故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 

夭折の詩人、立原道造をしのんでNo2

 

さて、なぜ、立原道造を調べはじめたのかというと、それにはきっかけがあります。

 

水戸の駅近くの大通りに面して、「とらや書店」という老舗の古書店があります。私が中学生のころからご縁のある書店です。立原道造と水戸の繋がりについて、この書店の2代目店主のツイッター記事が私のワイフから送られてきました。

 

私の家系のルーツ研究の拠点となる水戸市飯島町を訪れてみると、飯島姓は皆無で、そのかわりに立原姓の表札が目立っていたことが印象に残り、気になっていたところでもありました。

 

飯島町には鹿島神社という村社があります。

村社ながら、風格があり、治承2年(1178年)創建とされます。御祭神は武甕槌命(タケミカツチノミコト)で、神社の由緒書に「鹿島神宮より御分霊を迎え水江添(現飯島町)の古墳上に奉斎」とあるとおり、社殿は円墳上に建てられている他、境内に円墳が2基残っていると伝えられています。

飯島の地は、古来重要な塩の道として太平洋と内陸を繋ぐ要衝であったようです。

 

詩人立原道造の家系は本姓が桓武平氏であり、常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とするとされています。

後に、立原城常陸守護職 佐竹氏の家臣あるいは常陸守護代江戸氏の家臣となる一族が分流していきました。

私は、鹿島郡を本拠にしていた立原氏が、塩街道に沿う飯島に勢力を伸ばしてきたのではないか、と考えています。

なお、佐竹氏の家臣あるいは江戸氏の家臣となる一族が分流したことについては、飯島氏と共通点が見出されました。

 

ただし、飯島氏の一族のうち徳川幕藩体制下で水戸藩士となった流れは見出せません。その点が立原氏とは異なる点です。

 

参考のために、水戸藩士となった立原氏について、ウィキペディアから引用します。

 

 

水戸藩士 立原氏 (立原蘭渓流)

貞保の代から水戸藩士となり、徳川宗堯に仕官したという。立原蘭渓がはじめて世に知られるようになる。蘭渓には嫡男の立原翠軒萬、早世する演、永井方教の室となる於幸がいた。 嫡男 翠軒は山崎氏と婚姻し、杏所任と鶴見氏に養子入りする弘を生む。立原氏はこの翠軒、杏所の代に藩で重用されたことで家運向上した。ちなみに、杏所には9人の子があり、長女・阿端、於青、長男・元三郎、二男・清彦、三女・栗、三男・朴二郎、徳川斉昭側室で喜連川縄氏の生母となる四女・利子(夏)、友部煕正に嫁す五女・辰子、千葉道三郎に嫁す六女・稲子がいた。このうち、家督は三男 朴二郎が継ぎ、水戸藩家老・安島帯刀信立の娘婿となるが、尊皇攘夷運動に加わり、死罪となる。なお、朴二郎には妻・松子との間に、早世する萬之介と長女・羊子がおり、羊子の婿に野口氏より豊三郎を迎える。豊三郎は妻との間に佐武郎が生まれるという。

 

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上記の情報をもとに、蘭渓流立原氏の直系の系譜を作製すると、

 

立原翠軒(1)―立原杏所(2)-立原朴二郎(3)―羊子―佐武郎

 

となります。

立原道造までの流れを確認することは簡単ではないようです。