アルベール・カミュ作 『ペスト』を読むNo32

 

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本日の物語には、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」第一幕「冷たき手を」を連想させる描写を見出しました。孤独に生きる人は対話の相手を求めるのものですが、きっかけが必要です。都市生活にあっては、なかなかそれもままならないことが多いのではないでしょうか。

 

 

― Il a frappé hier à ma porte, dit Grand, pour me demander des allumettes. Je lui ai donné ma boîte. Il s’est excusé en me disant qu’entre voisins... Puis il m’a assure qu’il me rendrait ma boîte. Je lui ai dit de la garder.

Le commissaire demanda a l’employe si Cottard ne lui avait pas paru bizarre.

「彼は昨日、私の部屋のドアをノックして、マッチを貸してほしいと言ってきたんです。私は一箱を渡しました。ご近所のよしみで......とか何とか申し訳なさそうに言い淀んでいました(註1)。そして、マッチは必ずお返ししますのでと言うものですから、それはよいから取っておいてください、と言ったんです。」とグランは語った。

警部は、コタールの様子に変ったところがなかったかと、吏員であるグランに(註2)尋ねた。

 

(註1)ご近所のよしみで......とか何とか申し訳なさそうに言いました

Il s’est excusé en me disant qu’entre voisins...

 

「どうも悪いんだが、まあ近所同士だからっていうようなことを言ってましたっけ。」(宮崎訳)

 

「彼は言い訳して、近所に住んでいるからなんとか……」(三野訳)

 

「申し訳ないが隣同士のよしみで、とかんとか言って……」(中条訳)

 

 

(註2)吏員であるグランに 

a l’employe
    

「グランに」(宮崎訳、三野訳、中条訳)
    

いずれの翻訳者も固有名詞であるグランを、職業名の代わりに用い ています。しかし、警部にとって職務質問をする相手である事件関係者が不特定の個人であるグラン氏というよりも、地方自治体の吏員であるグラン氏であるということが大切ではないかと考えます。

 

 

Ce qui m’a paru bizarre, c’est qu’il avait l’air de vouloir engager conversation. Mais moi j’étais en train de travailler.
Grand se tourn avers Rieux et ajouta, d’un air embarrassé:
― Un travail personnel.

「私が妙だと思ったのは、彼が対話をはじめたがっているように見えた(註3)ことです。でも、私は仕事の最中だったものですから。」
グランはリウ医師の方を向き、きまり悪そうにこう付け加えた。
「個人的な雑用だったのですが(註4)。」

 

(註3)対話のやりとりを始めたがっているように見えた

il avait l’air de vouloir  engager conversation.

 

「なんだか話し相手でも欲しがっているような様子だった」(宮崎訳)

 

「彼が話をしたがっているように見えたことです」(三野訳)

 

「話し相手が欲しそうに見えたことですね」(中条訳)
  

コタールがグランとのみ会話したかったのか、人恋しさのあまり、たまたま隣人であったためにグランとの対話を始めたいと思っていたのかについては、この段階ではわかりません。そのため、ここでは三野訳が良いのではないかと思います。ただし、私はコタールがグランとのやりとりをはじめるきっかけを探っている描写であると解釈しています。

 

 

(註4)個人的な雑用だったのですが

Un travail personnel.

 

「個人的な仕事なんですがね」(宮崎訳)

 

「個人的な仕事なんですが」(三野訳)

 

「個人的な仕事だったんですが」(中条訳)

 

宮崎訳や三野訳では、グラン氏の気持ちを伝えることは難しいのではないかと思います。中条訳では、グラン氏の仕事は、さしたる重要な仕事でなかったにもかかわらず、コタールとの関りを避けてしまったことへの忸怩たる思いというニュアンスが感じられます。

 

Le commissaire voulait voir cependant le malade. Mais Rieux pensait qu’il valait mieux préparer d’abord Cottard à cette visite. Quand il entra dans la chambre, ce dernier, vêtu seulement d’une flanelle grisâtre, était dressé dans son lit et tourné vers la porte avec une expression d’anxiété.

ともかく警部は病人に面会することを望んでいた。しかし、リウ医師はまずコタールにこの会見を受けるにあたって心の準備をさせることが先決だと考えた(註5)。リウが部屋に入っていくと、コタールは灰色がかったフランネルの下着を身にまとったきりで、ベッドの上に身を起こし、不安気な表情でドアの方を向き直っていた(註6)。

 

(註5)この会見を受けるにあたって心の準備をさせることが先決だと考えた

Rieux pensait qu’il valait mieux préparer d’abord Cottard à cette visite.

 

「まずコタールにこの会見の心構えをさせておいたほうがいいと考えた」(宮崎訳)

 

「まずコタールにこの訪問に対する心の準備をさせるほうが良いと考えた。」(三野訳)

 

「あらかじめコタールに心の準備をさせたほうがいいと考えた」(中条訳)
各氏の翻訳には本質的な相違はないようです。

 

(註6)ドアの方を向き直っていた

tourné vers la porte avec une expression d’anxiété.

 

「扉口のほうを振り向いた」(宮崎訳)

 

「ドアの方を向いていた」(三野訳)

 

「ドアの方を・・・振り向いた」(中条訳)
 

宮崎訳や中条訳では、コタールは顔だけをドアの方へ向けた、という顔の動作という動的解釈になります。これに対して、三野訳では、体全体がドアの方を向いていた、という静的解釈になります。ベッドの上で身を起こしているコタールのいで立ちは、医師の診察を今か今かと準備して待つ入院患者の様でもあります。