故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 飯嶋正広

 

夭折の詩人、立原道造をしのんでNo4

 

立原道造は、二十四歳という若さでこの世を去った夭折の詩人です。彼の代表作には、詩集『萱草に寄す』『暁と夕の詩』『優しき歌』『散歩詩集』などがあります。表題からして音楽性が感じられます。そして、その作品には、やはり室内楽にも似た、ソナチネ風の調べを運ぶ詩からあふれでる抒情の響きがあるとされます。「青春の光芒を永遠へと灼きつけ、時代を越えて今なお輝きを失わない」との評には心を引き付けられるものがあります。

 

立原道造に関して、民間研究家による興味深いエッセイがありましたので、紹介させていただきます。紹介の後に、私の所感を加えました。

 

 

引用:抜粋

◎「甦る詩人たち」立原道造論②詩と故郷、そして母 - dog & poetry life of Takehiko Nakamura (tumblr.com)

 

「立原道造商店」の大元は、道造の曽祖父立原佐ノ助が、明治維新に際して藩禄を返上して北千住に開業した料理仕出し屋であった。その佐ノ助は男子に恵まれず、娘、朝子(祖母)が、埼玉県の農家中村家の四男の平右衛門を夫に迎え、立原家を継ぐ。この代で日本橋に出て荷造材料の縄筵商として開業するが、また男子に恵まれず、娘とめ(母)の婿養子として、平右衛門の兄が縁組して入った狼家(千葉県流山市の農家)の子、狼貞次郎を夫に迎える。つまりいとこ同士の結婚である。この二人の間に立原は生まれるが、この頃には商売は荷造り用木箱製造業へと変わっている。ちなみに立原が関東大震災の際の避難と神経衰弱の静養に行った豊島家は、祖父平右衛門のもう一人の兄弟が縁組した農家の一族である。
 

こうしてざっと明治以降の立原家の流れを見るだけでも、「立原家」は他家から夫を迎える女系であることが分かる。そしてこの立原家が明治以前のどこまで遡るかというと、明確なのは室町期の応仁の乱前後の立原伊豆守にまで遡る。江戸時代には5代目立原朝重が第4代水戸徳川宋堯の家臣となり、その後立原家の系譜には徂徠の古学派一門の大学者として名を馳せた水戸藩儒の立原翠軒、そしてその子息で渡辺崋山らと並ぶ画家の立原杏所が出た。詩人はこの文芸の才の血を引いた自らの血を誇りにしていたという(そしてさらに驚くのは、この立原翠軒自筆の系譜図などによると、立原家の最源流は桓武天皇まで遡るという。ただ実際は曽祖父佐ノ助が翠軒らの直系であるかは疑わしいとされ、傍系の可能性もある)。

 

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もともと、立原道造が翠軒らの時代の俊英たちの直系であるかどうかは、もとより私の主たる関心事ではありません。

 

なぜならば、本家あるいは直系といえども、多くは長子相続ばかりではないうえに、女系による相続であったり、血族ではない他家からの養子縁組であったり、つまり、伝統的な日本の旧家が尊重してきた「家概念」は、直系にこだわるものではない、ある意味でおおらかな姿勢がうかがわれるからでもあります。

 

直系か傍系かということが盛んに議論されますが、これに関して、嫡流という伝統的概念もあります。つまり、総本家の家筋が正統の流派とみなされ、嫡流とされています。たとえば、源氏の嫡流が頼朝一人であったということはできないと思います。常陸源氏の佐竹氏などは、それを凌ぐ家柄であると評されることもあるようですが、その佐竹家ですら男系(Y染色体)が連綿と続いているわけではないようです。

 

そのような意味から考えてみると、天皇家が万世一系とされる所以も、日本民族の総本家、すなわち、嫡流家であるばかりでなく、途切れなく男系が続いてきたことによるものなのかもしれません。記録に残された世界最長の家系であるということだけでも想像を絶する事実であることに、改めて驚かされる次第です。