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今回の部分は、独立した単独の段落ではなく、先回からの段落の後半部分です。
カミュの人間観や歴史観が哲学的随筆のように展開されています。
Quand une guerre éclate, les gens disent: « Ça ne durera pas, c’est trop bête.» Et sans doute une guerre est certainement trop bête, mais cela ne l’empêche pas de durer. La bêtise insiste toujours, on s’en apercevrait si l’on ne pensait pas toujours à soi. Nos concitoyens à cet égard étaient comme tout le monde, ils pensaient à eux-mêmes, autrement dit ils étaient humanistes: ils ne croyaient pas aux fléaux. Le fléau n’est pas à la mesure de l’homme, on se dit donc le fléau est irréel, c’est un mauvais rêve qui va passer. Mais il ne passe pas toujours et, de mauvais rêve en mauvais rêve, ce sont les hommes qui passent, et les humanites en premier lieu, parce qu’ils n’ont pas pris leurs précautions.
ひとたび戦争が勃発すると、世間の人々は「こんなことは長引かないだろう、あまりにも愚かなことだから」と言う。そして、戦争はあまりにも愚かなことであることには違いない。だからといってそれが長引かないという理由にはならない。愚行は飽くことなく常に繰り返される(註1)。常に私事にばかりにかまけてさえいなければ(註2)、私たちは、そのことに気づくはずである。わが市民も世間並であり、皆自分たちのことばかりを考えていた。つまり彼らは俗物主義者であるため、天災いが襲ってくることなど気にも留めていなかった(註3)。天災は人間の尺度で測ることはできない。人々は天災とは非現実的なもの、だからやがては過ぎ去る悪い夢なのだと自分に言い聞かせることになるのだ(註4)。しかし、悪い夢はいつも過ぎ去るものとは限らないし、悪い夢から悪い夢へと過ぎ去っていくのは人間たちのほうである。その筆頭が世俗主義者社会たちであるというのは、彼らは警戒を怠っていたからである。
(註1)
愚行は飽くことなく常に繰り返される。
La bêtise insiste toujours,
La bêtise(愚行、ばかげたこと)とは、文脈に沿うならば、une guerre(戦争)ということになります。ただし、女性名詞 guerre には不定冠詞uneが付されているのに対して、同じく女性名詞bêtiseには定冠詞laが付されています。
La bêtise=La guerre(戦争)はinsiste toujours(いつまでも続くものである)という意味であるとすれば、以下の各氏は、それぞれ適切に訳されていることになるでしょう。
「愚行は常にしつこく続けられるものであり、」(宮崎訳)
「ばかげたことはいつまでも続くのだ。」(三野訳)
「愚行はつねに長びくものであり、」(中条訳)
各氏に共通する視点とは別に、人間中心主義の世俗的な考えの人々に対する視点から『愚行(戦争)とは、ひとたび収まったかのようにみえても、実は人知れず水面下でくすぶり続けていて、いずれ不意打ちを食らわせたかのように再発するものである』という理解を前提とした訳を試みました。
(註2)
常に私事にばかりにかまけてさえいなければ、人間中心主義の世俗的な考えの人々が大多数を占める社会では、「今だけ、金だけ、自分だけ」といったことが価値観や行動原理になってしまいがちです。
民主主義が人類の危機を招くとしたら、このような堕落した人間中心主義の世俗的な価値観の支配を無批判に受け入れてしまいがちな社会風潮にあるのかもしれません。
私事を離れて歴史の流れを振り返りつつ、現代社会全体の在り方を俯瞰し、望ましい未来を展望する、といった習慣を身に着けることの大切さを改めて気付かされます。
on s’en apercevrait si l’on ne pensait pas toujours à soi.
「人々もしょっちゅう自分のことばかり考えてさえいなければ」(宮崎訳)
「自分のことばかり考えるのをやめれば」(三野訳)
「人々も自分のことばかり考えなければ、」(中条訳)
(註3)
彼らは俗物主義者であるため、天災いが襲ってくることなど気にも留めていなかった。
ils étaient humanistes: ils ne croyaient pas aux fléaux.
このセンテンスの構造は、文中に<:>、すなわちドゥポワン(deux-points)によって2つのセンテンスが関連しているということです。このコロンは句読点の一種であり、説明や引用を導きます。
また、単語としてはhumanistesをどのように理解するかで、翻訳者各位が苦労された形跡がうかがわれます。意味の文化的背景が深く、ただちに適切な日本語に訳しにくい単語です。
à l’humanisme, aux humanistes de la Renaissance,aux humanités.
ルネッサンス期の人文科学分野での人文主義者に、
Caractère d‘une personne en qui réalise pleinement la nature humaine.
人間性が十分に発揮された人物の性格。
L’amour suscite 《une source vive d’humanite》CHARDONNE
愛が呼び覚ます《ウマニテの生きた源泉》シャルドンヌ
宮崎、中条の両氏はhumanistesを人間中心主義者(ヒューマニスト)と訳し、三野は、より柔らかい説明体で「人間を中心に考えていた」と訳しています。
私は、「人間中心主義」と直訳しておいて、カタカナで(ヒューマニスト)と添えるのは、かえって読者に違和感を与えることになるのではないかと危惧します。
もはや、日本語にもなっている(ヒューマニスト)が、私事にばかりかままけている人々という理解からは遠ざかってしまうのではないかと思われます。
「彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)であった。つまり、天災などというものを信じなかったのである。」(宮崎訳)
「彼らは人間を中心に考えていたのであり、災禍が起こるなどとは想定もしていなかった。」(三野訳)
「彼らは人間中心主義者(ヒューマニスト)だった。つまり、天災など信じなかったのだ。」(中条訳)
(註4)
だからやがては過ぎ去る悪い夢なのだと自分に言い聞かせることになるのだ。
on se dit donc le fléau est irréel, c’est un mauvais rêve qui va passer.
まず<on se dire +直接話法>は、…だと(自分自身に)言う、思う、考える、などの訳語があります。
前者の…だと(自分自身に)言う、に近いのは(三野訳)「…とみなすのだ。」、これに対して、後者は(宮崎訳)「…と考えられる。」と(中条訳)「…と考える。」です。
私は、結果や結論に結びつけるdonc (だから)という接続詞の働きを活かした三野訳を高く評価したいと考えます。
次いで、un mauvais rêveは、そのまま「悪い夢=悪夢」と訳すこともできるのですが、ここで気になることがあります。英語の場合「夢」と「悪夢」は、それぞれdream, nightmareという別系統の語がありますが、フランス語でもrêve(夢)に対してcauchemar(悪夢)という語があります。
カミュがcauchemarという単語を用いなかったのには、理由があるのか、という疑問が浮かんだため、Petit Robert仏仏辞典で確認すると以下のような記述がありました。
Rêve pénible dont l’élément dominant est l’angoisse.
《 je tombais de rêve en cauchemar, de cauchemar en convulsions nerveuses 》COLETTE
「苦悩を主な要素とする苦痛な夢。」という説明があり、コレットの文章からの用例が添えられています。
《夢から悪夢へ 悪夢から神経痙攣へ》COLETTE
その悪夢は、漠然とした悪夢ではなく、苦悩を背景とする悪夢であることから、「苦悩」とまで深く認識されていない悪夢の場合は、これに該当しないということになりそうです。このような理解に立つならば、un mauvais rêveの訳語は「悪夢」という熟語的な硬い表現ではなく「悪い夢」という、より柔らかい形にしました。
「やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。」(宮崎訳)
「やがて過ぎゆく悪夢とみなすのだ。」(三野訳)
「やがて消え去る悪夢だと考える。」(中条訳)