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臨床産業医オフィス


<高円寺南労働衛生コンサルタント事務所>

 

産業医・労働衛生コンサルタント・第一種作業環境測定士・衛生工学衛生管理者

 

飯嶋正広

 

 

私が産業医活動を続けているわけ

 

医療機関で患者は“非日常”の状態ですが、職場の様子は真の日常生活です。そこでの健康状況を知ることで、その人の生活背景に対する見方も広がります。これは臨床の場で患者への理解を深める助けになるはずです。

 

1)我が国の産業医の数

私が産業医資格を取得したのは2004年1月ですから、かれこれ18年になります。しかし、実際に産業医として積極的に活動し始めたのは令和時代に入ってからなのです。

 

日本医師会の産業医資格は、一定の講習を受講することにより、無試験で取得できる資格です。医師免許取得後に産業医を目指す場合、日本医師会または産業医科大学による研修を受け、それぞれが認定する産業医の資格を得るのが一般的です。こうした産業医の有資格者数は現在約9万人といわれます。

 

 

2)産業医資格を取得した動機

医師のキャリアの一つとして産業医というものがあることは、東大衛生学の故和田攻教授から教わりました。

 

当時は、それほど重要性を理解することができなかいままでした。しかし、それ以降、産業構造や雇用形態のダイナミックな変化に伴って、産業医の業務は広がり続けていきました。さらに、近年では「働き方改革」により社会的にも産業医の重要性が注目されています。産業医の業務は健康診断の実施やその結果への対応、健康相談などが上位です。

 

しかし、現在3割前後のメンタルヘルスに関する相談や長時間労働者への面接指導などは、今後さらに重要になるのは確実視されています。内科医である私は、日本人に多いストレス性身体疾患についての臨床に携わる関係で、心身医学専門医・心療内科専門医から指導医の資格を得ましたが、それと期を一にするかのように、現場の産業医学と心身医学の距離が急接近してきたのでした。

 

 

3)産業医活動を開始するまでの研鑽

私は産業医のエキスパートを養成する産業医科大学出身者ではないため、受講が容易な日本医師会の産業医資格を取得することにしました。そのため、自治医科大学で開催された連続講習会を受講しましたが、残念ながら、すぐに現場で役立ちそうな内容ではありませんでした。

 

そこで習い覚えたことはただ一つ、産業医とは、医学に関する専門的な立場から、 職場で労働者の健康管理等を行う医師のことだということだけでした。

 

そこで、単なる座学の教養で終わらせてしまわないためにも、労働衛生コンサルタントをはじめ、各種の関連国家資格を取得する過程で、実務家としての興味と関心、そして実践にむけての準備を続けていくことにしたのでした。

 

 

4)産業医とは

事業者は事業場の規模に応じて産業医を選任し、労働者の健康管理等を行わせなければなりません。

 

主治医=診断・治療をする医師です。

 

産業医=診断・治療は行わず、労働者が働けるか働けないかを判定する医師です。

 

休職中の患者が復職したいと言った際、主治医は、職場や業務のことがわからないために、日常生活が送れるレベルで「復職可」の診断を出すことがあります。

 

しかし、 「本当の意味で復職可(会社の求めるパフォーマンスで仕事ができる状態)」なのかどうか、そのギャップを見極めるのが産業医の役割です。

 

産業医の軸足は『働くことの支援』です。産業医で得た経験は臨床の場で役立つことが多いです。産業医科大学の森 晃爾教授は、こういいます。

 

「すでに企業側は法律で必要な人数を揃えることから、何ができる産業医が必要かという質重視の時代に入っています。このため産業医の有資格者が9万人いるといっても、企業が期待する役割を担う人材を探すのは難しい状況です。

 

そこで、私は、診療時間の隙間(昼休みや週末など)を活用して、専門性の高い実践的な産業医活動をはじめることにした次第なのです。

 

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常陸國住人 飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その1)

 

飯嶋家は、常陸國の領主としては外様である水戸徳川家(徳川家は三河・愛知県が発祥)より古く、それ以前の領主であった佐竹氏さらには江戸(那珂)氏との関わりをもつ土着の一族です。

私は、水戸⇒水戸黄門(徳川光圀)だけではない、茨城の風土や県民性を理解する上で、より古く豊かな手掛かりを求めています。

中央政治史に焦点を当てる日本史では見落とされてしまいがちな、真実の日本人の歴史の貴重な一側面を、自分のルーツを地道に辿っていくことを通して、郷土の歴史の再発見の中から光を当ててみたいと思います。

 

 

さて、皆様は、放送や芸能の業界では古くから有名な、稽古用の早口言葉で、「飯島石七郎(いいじまいししちろう)の言い分(いいぶん)に偽(いつわ)りがある
のをご存じでしょうか。

 

この早口言葉のルーツも調べてみたいところなのですが、今のところ手がかりがありません。ただし、飯島七郎と名乗る実在の人物がいて、それも代々受け継がれていた通字であった可能性が歴史的文献で見出すことができます。また、逆に、それが飯嶋家のルーツをたどる上でのヒントになっている可能性に気が付きました。

 

飯嶋(飯島)という姓の発祥は、1388年以降1391以前の成立か?

 

飯嶋氏は、『新編国志』によれば常陸国那珂郡飯島村より起こるとあります。
参照:太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年)553頁参照。

 

明徳2年(1391年)12月2日の熊野山参詣願文(熊野那智大社文書?)に
飯島七郎光忠、宗忠の名が見えます。

 

○ 郡郷考三、

熊野参詣願文(明徳二年秘月初二日判)に「常陸国笠間郡住人、職原常陸介朝宗、
飯島七郎光忠(中西)子息七郎宗忠、安藤四郎園守(石井)平六三郎国安(黒柄郷)加茂
介宗賞」と連署す、接艦原今なし、士人相停、闘戸、田上の漫と三ひ、常時の土豪と見ゆ

 

父子ともに飯島七郎を称しているので、飯島七郎は特定の個人名ではなく,七郎は飯島氏の通字であると考えて良さそうです。

 

しかし、飯島の姓の更なる由来は不明です。姓(飯島氏)が先か、地名(飯島村)が先か?が未解決だからです。

 

江戸時代以降は、飯嶋村⇒上中村妻村⇒水戸市飯島町、と変遷しています。

 

そこで、地名に対応する地域の歴史的遺跡を遡ると古墳時代にまでさかのぼることができますが、そこに氏族としての飯嶋のルーツを見出すことは無意味といえるでしょう。

 

引用:「角川日本地名大辞典(旧地名編)

JLogosID : 7271259

平安期に見える郷名「和名抄」常陸国那賀郡二十二郷の1つ那珂川の支流桜川の流域に位置する「洗井」は「隠井」の誤りという説が有力(新編常陸など)「隠井」とは,山かげや草むらに隠れて路傍には見えない井をいう(新編常陸)水戸市見川町に古墳時代の見川遺跡,同市見和町に古墳時代の横西遺跡,同市加倉井町に加倉井古墳群,同市飯島町に古墳時代の飯島遺跡,同市金谷町に古墳時代の金谷遺跡,同市大塚町に北原古墳群,同市河和田町に街道端古墳群,同市赤塚町に古墳時代の宮西遺跡,同市中丸町に古墳時代の北原遺跡などがある那賀郡衙については,水戸市飯富町に比定する説(地名辞書),同市渡里町の長者山付近とする説(水戸市史など),同市堀町の堂地内とする説などがあるが,当郷内の現在の水戸市河和田町あたりに比定する説が多い(郡郷考・新編常陸)「新編常陸」によれば,那賀国造は,はじめは那珂郷を拠点としたが,西北の僻地で不便なので,のちに那賀郡が成立した時に郡の中央に位置し大道が通る当郷に郡衙が移されたという現在の水戸市の西部に比定される。

 

 

飯嶋という姓の発祥の契機は、1388年以降ではなく、遅くとも1336年まで遡ることが可能か?

 

1337年南朝方、那珂通辰、入野七郎次郎助房(那賀郡入野郷:和名類聚抄)、瓜連城の戦いて敗れ自刃。那珂通泰、飯島信晟(飯島七郎?)、切り逃げる。飯島信晟は、那珂通泰の側近か?

 

飯嶋家本家は、東茨城郡城里町上入野にあり、私の本籍もそこにあります。近世に至って同郡内にも入野という地名があるため、区別のため、それぞれ上入野(現、城里町)、下入野(現、水戸市)と改称されています。

 

瓜連城の戦いとは、延元元年(建武3年,1336年)に瓜連城を中心として行われた南北朝の戦いです。 楠木正成は常陸北朝方の佐竹氏を討つために,楠木正家を代官として派遣して瓜連に築城させました。 建武3年2月佐竹貞義が広橋経泰・小田治久などの南朝方に対して攻撃を加えました。

 

このように飯島(七郎?)信晟は、楠木正家の南朝方に属して、北朝方の佐竹氏と戦った記録があるようです。その後、歴史の空白を経て、飯嶋氏は勝倉城主(現、ひたちなか市)としての記録がありますが、次回の話題に回したいと思います。

<線維筋痛症 JFIQの経過報告>

 

 

 (図1)

 スクリーンショット 2022-04-01 11.47.15

 

 

JFIQは線維筋痛症の経過観察に欠かせない指標です。

 

 

最高点が100点で、20点未満が正常値になります。

 

 (図1)は左側が初期時の点数、右側が現在の点数でその2点を結んだものです。

 

 

 

 図2)

スクリーンショット 2022-04-01 11.47.08

 

(図2)は線維筋痛症の治療効果の割合を表したものです。

 

 

 50以上点数が下がると「著効」です。

 

 

 20以上50未満点数が下がると「有効」です。

 

 

 20未満の点数の低下は「無効」の判定となります。

 

 

 

<今回の考察>

 

正規性の検定で初期値、現在値共に正規性がありました。

 

その後、関連2群の検定と推定を行いました。

 

1)統計的にみて、JFIQスコアが有意に改善したことが証明されました。P(危険率)

0.001%でした(図1)

pが0.05以下であれば統計学的優位である。

pが0.01以下であれば統計学的に極めて優位である。

 

 

2)JFIQスコアの判定基準として、20点以上改善されると治療が有効、50点以上改善されると著効となります。

 

 

  今回、 9名の平均で    31.9点改善していたため、全体として鍼治療は有効であったと言えます。

個別でみると、著効1名(11.1%)、有効6名(66.7%)、無効2名(22.2%)でした。(図2)

 

 

 

杉並国際クリニック 統合医療部 漢方鍼灸医学科 鍼灸師 坂本光昭

 

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タルーという謎の人物は、ある日突然現れて、オラン市で起こっていることを書き留めています。皆様と同じ立場で読み進めている私にとっても、この男の正体はまだつかめていません。彼の手記の内容も彼と同様に唐突で、謎めいていて、矛盾に満ちた記載が連なっています。
 

 

Enfin, Tarrou paraissait avoir été définitivement séduit par le caractère commercial de la ville dont l’apparence, l’animation et même les plaisirs semblaient commandés par les nécessités du négoce. Cette singularité (c’est le terme employé par les carnets) recevait l’approbation de Tarrou et l’une de ses remarques élogieuses se terminait même par l’exclamation: « Enfin!» Ce sont les seuls endroits où les notes du voyageur, à cette date, semblent prendre un caractère personnel. Il est difficile simplement d’en apprécier la signification et le sérieux. C’est ainsi qu’après avoir relaté que la découverte d’un rat mort avait poussé le caissier de l’hôtel à commettre une erreur dans sa note, Tarrou avait ajouté, d’une écriture moins nette que d’habitude: « Question: comment faire pour ne pas perdre son temps? Réponse: l’éprouver dans toute sa longueur. Moyens: passer des journées dans l’antichambre s’une dentiste, sur une chaise inconfortable; vivre à son balcon le Dimanche après-midi; écouter des conférences dans une langue qu’on ne comprend pas, choisir les itinéraires de chemin de fer les plus longs et les moins commodes et voyager debout naturellement; faire la queue aux guichets des spectacles et ne pas prendre sa place, etc.» Mais tout de suite après ces écarts de langage ou de pensée, les carnets entament une description détaillée des tramways de notre ville, de leur forme de nacelle, leur couleur indécise, leur saleté habituelle, et terminent ces considérations par un « c’est remarquable » qui n’explique rien.

 

最後に、タルーはこの街の商業的な性格に決定的に魅了されたようだ。その外観、活気、そして逸楽でさえも、貿易の必要性によって秩序づけられているように見えるのだ。

この特異性(これは手記で表記されている用語である)という言葉をタルーは受け入れ、それらの賞賛を連ねた表現の中の一つは「ついに!」という感嘆の言葉で締めくくられていた。

この日この旅人の手記が個人的な性格を帯びているように思われるのは、唯一この一連の部分だけである。

その意義や深刻さを単純に理解することは難しい。このように、ネズミの死骸を発見したためにホテルの勘定係が帳簿記載を間違えたという話の後に、タローはいつもより乱れた筆跡で「質問:どうしたら時間を無駄にしないですむか。答え:時間の長さというものを存分に味わうこと。方法:歯医者の控室で、座り心地の悪い椅子に座って何日も過ごすこと、日曜日の午後はバルコニーで過ごすこと、理解できない言語で講義を聞くこと、最も長くて最も不便な鉄道路線の旅程を選び、もちろん立ち通しで移動すること、劇場のチケット売り場で列に並んで空席を待ち続けること、などなど」と付け加えている。

しかし、こうした言葉や思考の脱線を起こした直後に、手記にはわが街の路面電車の蒲鉾のような形、見栄えのしない色、いつもの汚れ具合の詳細な説明を始め、そのそしてこれらの考察を何らの説明もないまま「それは注目に値することだ」という言葉で結んでいるのである。

 

註1:「特異性」singularité 

これは奇妙さや奇抜さを表す語なのですが、オランは至って平凡な都市であるように描かれているため、他の都市では見られない独特な平凡さ、をタル―が感じ取っているのかもしれません。奇抜さと平凡さは馴染まないですが、「奇妙な平凡さ」と訳しても良いかもしれません。

 

註2:「ついに!」« Enfin!» 

賞賛と感嘆の中での表現なのですが、逆に、諦めやじれったさ、うんざりした気持ちを表すこともあります。その場合には、とにかく、やれやれ、全く、などという訳語が充てられます。プチ・ロワイヤル仏和辞典の用例では、

 Enfin, on verra bien.(まあともかくそのうちわかりますよ)

 C’est encore vous! Enfin!(またあなたですか、やれやれ)

が示されています。タルーとは何者なのか、彼の不可解な手記の意図するものは何か?と考えながら読んでいると、「まあともかくそのうちわかるだろう」という考えになったり、「やれやれ」不可解なことだと感じられたりはしないでしょうか。ここは、「やれやれ!」と訳してみるのも一興だと思われました。

 

註3:唯一この一連の部分だけles seuls endroits

宮崎嶺雄訳では「唯一の個所」としていますが、気になるのは原文が単数形のle seul endroitではなく、複数形になっていることです。seulは定冠詞(ここではle)とともに、le seulで「唯一の」という意味ですが、「唯一」が複数形であることのニュアンスを訳出したいと考えました。


註4:いつもより乱れた筆跡で

d’une écriture moins nette que d’habitude

netteはnetの女性形ですが、netが名詞として用いられると きには「清書」という意味で用いられることがあります。ここでは、訳の検討そのものより、タルーの筆跡がなぜいつもより乱れているのか、が後文との矛盾があって興味深いです。

 

註5:

時間の長さというものを存分に味わうこと

l’éprouver dans toute sa longueur.

これは、タルーの手記に記載されている独特な自問自答の中で、Question: comment faire pour ne pas perdre son temps?(質問:どうしたら時間を無駄にしないですむか。)に対する答えになります。タルーは、時間を無駄にしたくないという思いが強かったのではないでしょうか。そのような思いに駆られながら文章を書くと乱雑な走り書きになりそうです。いつもより乱れた筆跡で【註4】とあるように、結局、そのような時間は心の平安をもたらすことはできず、無駄な時間になってしまうことに気付かされることになります。

 

註6:劇場のチケット売り場で列に並んで空席を待ち続けること

faire la queue aux guichets des spectacles et ne pas prendre sa place 

宮崎嶺雄訳では、<劇場の切符売り場で行列に並び、しかも切符を買わないこと>とされています。切符を買わなければ客席に着けないことになるのは理解できるのですが、それでは 時間の長さというものを存分に味わうこと【註5】のための具体的な方法になるのか疑問です。時間を無駄にしたくない人が、時間の長さというものを存分に味わうためには、心の平安があってこそなのだと思われます。他者に迷惑を掛けることになってしまう方法であっては、その目的が台無しになってしまうのではないでしょうか。


註7:蒲鉾のような形  leur forme de nacelle

nacelleとは、❶(気球の)ゴンドラ、吊りかご ❷(乳母車の)座席、寝台、のことですが、宮崎訳は「艀舟(はしけ))です。実際にどのような形なのか、私にも想像がつきません。


註8:見栄えのしない色leur couleur indécise

宮崎訳では、「どっちつかずの色」としています。

 

註9:「それは注目に値することだ」c’est remarquable

タルーの手記のこの部分もにわかに理解しがたいのではないでしょうか。作者のカミュ自身も、この段階で、読者を理解に導く意図はなく、伏線を置いているように思われます。

 

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聖楽院主宰 テノール 飯嶋正広

 

武蔵野音楽大学について

 

昨年度まで「聖楽院だより」というタイトルでしたが、この4月から1年間、私は武蔵野音大の学生となるため、「武蔵野音大別科生の手記」に改題することにしました。

 

4月1日は、その入学式とオリエンテーションがあります。そこで、この際に、改めて武蔵野音大についての公式情報を集めて、概要を把握しておくことにしました。

 

武蔵野音楽大学は、東京都練馬区羽沢1-13-1に本部を置き、新制大学発足の1949年に日本で初めて音楽大学としての認可を受けた私立大学です。

 

創設者は福井直秋(ふくい なおあき1877年10月17日 - 1963年12月12日)。

 

• 福井直秋略歴:

作曲家、作詞家。富山県中新川郡上市町出身。浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。

1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。

1904年長野師範学校教諭、1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し、1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。作曲作品は多数に上り、ラジオ体操行進曲、ラジオ体操第一(初代)の他、都内から全国にかけての効果も作曲している。

私は個人的には、郷里の茨城県水戸市立五軒小学校校歌(作詞:葛原しげる)も手掛けていることに興味がひかれた。

 

• 現学長はピアノ科教授の福井直昭氏で、同氏は1993年慶應義塾大学経済学部卒業、1995年武蔵野音楽大学大学院修士課程器楽専攻修了。

更に1998~2000年の間、ミュンヘン音楽大学にて研鑽を積む。修士(音楽)、学士(経済学)。創設者一族は音大卒以上に多くが慶應義塾大学出身者で占められている。

 

私立音楽大学としては歴史も古く、音楽教員も数多く輩出しています。

声楽家だけでも、故エレナ・オブラスツォワ(ソ連・レニングラード:現、ロシア・サンクトペテルブルク出身、メゾソプラノ)、佐藤美枝子(ソプラノ)、堀内康雄(バリトン)、松本美和子(ソプラノ)の各氏が名を連ねています。

     
2012年から2017年にかけて江古田キャンパスの建替が行われ、ベートーヴェンホールを除く全建物が建て替えられました。2012年以前は大学2年までは入間、3年以降江古田で授業を行っていたが、2017年より大学の授業は原則として全て江古田に集約されました。

 

 

キャンパス(江古田)

音楽学部(1~4年次)、大学院、附属江古田音楽教室。ベートーヴェンホール(ホール棟)、ブラームスホール(ホール棟)、モーツァルトホール(N棟)、武蔵野音楽学園記念室(E棟)、図書館(C棟)、楽器博物館(S棟)がある。今年の別科の入学実技試験はモーツアルトホールで行われました。

 

別科

平成23年度より再開した「別科」は、器楽、声楽、作曲、指揮の4つの実技科目より一つを選択し、その選択した実技レッスン(週1回60分の個人レッスン)と、音楽理論、西洋音楽史の学科目(50分のクラス授業) を受けることができるコースです。
 週2回の通学ですが、実技レッスンは毎週火曜日(12:40~13:40)なので、診療の昼休みを活用でき、座学の授業は毎週土曜日ですが、新型コロナ感染症対策のため、当面の間はオンライン授業となり、私にとっては大助かりです。

 

以下は、武蔵野音楽大学別科についてのオフィシャルサイトからの抜粋です。

 

21世紀は、知識基盤社会であるといわれます。そこでは、誰でもが、いつでも自ら選んで学べる機会(ユニバーサル・アクセス)が必要です。そのために、大学は18才の世代のみならず、幅広い年齢層や異なる経歴、また、さまざまな学修の目的を持つ人たちを受け入れ、広く学びの場を提供することが求められています。
 

武蔵野音楽大学別科は、この社会的なニーズに応えて開設しているものであり、修業年限は1年ですが、法令に定められた大学の教育です。従って、入学生は正規の大学生と認められます。
 

短期間ではありますが、それぞれが持つ目的に従い、音楽の学修を強く望む人たちに最適のコースです。
 

私は武蔵野音大で集中的にロシア声楽の研修を受けることになるのですが、かつてロシアの歌手がここで教えていたことに驚きました。次回は、ロシア語のウィキペディアから検索できた故エレナ・オブラスツォワ先生の情報を、ロシア語の勉強を兼ねてご紹介させていただく予定です。