アルベール・カミュ作 『ペスト』を読むNo31

 

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この作品を私が翻訳で読んだとするならば、多くのことに気が付かないまま読了してしまったのではないかと感じています。また、原文で読むには、相当な時間を要しても、全体の流れがつかめなくなってしまっていたかもしれません。少しずつではありますが、このようなスタイルでじっくりと翻訳を試みながら読むことなしには、カミュのこの作品を深く味わうことができなかったのではないかと、ますます感じております。


とにかく、今回も、この作品は、読者に実に多くの注意力を要求しています。うっかりとは読み進めることができないミステリアスな推理小説のようでもあります。そして、それには、科学的な、さらには臨床医学的な論理的推理作業の動員までもが喚起されつつあります。

 

 

― Je n’ai eu que deux conversations avec lui. Il y a quelques jours, j’ai renversé sur le palier une boîte de craies que je ramenais chez moi. Il y avait des craies rouges et des craies bleues. À ce moment, Cottard est sorti sur le palier et m’a aidé à les ramasser. Il m’a demandé à quoi servaient ces craies de différentes couleurs.

 

Grand lui avait alors expliqué qu‘il essayait de refaire un peu de latin. Depuis le lycées, ses connaissance s’étaient estompées.

「あの方と言葉を交わしたのはまだ二度だけです。何日か前、チョークの箱を自宅に持ち帰ろうとして階段の踊り場でひっくり返してしまったんです。赤と青のチョークを入れていました。その時、コタールさんが踊り場に出てきて拾うの手伝ってくれました。彼には色違いのチョークを何に使うのかと聞かれました。

 

グランは、そこでラテン語の勉強をし直そうと思っているのだと話して聞かせた。リセを卒業して以来、その知識がすっかり薄らいできたからだ。

 

 

― Oui, dit-il au docteur, on m’a assuré que c’etait utile pour moeux connaître le sens des mots français.

Il écrivait donc des mots latins sur son tableau. Il recopiait à la craie bleue la partie des mots qui changeait suivant les déclinaisons et les conjugaisons, et, à la craie rouge, celle qui ne changeait jamais.

「そうなんです」とグランはリウ医師に言った。「フランス語の単語の意味をもっとよく知るのには、それが役立つと聞いたものですから」

そこで彼は、ラテン語の単語をいくつか黒板に書くことにしていた。単語の語尾変化や活用によって変化する部分を青チョークで、変化しない部分を赤チョークで書き取っていた。

 

 

― Je ne sais pas si Cottard a bien compris, mais il a paru intéressé et m’a demandé une craie rouge. J’ai été un peu surprise mais après tout... Je ne pouvais pas deviner, bien sûr, que cela servirait son projet.

Rieux demanda quel était le sujet de la deuxième conversation. Mais, accompagné de son secrétaire, le commissaire arrivait qui voulait d’abord entendre les declarations de Grand. Le docteur remarqua que Grand, parlant de Cottard, l’appelait toujours « le désespéré ». Il employa même à un moment l’expression « résolution fatale ». Ils discutèrent sur le motif de suicide et Grand se montra tatillon sur le choix des termes. On s’arreta enfin sur les mots « chagrins intimes ». Le commissaire demanda si rien dans l’attitude de Cottard ne laissait prévoir ce qu’il appelait « sa détermination ».

「コタールさんが理解できたかどうかはわかりませんが、彼の興味を引いたようで、私に赤いチョークを一本くれと言うのでした。ちょっと驚きましたが、結局は...。もちろん、それが彼の企てに使われるなどとは思いもつかなかったものですから。(註1)

リウ医師は、二回目の会話がどんな話題だったのかを尋ねた。しかし、ちょうど警部(註2)が事務官を伴って到着し、グランの供述を先に聞きたいと望んだ。リウ医師は、グランがコタールのことを話すときには決まって「絶望した人」(註3)と言うことに気がついた。

グランはある時には「決死の解決法」(註4)という表現まで使っていた。グランと警部は自殺の動機について議論したが、グランは言葉の選び方について細かなこだわりを示した。最終的には、「内的苦悶」(註5)という表現にたどり着いた。警部は、コタールの態度の中に、グランがいうところの「彼の最期決断」(註6)をうかがわせるものが何もなかったか、と尋ねた。

 

(註1)まさか、それが彼の企てに使われることになろうなどとは思いもつかなかったものですから。

Je ne pouvais pas deviner, bien sûr, que cela servirait son projet.

bien sûr(もちろん)が否定の文脈で用いられていますが、この場合「まさか」と訳すことですっきりします。また、グラントはコタールに「色違いのチョークを何に使うのかと聞かれてその目的を説明しましたが、逆にコタールは赤いチョークを所望した際にグラントに使用目的を質問しませんでした。グラントは赤いチョークを、フランス語の単語の語尾変化や活用によって「変化しない部分(語幹)を書くために用いていると説明しています。私はこの「変化しない部分」ということに秘められた象徴的な何かが隠されているような予感がします。


またグラントは、コタールの自殺未遂事件とのかかわりで、供述しています。つまり、コタールの自殺の企てに関する供述です。コタールがグラントに赤いチョークを所望した段階で、コタールにはすでに自殺企図を抱いていたのかどうかまでは読み取れませんが、おそらくグラントにとっても謎だったのではないでしょうか。すでに自殺企図があったのであれば、その企図を「見抜けなかった」ことになり宮崎訳が妥当します。

すなわち、

「私はもちろん、それがあの人の計画に役立つなんてことまでは見抜けなかったわけで」(宮崎訳)

しかし、その時点で自殺企図がなければ「予想もしていない」ことになり三野訳に傾きます。

 

「もちろん、それがあの人のやろうとしていたことに役立つとは予想もしていませんでした」(三野訳)

 

これに対して、所詮、コタールがその時点で自殺企図があったかどうかは「分からない」あるいは「分かりようもない」というのであれば、

 

「まさかそのときは、チョークを何に使うつもりかなんて分かりませ んでしたから」(中条訳)

 

という訳が良く対応しますが、そもそも、自殺企図の形成時期がどの段階であるにせよ、赤いチョークを自殺行動に意図的に結び付けていたのか、思いがけなく偶然に、あるいは無意識に用いていたのかについては、この段階では謎であるといえるのではないでしょうか。

 

(註2)警部 

le commissaire 

この訳出は各人各様ですが、前出の訳語を踏襲するか、訳し分けるかに注目すると、「警官」(宮崎訳)、「警察署長」(三野訳)は踏襲し、中条訳では、前回が「警察の責任者」今回は「警視」としています。私は、統一的に「警部」と訳しました。

 

(註3)「絶望した人」

« le désespéré »

「絶望に駆られたあの人」(宮崎訳)、「絶望した人」(三野訳)、「絶望したあの人」(中条訳)と多少の違いがありますが、私はシンプルな三野訳と同じです。

 

(註4)「必死の決意」

« résolution fatale »

「宿命的な決意」(宮崎訳、三野訳)、「運命的な決意」(中条訳)

「宿命」とか「運命」とかよりも、コタールは自殺未遂をはかったのですから、もっと直接的に「死」に結ぶ訳語が相応しく感じます。

 

(註5)「秘められた心痛」
« chagrins intimes »

「内的な悲嘆」(宮崎訳)、「内心の苦悩」(三野訳)、「内面的な悲しみ」(中条訳)。三者三様ですが、悲嘆にせよ苦悩にせよ内的なものである ことから、intime(s)の意味を、より分かりやすく訳出するならば、外部から、あるいは第三者による外見からの観察では気づかれない性質のものであることが示唆されます。そこで、私はまず<秘められた(内なる)心痛>と受け取って、あえて(内なる)を除きました。心痛としたのは、痛みは主観的な個人の内なる感覚であって、他者には感じることができないものだからです。(註1)で考察した「謎」との関係でも、<秘められた自殺動機>というテーマが浮上してくるように感じられます。

 

(註6)「彼の最期決断」
« sa détermination »

「この男の最期的決意」(宮崎訳)、「重大な決意」(三野訳)、「彼の最終的決断」(中条訳)に対して、「最終」よりも、命が終わる死に際を意味する「最期」という訳語がよりふさわしく思われます。黒板に赤いチョークで書き残された、いわば、遺書とでもいうべきallees fleurís 「花咲く小道」という文字から、私たちは何を連想するでしょうか。

 

私は、まず血で書かれた文字を連想しました。そして生と死の分岐点を想起します。
ただし、それよりも、花咲く小道の花は何の花なのでしょうか。その花の色が赤であるとすれば、赤い花の花言葉を確認したくなりますが、花の種類によって様々であることが分かります。

 

ポジティブなものが多いですが、ネガティブなものの例としては、赤いアスター(変化を好む)、赤いシクラメンやヒヤシンス(嫉妬)、赤いヒガンバナ(悲しい思い出、再会、あきらめ、転生)などがあります。グラントは赤いチョークはフランス語の語幹とおもわれる変化しない部分を書くために用いていたことと結びつけて読み解くことの可否については、今後の物語の展開に待ちたいと思います。