故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 

夭折の詩人、立原道造をしのんでNo1

 

唐突ではありますが、皆さんは、立原道造という夭逝の詩人をご存じでしょうか。この詩人については、現在でも多くの人々が魅せられています。詩人の立原道造は、水戸藩士立原氏の流れにつながる一族であるとされています。

 

安直ではありますが、立原道造について、ウィキペディアから抜粋して紹介させていただきます。

 

立原 道造 <1914年(大正3年)7月30日 - 1939年(昭和14年)3月29日>は、昭和初期に活躍し、24歳8か月で急逝した日本の詩人。建築家としての足跡も残した。別筆名(旧制一高時代の短歌投稿時に使用)に、三木祥彦・山木祥彦がある。東京帝国大学工学部建築学科卒業、学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。東大建築学科在学中の3年間、同学科より辰野賞を連続受賞、詩作では1938年に中原中也賞を受賞。
父の立原貞治郎は婿養子で、千葉県東葛飾郡新川村大字平方の狼家の出。旧名、狼貞次郎。母の立原トメ(通称 光子)は桓武平氏の一流である常陸平氏の大掾氏の一門鹿島氏庶流の立原氏。近い祖先には水戸藩の儒家で『大日本史』を編纂した立原翠軒、画家立原杏所がいるという(関東大震災時に家系図が焼失したため現在は確認が不可能だが、家紋は同じである)。

 

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水戸市飯島町には、平安末期創建の旧村社である鹿島神社があります。古来、飯島の地は塩の産地である常陸鹿島地方から、内陸の下野國(栃木県)・上野国(群馬県)を結ぶ塩の道の要衝であったとされます。

 

飯嶋氏が現在の水戸氏飯島町に拠点を置いたのは、おそらく南北朝時代の頃からであり、安土桃山時代の終わり頃に、武家としての飯嶋本家は滅亡し、その子孫は、秋田に入封された佐竹氏の家臣として随行する者の他、水戸藩に仕えることなく、多くは帰農して近隣各地で庄屋などになったようです。

 

一方、それ以降、概ね江戸初期に、鹿島氏の庶流とされる立原氏は、本拠地の鹿島郡から塩の道沿いの要衝である飯島に転入してきた可能性があります。飯嶋家のルーツは秀郷流藤原氏とされ、これに対して立原氏の遠祖は桓武平氏であり、出自は全く異なります。しかし、それにもかかわらず、偶然ながら、いずれも「橘」という家紋であることが、興味深いです。