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『ペスト』という作品は、五部構成で、各部は番号のない数章に分かれています。そこで、訳出にあたっての都合上、便宜的に章立てに番号を振っていることは、再三お断りした通りです。今回から、第一部の第5章が始まりますが、第1部は8章構成であり、まだまだ長い道のりが続くことになります。

 

なお、第5章は、会話の無い、地の文が延々と綴られていきます。そして、一つの段落は長文です。

 

本日はその最初の一段落なのですが、原文と訳出および註の比較のために、便宜的に3つのパッセージに分け、さらに小段落を設定することにし、今回は、その最初の小段落を検討することにしました。

 

 

第一部 第5章

 

Le mot de « peste » venait d’être pronouncé pour la première fois. À ce point du récit qui laisse Bernard Rieux derrière sa fenêtre, on permettra au narrateur de justifier l’incertitude et la surprise du docteur, puisque, avec des nuances, sa réaction fut celle de la plupart de nos concitoyens.
Les fléaux, en effet, son tune chose commune, mais on crois difficilement aux fléaux lorsqu’ils vous tombent sur la tête. Il y a eu dans le monde autant de pestes que de guerres. Et pourtant pestes et guerres trouvent les gens toujours aussi dépourvus. 
Le docteur Rieux était dépourvu, comme l’étaient nos concitoyens, et c’est ainsi qu’il faut comprendre aussi qu’il fut partagé entre l’inquiétude et la confiance. 

 

「ペスト」という言葉が初めて発せられた。ベルナール・リゥを物語の舞台裏に控えさせている語りのこの段階で、語り手がこの医師の不安と驚きを釈明することを読者にお許し願いたい(註1)。 程度の差こそあれ(註2)、彼の示した反応は大方の我々の仲間のそれでもあったからである。

災いは確かによくおこることなのだが、ひとたび自分の身に降りかかってきたならば(註3)、それを災いとは信じ難いものだ。この世は戦争と同じくらい多くのペストにも見舞われてきた。しかし、それにもかかわらずペストや戦争は、いつでも人々を不意打ちにするのである(註4)。

リゥ医師も、わが市民と同じように不意を打たれたのである。彼もまた疑念と確信との間で揺れ動いていたという次第については、そのように理解しておく必要がある(註5)。

 

 

(註1)

ベルナール・リゥを彼の自室の窓際に控えさせている、物語の中でのこの折に、語り手がこの医師の不安と驚きについて釈明することを読者諸氏にはお許し願いたい。
 
À ce point du récit qui laisse Bernard Rieux derrière sa fenêtre, on permettra au narrateur de justifier l’incertitude et la surprise du docteur,

 

本文中の<narrateur>は、話者とか語り手などと訳されますが、英語ではnarratorに相当し、日本語でも外来語としてナレーターというが使われています。映画・劇・放送などの語り手であるナレーターを意味します。また、物語る人の意味でも使われます。
この部分は、あたかも視覚的な場面設定がなされ、映画や劇のト書きのような書き方がされています。そして各翻訳者は、

 

「筆者」(宮崎訳)

「話者」(三野訳)

「本記録の筆者」(中条訳)

 

とそれぞれ訳出に工夫されていますが、そもそも<narrateur>とは誰なのか、という視点を慎重に検討することが大切だと考えていました。

 

たまたま、診察室でフランスのカンヌ出身のJ君が訪れ、この話をしたところ、<narrateur>とは、著者のカミュその人自身ではなく、あくまでも、物語の語り手としての役割を担う人物を別建てにして、その人物に仮託して背景を紹介しているのだというようなことを話してくれました。


その意味では、宮崎訳より三野訳が適切であり、また、中条訳はさらに含みが込められています。なぜならば、作品の中の「本記録」と作品自体を区別しているのと同時に、作家であるカミュと「記録の筆者」とを意識的に区別しているように読み取れるからです。

 

「物語のここのところで、ベルナール・リウーを彼の部屋の窓際に残したまま、筆者はこの医師のたゆたいと驚きを釈明することを許していただけると思う。」(宮崎訳)

 

「物語のこの地点で、話者としては、ベルナール・リユーを窓辺に残したまま、医師の不安と驚きを説明させてもらえればと思う。」(三野訳)

 

「物語のこの時点で、ベルナール・リューを窓辺に残したまま、本記録の筆者が、この医師のためらいと驚きを弁明することを許していただきたいと思う。」(中条訳)

 

 

(註2)

程度の差こそあれ、

avec des nuances,

 

ニュアンス<des nuances>も日本語の外来語になっていますが、カタカナ外来語の翻訳には慎重であるべきでると考えます。

しかし、外来語は本来の意味から離れて用いられがちであることから、「ニュアンス」(宮崎訳、三野訳)のようなカタカナで表記すれば良いとも限らないのではないかと考えます。

ただし、それぞれ(様々な)ニュアンス、(多少の)ニュアンス(の差)、など意味を補って訳すことによって、より適切に翻訳しようという工夫の跡を読み取ることができます。もっとも、意味の重心が、多様性(質の違い)なのか、差(量や程度の違い)なのか、ということは検討しておく価値があると思います。

 

中条訳はユニークで、三野訳と同様に、差(量や程度の違い)に着目した訳ですが、反応の程度の差(強弱)と受け止めていることが分かります。中条の翻訳は、とても音楽的に理解しており、たとえば、

notation des nuances en musique

(音楽における強弱を表す記号)

という用法例が想起されます。

 

さきほどの<narrateur>が演劇的・視覚的であるのに対して、<des nuances>は音楽的・聴覚的な感性が喚起されます。

 

「さまざまなニュアンスはあるにせよ、」
(宮崎訳)


「多少のニュアンスの差はあろうと、」
(三野訳)

 

「その反応に強弱はあったものの、」
(中条訳)

 

 

(註3)

ひとたび自分の身に降りかかってきたならば

lorsqu’ils vous tombent sur la tête.

 

日仏の類似表現のニュアンスを味わうことができる箇所です。<la tête>は頭であり、<sur la tête>なら「頭上に」(宮崎訳、中条訳)になります。

これで十分な翻訳ですが、私は「頭上にふりかかる」と訳すのではなく「身にふりかか(った)」という、三野訳を日本語としては好ましく感じます。

 

「そいつがこっちの頭上にふりかかってきたときは、」

(宮崎訳)

 

「それが自分の身にふりかかったとき、」
(三野訳)


「自分の頭上に降りかかってきたときには、」
(中条訳)

 

 

(註4)

ペストや戦争は、いつでも人々を不意打ちにするのである

pestes et guerres trouvent les gens toujours aussi dépourvus.

 

<pestes et guerres>は素直に直訳すれば「ペストと戦争」(三野訳)ですが、「ペストや戦争」(宮崎訳)との違いは、前者が限定的あるいは対比的であるのに対して、後者が例示的あるいは対等的であるところにあるのではないか、と思われます。

 

「戦争やペスト」(中条訳)では、さらに順序を入れ替えていますが、日本語では、より重要なものを後に置くことがあるからかもしれません。確かに、作品のタイトルは<La Peste>ではありますが、カミュが描こうとしているのはペストそのものではないところにある、と私は考えます。

 

そして<pestes et guerres>が主語となり、<trouver>という動詞が活用されることによって、「戦争やペスト」は擬人化され、人間に対して能動的に働き掛けます。三野訳では、このあたりが活かされています。

 

カミュはこの段落の後の方で<humanistes>(人間性)という語彙を用いています。人間性の本質は、能動的で環境支配的な存在なのか、それとも受動的で環境適応的な存在なのか、という問いを読者に投げかけてきます。そこで、私自身は、「ペストや戦争」を擬人化し、能動的に訳することを選択してみました。

 

「ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無容易な状態にあった。」
(宮崎訳)

 

「ペストと戦争は、いつも同じく、備えのできていない人びとを見つけ出す。」

(三野訳)

 

「戦争やペストが到来するとき、人間はいつも同じように無防備だったのだから、」(中条訳)

 

 

(註5)

彼が疑念と確信の間で揺れ動いていたという次第についても、そのように理解しておく必要がある。

リゥの理性は<l’inquiétude>と<la confiance>との間で揺れ動いていたことが語り手によって紹介されています。この場合<l’inquiétude>と<la confiance>は、同じ尺度上にある対立概念であると考えることができるでしょう。


「不安と信頼」(宮崎訳)、「不安と確信」(三野訳、中条訳)は、いずれも
<l’inquiétude>を「不安」と訳すことで一致しています。

それでは、「不安」の対立概念は何でしょうか。「信頼」や「確信」は、「不安」と対比関係にはありません。

むしろ、「安心」を意味する翻訳が期待されるはずです。それでは「不安と安心」では、なぜいけないのでしょうか。もし、そのように訳すならば、医師リゥは、オラン市の一般市民と全く同等になってしまい、一般市民との「ニュアンスの差」すら解消されてしまうことになってしまいます。

逆に<la confiance>の側から検討すると、これを「信頼」と訳すなら「不信」、「確信」と訳すなら「疑念」というのが相応しいように考えます。

そこで、もし「信頼と不信」と訳すならば、いったいそれは自分自身以外の何者かに対しての「信頼と不信」ということになるでしょう。これに対して「疑念と確信」と訳すならば、それは自分自身の観察に基づく情報分析に対する理性的態様ということに繋がります。
 

医師リゥは、確かに一般市民と同様に「不安と安心」の間で揺れ動いていたのでしょうが、それだけではなく、医師として自分自身の見立てについて、何度も「疑念と確信」の間を往来していた、ということを説明することが可能になるのではないでしょうか。
  

il faut comprendre aussi qu’il fut partagé entre l’inquiétude et la confiance.

「彼が不安と信頼との相争う思いに駆られていたのも、そういうふうに解すべきである。」
(宮崎訳)

 

「彼が不安と同時に確信を抱いたことも、同様に理解すべきである。」
(三野訳)

 

「彼が不安と確信のあいだでひき裂かれていたことも理解する必要がある。」

(中条訳)

 

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聖楽院主宰 テノール 

飯嶋正広

 

 

第12回レッスン(6月28日)

 

第12回レッスンは、思いがけないことがありました。岸本先生から次年度の大学院修士課程の受験の意思の有無を突然打診されました。私は全く想定していなかったため、とても驚きました。

 

私は全く情報を持っていなかったのですが、課題曲や候補曲等についてご紹介してガイダンスしていただきました。

 

仮に私が受験する場合には、

スカルラッティのイタリア歌曲
<Già il sole dal Gange>(陽はすでにガンジス川から)

 

チャイコフスキーのロマンスから1曲、

 

今後レッスン予定のラフマニノフのロマンスから1曲、

 

そしてチャイコフスキーのオペラ・アリア:

歌劇「エフゲニー・オネーギン」第2幕から、「レンスキーのアリア
(青春は遠く過ぎ去り)

 

というアドバイスを戴いて、ひたすら呆然としております。
 

受験情報も乏しく、開業医でもあるため、この年齢で大学院生を目指すことの困難は明らかです。しかし、受験するかどうかの最終決定は保留としつつ、仮に受験した場合に、合格できるような研鑽には努めたいと考えています。

 

#1.チャイコフスキー・ロマンス<нет,толькотот,ктознал...>

(憧れを知る者のみが...)

8月の門下コンサートの演奏候補曲として、第10回レッスンから稽古復活となった作品です。しかし、大学院受験準備曲としての意義が加わりました。現時点で、暗譜ができています。

 

 

#2.チャイコフスキー・ロマンス<Oтчего?...>

(何故?)

門下コンサートでの演奏候補曲であるため第10回からレッスン復活となりました。#1の作品と同様ですが、現時点で暗譜は不十分です。

 

 

#3.チャイコフスキー・ロマンス<Cредь шумного бала.>

(騒がしい舞踏会の中で...)

この曲も、同様ですが、暗譜する方針で稽古をすることになります。

 

 

#4.チャイコフスキー・ロマンス<Cеренада дон-жуана>

(ドン・ファンのセレナード)

この曲も、門下生コンサートでの演奏候補曲ですが、他の候補曲と同様に、念のため暗譜して歌えるように心がけることにしました。
   
  

 

次回第13回(7月5日)のレッスンでは、新たな月を迎えるため、私としては珍しく、チャイコフスキーの新たな2曲を自主的に選択し、歌曲の歌詞の歌詞読みのチェックを岸本先生にお願いしました。

 

すると、岸本先生は快諾してくださったのですが、その後「ラフマニノフを始めるつもりでしたが」と仰るのでした。私は、前期はチャイコフスキーのロマンスをしっかり固めて、後期からラフマニノフの手ほどきをいただくことになろうと思い込んでいたのでした。

 

そのように申し上げると、私の熱心さをとても評価してくださり、その流れで、院試のお話に繋がったのかもしれません。

 

そこで、次回のレッスンは、

Полюбила я на печаль свою (私は悲しい恋をした)の歌詞を読み、発音等のチェックをしていただく予定となりました。
  

この曲は、私がラフマニノフの作品で最初のレッスン曲になります。

 

岸本力デビュー50周年記念バス・リサイタル(6月3日)のプログラムで第一部の最後を飾るロマンスだったので印象に残っています。
   

元来女性の歌で、メゾ・ソプラノに好まれる作品ですが、岸本先生の珠玉のレパートリーの一つであると感じました。ですから、おそらく、この曲が、院試でのラフマニノフから1曲になる可能性が高いのではないかと考えました。

 

またチャイコフスキーのオペラ・アリア:

歌劇「エフゲニー・オネーギン」第2幕から、「レンスキーのアリア」
(青春は遠く過ぎ去り)

の稽古も復活することになりそうです。

 

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認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

総合診療が必要となってきた高齢者糖尿病

 

高齢者糖尿病の増加は、人口の高齢化に伴う社会問題になってきています。

それは、加齢に伴い次第にセルフケアが困難になる傾向があるからです。

 

高齢者糖尿病は、とくに、認知症と、フレイルを来しやすく、その他、転倒、うつ、低栄養等の老年症候群を約2倍来しやすくなります。

 

フレイルとは、もともと「か弱さ」や「こわれやすさ」を意味する言葉です。そして、フレイル高齢者とは「こわれやすい高齢者」、すなわち健康寿命を失いやすい高齢者であり、健康を保つための配慮が今まで以上に必要な人々です。

 

こわれやすいものは大切に扱う必要があり、通常の対応とは区別しなければなりません。 フレイル高齢者には一層の配慮が必要です。

 

また認知症に関しては、糖尿病の方はそうでない方と比べると、アルツハイマー型認知症に約1.5倍なりやすく、脳血管性認知症に約2.5倍なりやすいと報告されています。また、糖尿病治療の副作用で重症な低血糖が起きると、認知症を引き起こすリスクが高くなると言われています。

 

また、認知症とフレイルに共通の危険因子は、高血糖の他に、低血糖、大血管障害、低栄養、身体活動量低下が挙げられています。

 

人は誰でもが等しく年を取っていきますが、それでも加齢変化の個人差は大きいです。とりわけ加齢に伴って病気または心や体の状態の問題が複雑に関連しあうことにより生じる、高齢者に多くみられる症状のことを老年症候群といいます。

 

たとえば、ふらつく、つまずいてこけそうになる、だるい、眠れない、やせてくるなどの症状がそうですが、最初はたいした問題ではないけれど、だんだん生活の質や活動度が落ちてしまいます。

 

いずれにしても認知機能が低下すると糖尿病薬の内服や注射、食事や運動の管理がうまくできなくなり、糖尿病の悪化につながりやすいので問題になっています。

 

そのため、対策としては、栄養、運動、社会参加等の共通の対策を講じつつ、適切な血糖管理をはじめ、血管性危険因子の治療を継続していくことが必要です。

 

・食事療法では、目標体重を用いた適正なエネルギー(カロリー)量や充分な蛋白質やビタミン類を摂取できるようにします。


・運動療法は多要素の運動を週2回以上行うことが勧められています。

要素の運動とは、有酸素運動を基本としつつもレジスタンス(抵抗)運動その他を含む運動を意味します。

 

 

杉並国際クリニックでは、こうした目的に対して理想的な生涯エクササイズである水氣道®を週に4回(月・火・金・土)実践指導しています。

 

水氣道®では、季節ごと(3カ月に1回)のフィットネスチェック体組成・体力評価票(2022改訂版)や定期健康診断等とともに認知機能、フレイル・サルコペニア、ADL,心理状態、薬剤、社会状況を総合的に評価しています。

 

体組成

 

 

・薬物療法では、低血糖、転倒等の有害事象のリスクが小さい治療を選択します。

高齢者糖尿病では、腎機能低下が大きな問題になるため、推定糸球体濾過率(eGFR)などを指標として腎機能を定期的に評価し、薬物選択と用量調節を行っています。
  

 

重症低血糖のリスク評価も不可欠であり、低血糖やシックデイの対処に関する教育を患者だけでなく介護者にも行います。

 

シックディとは糖尿病患者が調子を崩す日のことです。

 

具体的には糖尿病の治療中に発熱、下痢、嘔吐をきたし、または食欲不振のため食事が取れない状況のことです。このような場合、血糖コントロールが良好な患者でも糖尿病性昏睡に陥る可能性があるため、十分な注意が必要です。高齢者の場合、意識障害が認知症の進行と思われることもあるため注意が必要になります。
  

高齢者糖尿病の血糖管理目標は、認知機能、ADL等の評価に基づいたカテゴリー分類と年齢、重症低血糖のリスクが危惧される薬剤使用の有無等を考慮して設定します。
  

血糖コントロール目標のカテゴリー分類を簡易に行なうために、8つの質問票からなるDASC-8(日本老年医学会2018)を活用することができます。
  

また、服薬アドヒアランス低下に対する対策として、服薬内容の単純化を検討します。 服薬回数が少なくて済む薬剤への変更や1包化、配合剤の使用、インスリンの脱強化作用(2型糖尿病の場合)など可能な方法を検討します。

 

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認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

見落とされがちな微量栄養欠乏症<亜鉛>No.5

 

<亜鉛欠乏症の診断の実際>

 

亜鉛欠乏症を疑うべき症状は多彩です。

 

以下は、私が系統的に分類したものです。

 

1) 皮膚・粘膜症状:皮膚炎,口内炎,脱毛症,褥瘡(難治性のとこずれ)

 

2) 免疫機能障害:易感染性(感染症に罹り易く、しかも治りにくい)

 

3) 栄養障害:食欲低下,発育障害(小児で体重増加 不良,低身長),貧血

 

4) 感覚障害:味覚障害

 

5) 生殖系障害:性腺機能不全,不妊症

 

また『亜鉛欠乏症の診療指針2018』に示された検査所見として「血清アルカリフォスファターゼ(ALP)低値」が挙げられています。

人間ドック等でも採血項目に入っていますが、施設間でばらつきはあるものの基準値は概ね100~320U/l近辺でしょう。この範囲を下回らなくても、関連を疑わせる諸症状があり、かつALPが200U/l未満程度ならば積極的に血清亜鉛値を測定した方がよい印象があります。

 

しかしながら、多くの亜鉛欠乏症例では、上記のような症状が顕れません。

 

慢性肝疾患,糖尿病,慢性炎症性腸疾患,腎不全では,しばしば血清亜鉛値が低値であることが報告されています。ですから、私は、これら4つの疾患を持つ方には、積極的に血清亜鉛濃度を測定することにしています。そして、実際に血清亜鉛値を測定してみると低値であることが多いです。

 

 

Q1.

亜鉛不足はどうやって調べればよいのでしょうか? 

 

A1. 

亜鉛不足は、血液検査で調べることができます。

健康な人の血清亜鉛(血液中の亜鉛)の基準値は、
日本臨床栄養学会では80~130μg/dLとしています。

この血清亜鉛値が低下し、体内の亜鉛が不足した状態を「低亜鉛血症」と言います。

 

 

Q2.

亜鉛不足の重症度はどのように評価すればよいのでしょうか? 

 

A2. 

血清亜鉛値のデータを確認してみましょう。
   

血清亜鉛値が80µg/dL未満であれば、低亜鉛血症です。

ただし、これにも重症度があります。

軽度のものが、潜在性亜鉛欠乏(亜鉛不足)で、

血清亜鉛は60 ~ 80µg/dL未満です。

 

さらに血清亜鉛が低下したものを、亜鉛欠乏症といい、

血清亜鉛が60µg/dL未満となった状態です。

 

血清亜鉛は,可能であれば早朝空腹時に測定することが望ましいです。

 

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臨床産業医オフィス

<高円寺南労働衛生コンサルタント事務所>

産業医・労働衛生コンサルタント・第一種作業環境測定士・衛生工学衛生管理者

 

飯嶋正広

 

<先月から、当面の間、職場の健康診断をテーマとして、産業医紹介エージェント企業各社が提供しているコラムを材料として採りあげ、私なりにコメントを加えています。>

 

産業医紹介サービス企業各社が提供する<健康診断>コラム

 

No2.ファースト・コール提供資料から(その1)

 

長時間労働がもたらすリスクと企業における解決策

2022-05-27

長時間労働の是正は、働き方改革のなかでも喫緊の課題です。企業においても長時間労働を防ぐために、働き方の見直しが求められています。

そうしたなか、「自社における長時間労働の課題を把握できていない」「具体的な解決策が分からない」という担当者の方もいるのではないでしょうか。

この記事では、長時間労働に関する規制をはじめ、長時間労働が起こる原因やリスク、その解決策について解説します。

 

出典:厚生労働省『長時間労働削減に向けた取組』

 

 

目次
1. 1.長時間労働に関する規制
1. 1.1.法定労働時間
2. 1.2.法改正による時間外労働の上限規制
2. 2.長時間労働が起こる原因
3. 3.長時間労働がもたらすリスクと自殺者の状況
1. 3.1.疾患の発症や悪化への不安
4. 4.勤務問題を原因・動機とする自殺者の状況
5. 5.企業における長時間労働の解決策
1. 5.1.①従業員の労働時間を管理する
2. 5.2.②業務方法・取引慣行を見直す
6. 6.まとめ

 

 

長時間労働に関する規制

 

長時間労働に関する規制について、法定労働時間と法改正後の規制に分けて解説します。

 

 

法定労働時間

 

『労働基準法』第36条では、労働時間と時間外労働の上限規制が設けられています。

また、厚生労働省は、法律で定められた労働時間(法定労働時間)を超える労働に対して、“時間外労働=残業”としています。法令で定められている法定労働時間・休日は以下のとおりです。

 

▼法定労働時間・休日

 

法定労働時間:1日8時間および1週40時間

 

休日:毎週少なくとも1日、または4週4回以上

 

法定労働時間を超えて働かせる場合や法定休日に働かせる場合には、『労働基準法』第36条に基づく労使協定(36協定)の締結と所轄労働基準監督署長への届出が必要です。

 

出典:e-Gov法令検索『労働基準法』/厚生労働省『時間外労働の上限規制 わかりやすい解説』『働き方改革関連法のあらまし(改正労働基準法編)』『時間外労働の上限規制』

 

 

 

法改正による時間外労働の上限規制

 

2019年4月の改正労働基準法(働き方改革関連法)の施行(※)によって、時間外労働の上限規制が設けられました。

 

法改正前は、長時間労働に関する法律上の上限が定められていなかったことから、一定の時間を超えて労働を行っている企業に対して行政指導が行われるだけにとどまっていました。

 

しかし、法改正により、時間外労働の上限は、原則として月45時間・年360時間となり、臨時的な特別な事情を除いて、これらの上限を超えて働かせることはできなくなりました。

 

 

改正前と改正後を比較すると、以下のようになります。

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画像引用元:厚生労働省『時間外労働の上限規制 わかりやすい解説』

 

 

 

さらに、臨時的な特別な事情があり、労使の合意がある場合でも、以下の項目を守る必要があります。

 

時間外労働が年720時間以内

 

時間外労働と休日労働の合計が月100時間未満

 

複数月の平均が80時間以内(2ヶ月平均・3ヶ月平均・4ヶ月平均・5ヶ月平均・6ヶ月平均)

 

月45時間を超えるのは、年6ヶ月が限度

 

※大企業:2019年4月〜/中小企業:2020年4月〜

 

出典:厚生労働省『時間外労働の上限規制』『働き方改革関連法のあらまし(改正労働基準法編)』『時間外労働の上限規制 わかりやすい解説』『長時間労働削減に向けた取組』/e-Gov法令検索『労働基準法』

 

 

産業医からのコメント

私が現在担当している企業様は、主に長時間労働が問題になる企業と、主に高ストレス・メンタル管理が問題になる企業、それから、いずれも大きな問題がみられないが業務リスクの高い企業に3分類されます。

 

とりわけ長時間労働については、甚だしい場合は180時間超というケースもありましたが、衛生委員会が立ち上がり、毎月定例のミーティングを重ねることにより、徐々に改善していくようです。

 

そうした成功のカギは1)衛生委員会組織の構築と、2)議長、衛生管理者の積極的な関与、3)職員全体に対する周知徹底と、そのためのキーパースンとしての役割が期待される労働側委員の出席と積極的な意見交換です。

 

重要な法令として、2019年4月の改正労働基準法は、働き方改革関連法(時間外労働の上限規制についての改正)の目玉であり、中小企業であっても、2020年4月から施行されています。しかし、実際には、新型コロナ感染症対策等の影響もあって、企業内で十分に認識されているには至らず、実効が阻まれがちであるのが現状です。

 

労使の合意がある場合は、上限が緩和されがちでしたが、改正法では、これをより厳正に規制しています。
 

私は企業の現場の実態に応じて、柔軟に対応しています。

 

とくに多人数の長時間労働者が存在しているような企業の場合には、まず、時間外労働が月100時間以上の労働者に対して、時間数の多い方から優先的に産業医面談を実施させていただくようにしています。該当者全員に面談を実施するのが理想ですが、なかなかそのように行かないのが現実です。


そのため、産業医面談のウェイティングリストに抽出された労働者が、実際の面談に至る前に、時間外労働が月100時間未満を2カ月以上達成できた場合は、優先順位を遅らせ、さらなる自助努力と企業による支援を期待します。興味深いことに、この方式を地道に継続することによって、100時間超の時間外労働は徐々に減少していくことが多いです。

 

これとは逆に、産業医自身が油断しがちなのは、時間外労働時間が月45時間を超える程度の場合です。月45時間とはいえ、このラインをわずかでも超えるのは、年6ヶ月が限度とされています。今後は、労働者が個別に月45時間超えの月数を毎月カウントしてリスト化しいくシステムを企業側に提案したいと考えているところです。

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 

常陸国の万葉集歌を味わう(その1)

 

高橋 虫麻呂(たかはし の むしまろ)は、奈良時代の歌人。姓は連。、生没年不詳の人物です。高橋連は物部氏の一族である神別氏族とされます。

 

私が虫麻呂と出会ったのは、たしか、高等学校の古文の教科書であったように記憶しています。その後、数十年の年月を隔てて、私が千葉県市川市の昭和学院短期大学の非常勤講師(後に、客員教授)として毎週金曜日の午前中に出向するようになって、帰路、手児奈(てこな)神社を訪れたことがありました。

 

下総国真間(現在の千葉県市川市)の手児奈(てこな)の歌はことに有名ですが、虫麻呂は、他にも摂津国葦屋(現在の兵庫県芦屋市)の菟原処女(うないおとめ)の歌など、地方の伝説や人事を詠んだ歌が多いことを後日知りました。

 

虫麻呂が歌に詠んだ地域は、常陸国から駿河国にかけての東国と、摂津国・河内国・平城京などです。なかでもとりわけ虫麻呂と常陸國との関係は深く、『万葉集』巻9に、虫麻呂作の「検税使大伴卿登筑波山時歌」(長歌1首・短歌1首)があります。

 

この「大伴卿」を大伴旅人に比定する説によれば、養老3年(719年)頃に虫麻呂が常陸国にいたことになります。当時の常陸守・は藤原宇合だったので、虫麻呂はその下僚であった可能性が論じられてきました。

 

藤原 宇合(ふじわら の うまかい)は、奈良時代の公卿。初名は馬養。右大臣・藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位は正三位・参議。勲等は勲二等。

 

『続日本紀』によると宇合の官歴は、霊亀2年(716年) 8月20日:遣唐副使として唐に渡っており、養老3年(719年) 正月13日:正五位上。日付不詳:常陸国守。7月13日:安房上総下総按察使、とあります。

 

その他、藤原宇合と高橋虫麻呂との関係は、養老年間(717~724)に完成したとされている「常陸国風土記」が注目されてきました。

 

編者は当時、常陸国の国司として赴任していた藤原宇合があげられ、協力者としては、高橋虫麻呂の存在を考える説が有力です。

宇合は、奈良時代の漢詩集である「懐風藻」にも詩がのるなど、当時を代表する文人であることから、「常陸国風土記」の前文にみられるような華麗な文章表現も宇合説の一つとなっています。
 

さらに、井上辰雄氏は、藤原鎌足(中臣鎌足)の先祖が常陸国の中臣氏から出たのではないかと考え、そのため宇合は「常陸国風土記」の編纂に情熱を燃やしたとされています。

 

しかし、検税使の史料初出である『撰定交替式』が天平6年(734年)であることから、養老3年まで遡れないとする考え方や、加えて『万葉集』の当該作品の前に天平3年(731年)の歌が配列されていることからも、虫麻呂の作品を天平6-7年のものとして、「大伴卿」を大伴道足や大伴牛養に比定する説もあります。

 

『万葉集』に34首の作品が入集し、そのうち長歌が14首・旋頭歌が1首です。巻6の2首目からは「虫麻呂の歌(=高橋連虫麻呂歌集)の中に出ず」として載せています。

 

 

私が最近になって、新たな関心をもったのは虫麻呂の次の歌です。

 

「手綱の濱」とありますが、「手綱」という地名は、現在も茨城県高萩市に上手綱(かみてつな)および下手綱(しもてづな)という地名が残されているからです。

現在の高萩市全体の人口はおよそ2万6千人程度です。万葉歌人に取り上げられた地名だからといって、今日、必ずしも注目されていないことが残念に思われます。

 

高萩市観光協会の公式サイトによると、「手綱の濱」は、現在の赤浜海岸付近だそうです。 

「ここからは南に切り立った海食崖が、北には弓なりに遠くまで伸びる海岸の景観に出会うことができます。また、大河ドラマや映画のロケ地として利用されています。(「江~姫たちの戦国~」「龍馬伝」等)」と紹介されています。

 

万葉集 第9巻 1746番歌

 

作者:高橋虫麻呂、題詞:手綱濱歌一首

 

左註:(右件歌者高橋連蟲麻呂歌集中出)

 

原文:遠妻四 高尓有世婆 不知十方 手綱乃濱能 尋来名益

 

訓読:

遠妻し多賀にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし

 

かな:

とほづまし たかにありせば しらずとも
たづなのはまの たづねきなまし

 

現代訳:

遠く都にいる妻が大和ではなくここ那珂郡にいるとすれば、
今私がいる手綱の浜ではないが、私を訪ねて来てくれるだろうに。

 

英訳(飯嶋訳):

If my wife,
who is far away in the capital,
were here in Taga county,
she would go tatas to see me where I am now
at the seashore of Tazuna.

 

註:go tatas ⦅英小児語⦆お散歩に行く

 

前回はこちら

 

 

アルベール・カミュ作 『ペスト』を読むNo37 


今回の訳出部分は、比較的短い部分です。しかし、ペスト第一部第4章の最後の部分であり、第5章に入るまでの重要な場面です。うっかり、読み飛ばしてしまうには勿体ない内容になっています。

 

Rieux réfléchissait. Par la fenêtre de son bureau, il regardait l’épaule de la falaise pierreuse qui se refermait au loin sur la baie. Le ciel, quoique bleu, avait un éclat terne qui s’adoucissait à mesure que l’après-midi s’avançait.

リゥはじっと考えていた。診察室(註1)の窓から、入江を遠くで狭める岩だらけの断崖が肩のように突き出たあたり(註2)を眺めていた。空は青く、しかし、濁ったギラつき(註3)を放っていたが、午後の時間が経過するにつれて次第に柔いでいった。

 

(註1)

診察室

son bureau(彼の書斎・執務室)の訳ですが、彼がどのような人物なのかによってbureau(書斎・執務室)の訳を工夫するのが良いと思われます。
 

「書斎」(宮崎訳)、

「執務室」(三野訳)、

「診察室」(中条訳)

 

SonとはRieuxであり、彼は開業医です。そして、開業医であっても、地味でこじんまりした診療所のようです。そうだとすれば、そうした開業医の執務室とは、とりもなおさず診察室です。

 

診察室の他に書斎を構えているような個人開業医のようではなさそうです。ですから私は中条訳を評価したいと思います。

 

 

(註2)

入江を遠くで狭める岩だらけの断崖が肩のように突き出たあたり
l’épaule de la falaise pierreuse qui se refermait au loin sur la baie
 

「遠く湾口を閉ざしている断崖の岩だらけの肩のあたり」(宮崎訳)

 

「遠くの湾を閉じている石の断崖」(三野訳)

 

「遠くで入江を鎖す岩だらけの出っぱり」(中条訳)

 

<se fermer sur qn>…は、慣用表現で、…を捕まえる、閉じ込める、の意。

la baieは確かに「湾」(三野訳)ですが、「湾口」(宮崎訳)の方が、説明的ですが、より丁寧に訳されていると思います。

しかし、「入江」(中条訳)というのはさらに工夫された訳であり、実際の地形をイメージし易いと思います。l’épauleは肩に他ならないのですが、擬人的表現です。わが国の海岸線でも、その特徴に従って「尻」とか「鼻」という名称を見出すことができます。宮崎訳では、素直に「肩」としていますが、これに対して、中条訳は「出っぱり」で、これは風情において劣ります。また、三野訳では、これを全く省いて簡素化していますが、カミュの風景描写は、作品の舞台設定の背景として象徴的な意味をもっているように感じられるので、その作風を活かすような訳出の工夫をしたいものです。

 

(註3)

濁ったギラつき

un éclat terne 

この表現は、既出ですが、すっきり訳出することが難しいです。
   

これは内部に矛盾や葛藤、あるいは対立を抱え込んでいるかのような表現です。作者カミュは、舞台となるオランという都市の印象を表現するにあたって、この表現を反復させていることには深いプロットがあるのではないでしょうか。
  

Petit Robert仏仏辞典によるとterneという形容詞は、Qui manque de brilliant,
qui reflète peu mal la lumière; sans éclat.とあります。

(飯嶋訳:輝きに欠ける。光の反射が悪く、輝き<éclat>に欠けること。)
un éclat terne =éclat sans éclat (飯嶋訳:輝きに欠けた輝き)

 

「どんよりした輝き」(宮崎訳)、

「鈍い光沢」(三野訳)、

「どんよりとした輝き」(中条訳)

 

宮崎訳、中条訳はほぼ同様であり、三野訳も独自の工夫がなされていますが、いずれも、その青空のもつエネルギー自体は強烈であることが意識されていないようです。昼には強烈なエネルギーがあるからこそ、午後の時間が経過するにつれて次第にその強烈さが柔いでいくのを感じ取ることができるのではないでしょうか。

 

また、éclatには「物議、一騒動;反響、うわさ」の意味で用いられることがあり、たとえば、éviter les eclatsという表現は、いらざる騒ぎを避ける、という意味になります。

 

 


  
― Oui, Castel, dit-il, c’est à peine croyable. Mais il semble bien que ce soit la peste.
  Castel se leve et se dirige avers la porte.
― Vous savez ce qu’on nous répondra, dit le vieux docteur. « Elle a disparu des pays tempérés depuis des années.»
― Qu’est-ce que ça veut dire,disparaître? répondit Rieux en haussant les épaules.
― Oui. Et n’oubliez pas : à Paris encore, il y a presque vingt ans.
― Bon. Espérons que ce ne sera pas plus grave aujourd’hui qu’alors. Mais c’est vraiment incroyable.

- 「そうなのです。カステル先生。ほとんど信じられないことです。しかし、それはどうやらペストのようですね。」
と、彼は言った。

カステル医師は立ち上がって、ドアの方へ向かった。
- 「だが世間がこうした我々に対してどんな受け答えをすることになるかはご承知ですな。(註4)」と老医師は言った。「温帯の諸国(註5)からは、とうの昔に(註6)消滅してしまったはずではないか、と。

- 「消滅したというのは、どういう意味なのでしょうか。」リゥは肩をすくめながら答えた。
- 「そうだ。忘れてはいけないことがあるよ。パリで再流行したことだ(註7)。つい20年ほど前のことだ(註8)。

- 「ええ、今度も、あの時以上にひどいことにならないことを願いたいも
のです(註9)。でも、本当に信じがたいことです。


 

(註4)

世間がこうした我々に対してどんな受け答えをすることになるかはご承知ですな。
Vous savez ce qu’on nous répondra

 

「それに対してどういわれるか」(宮崎訳)

 

「人々がわれわれにどう反応するか」(三野訳)

 

「みんなの返答は分かっている」(中条訳)
  

カミュのこの短文には、かなり重いメッセージが示されているのを私は感じます。
  

それは、カステル医師の懸念が、現在の私の思いに深くかかわっているからなのかもしれません。それは、私が何のために、カミュのペストを細々と翻訳しているか、という根本の動機や願いに直結するものであることは確かです。
 

 

(註5)

温帯の諸国 

des pays tempérés

 

医師という専門家同士がどのような言葉遣いをしているのか、想像できるでしょうか?1940年代のアルジェリア沿岸のフランスの県庁所在地の都市オランが舞台であることを考えてみると、宮崎訳、中条訳は少し非専門家的、これに対して、三野訳は、より望ましく感じられますが、少し公式的で硬い表現になっています。

 

「温和な国々」(宮崎訳)、

「温帯諸国」(三野訳)、

「温暖な国々」(中条訳)

 

(註6)

とうの昔に 

depuis des années

 

「何年も昔に」(宮崎訳)、

「何年も前に」(三野訳)、

「何年も昔から」(中条訳)

 

三氏とも、文字通り「年」の複数形である、des annéesを律儀に訳されていますが、宮崎訳、中条訳は「昔」という訳語を与えて、「かなり以前から」というニュアンスを活かそうとされています。原文では、実際には、どれくらい以前からなのかまでは具体的に示してはいません。これは、人々の意識の問題であって、「すっかり忘れ去られるに十分な年月」を意味しているのではないでしょうか。「去る者は日々に疎し」という警句を想起することができます。

 

(註7)

パリで再流行したことだ 

à Paris encore

 

「パリでもまだ、」(宮崎訳)、

「パリでも、」(三野訳)、

「パリだって、」(中条訳)

 

encoreの訳し方には、各氏の理解の違いが表れています。「まだ、20年しか経っていない(比較的最近のこと)」というニュアンスと、彼らにとっての首都である「パリですら」というニュアンスとを混合して訳出しているようです。私は、ペストの流行は終息し、かつ消滅したものと一般には信じられているにもかかわらず、「再び」発生し流行して、悲惨な結果がもたらされた、という文脈の中でのニュアンスを明確にした訳文にしました。

 

(註8)

つい20年ほど前のことだ 

il y a presque vingt ans

 

「やっと20年前にだ」(宮崎訳)

 

「わずか二十年ほど前のことだ」(三野訳)

 

「まだ二〇年くらいしか経っていないんだ」(中条訳)

 

三氏とも原文に対応しない「やっと」(宮崎訳)、「わずか」(三野訳)、「まだ」(中条訳)という語を添えていますが、少し強すぎるような印象を受けました。私自身は幾分でも控えめに表現したいと考え「つい」という語を加えました。

 

 

(註9)

願いたいものです 

Espérons que

 

この部分の翻訳表現は文化的・宗教的背景を考慮したいと考えます。たとえば、
Rieux医師が敬虔なカトリック信者かどうかは、この段階では明らかではありませんが、少なくとも「祈りたいですね」(宮崎訳)とまでは言っていないのではないでしょうか。むしろ「願いましょう」(三野訳)、「期待しましょう」(中条訳)の方が妥当のように思われます。もっとも原文の動詞は二人称ではありますが、Rieux医師が相手のCastel医師に同意を求める意図はないか、あっても控えめで無意識的な発言ではないかと考えました。この場面では、むしろ年配のCastel医師を前にして、Rieux医師が自分の個人的な心情を吐露している場面のように感じられます。

 

前回はこちら

 



聖楽院主宰 テノール 

飯嶋正広

 

第9回レッスン(6月7日)から第11回レッスン(6月21日)まで

 

#1.ロシア・ロマンス

<нет,толькотот,ктознал...>

(憧れを知る者のみが...)

 

昨年末に、すなわち別科受験の前に、岸本先生からいただいた最初の課題曲。国立音大AIセンターや二期会の稽古場でもレッスンを受けた思い出深い作品です。私は、この曲によって、チャイコフスキーの歌曲(ロマンス)に入門しました。

 

別科に進学してからも稽古は続きましたが、早くも第2回レッスン(4月19日)に、私はピアノ伴奏の王さんと共に入門級合格をいただき、いったんお蔵入 りさせて、自然発酵をさせておく、ということになっていました。

 

しかし、第9回レッスンの際に、岸本先生から、門下のコンサート(練馬区大泉学園ゆめりあホール:8月22日<月>)出演のお許しをいただくことになったため、第10回レッスンから稽古復活となりました。

 

 

#2.ロシア・ロマンス

<Oтчего?...>

(何故?)
  

慣れないロシア語の発音に伴う活舌の悪さが次第に修正され、表現をのせてレガートに歌えるようになってきました。一応の基礎ができたため、毎週の稽古は第5回(5月10日)のレッスンでいったん終結。お蔵入りさせて、自然発酵を待ちましょうとのご指導でした。そして、今後は、演奏の機会などの必要に応じて、その際におさらいすることにしましょうということになりました。

 

これは、#1(憧れを知る者のみが...)に続く第2曲目の準備完了ですが、門下生コンサートでの演奏候補曲であるため、同様に第10回からレッスン復活となり、継続レッスン中です。

 

 

#3.<Cредь шумного бала.>

  (騒がしい舞踏会の中で...)

 

ロシア語のアクセントと拍節感がそのまま楽曲になっているように感じられてきました。まだわずかですが、馴染みになってきたロシア語がちらほら見出され、その語感と意味、イメージが音楽と結びついていくようになることを目指していました。しかしながら、私の解釈は底が浅く、不適切な表現でした。岸本先生からは、もっとドルチェに歌うようにアドバイスを受け、そのように歌うことによって、このロマンスの素晴らしさを、より実感することができるようになったような気がします。
この曲も、門下生コンサートでの演奏候補曲です。

 

 

#4.<Cеренада дон-жуана>

  (ドン・ファンのセレナード)

 

この曲は、私にとってはオペラ・アリアに匹敵する大曲です。しかしながら、芸術歌曲であるため、丁寧にレガートに歌わなければならない作品です。焦らずコツコツ、じっくりと鍛錬していくしかないと観念して稽古を続けていきましたが、ドン・ファンのキャラクターが浮き彫りになるような表現が必要であるとの岸本先生からのご指導を受けました。
   

この曲の習い始めの段階では、私の発声法はオペラ・アリアを歌うような表現になっているので、端正に歌曲を歌うようにとのご指導を受けていたために慎重に歌い過ぎて、かえってドン・ファンのキャラクターを殺してしまっていたようです。
   

声楽のレッスンは、このようにらせん階段状に習得していくのがよいのかもしれません。歌詞が自然に心身に馴染んでくるまでは、丁寧に、慎重に基本骨格を組み立てていき、その上に、表現を載せていくという構築の仕方が効果的であるということを実体験できたように思います。