罪はなく、国境もない”という気持ちを表現したい。そう考えています。


岸本さんは「“今はロシア音楽を聞きたくない”という気持ちも理解できます。戦争には反対ですが、ロシアの音楽に罪はなく、私の歌を通して、平和につながってほしいという思いで、使命感を持って歌い続けたい」と話しています。