アルベール・カミュ作 『ペスト』を読むNo34 

 

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― On ne peut pas toucher a un malade, a un homme qui s’est pendu, n’est-ce pas, docteur?

Rieux le considéra un moment et l’assura enfin qu’il n’avait jamais été question de rien de ce genre et qu’aussi bien, il était là pour protéger son malade. Celui-ci parut se détendre et Rieux fit entrer le commissaire.

 

「病人に手出しはできないですよね。首を吊った自分のような男を、そうですよね、先生?

リゥ医師はしばし彼の状態を見極め(註1)、最後に、この種のことはかつて一度も取り沙汰されたことはなかったし、いずれにしても、自分は患者を守るために自分がここに控えているからと請け合った。この患者の緊張が和らいできた様子だったので(註2)、リゥ医師は警部を中に入れた。

 

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(註1)

しばし彼の状態を見極め
Rieux le considéra un moment
    

この部分は、実際に患者を診てきた実務経験のある医師であれば、責任感のある医師として描かれているリゥであればどのような行動をとるのか、という観点で内面的な側面も洞察して読み解いていくことでしょう。

 

「リウーはいっとき彼の様子を見まもり、」(宮崎訳) 

 

「リユーは一瞬彼を見つめたあと」(三野訳)

 

「リューはしばしコタールの顔を見つめ、」(中条訳)

 

considérerという動詞は、よく見る、考察する、という意味の拡がりがありますが、目的をもってよく見て観察し、考察し判断するという、一連の知的思考プロセスを表しています。

ですから、単に相手を見つめるのではないし、顔色だけをうかがうものでもなく、相手の総合的な状況、すなわち様子を観察するものであると考えます。

 

それでは、リゥ医師がどんな目的でコッタール氏を観察し、判断するかについてですが、「診察して見立てをする」という医師としては当然の行動をとっていると理解することが可能です。そういう意味では、私は宮崎訳を最も高く評価します。

 

un momentの解釈についても、瞬時、短時間という意味の他にしばらくの間、かなりの時間という意味も含まれます。

つまり、物理的な時間の長さとしての幅は大きいといえるでしょう。

かなりの時間の場合には、多くの場合bon momentと表現されるとしても、少なくとも瞬時、短時間と訳すことは必ずしも妥当しないケースがあるということです。

リゥ医師がコッタール氏に対してどれだけの時間をかけて状態を観察していたかについては、逆に言えば、コッタール氏の状態を観察するに必要な最小限の時間は必要になるということになるでしょう。

少なくとも、「一瞬」(三野訳)ではなく、「いっとき」(宮崎訳)、「しばし」(中条訳)が適していると考えます。

 

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(註2)

この患者の緊張が和らいできた様子だったので

Celui-ci parut se détendre

 

この部分は、医師としてのリゥが患者であるコッタールの状態を誠実に観察して、医師として次にどのような対応をすべきかという配慮がなされているという理解の上で翻訳したいものと考えます。

 

「コタールはやっと緊張がほぐれたらしく、」(宮崎訳) 

 

「病人の緊張はほぐれたように見え、」(三野訳)

 

「コタールはほっとした顔を見せ、」(中条訳)

 

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On lut à Cottard le témoignage de Grand et on lui demanda s‘il pouvait préciser les motifs de son acte. Il répondit seulement et sans regarder le commissaire que « chagrins intimes, c’était très bien ». Le commissaire le pressa de dire s’il avait envie de recommencer. Cottard, s’animant, répondit que non et qu’il désirait seulement qu’on lui laissât la paix.
 

一同はコッタールの前でグラン氏の証言が読み上げ、彼に自身の行為の動機を供述できるかと尋ねた。コッタールは警部には目もくれず、「個人的な悩みねえ、ご名答ですよ。(註3)」と答えるだけであった。そして、警部は、「もう一度やろうと企てていないないかどうかの言質を迫った(註4)。コッタールは興奮して、そんな気はない、ただ波風を立てないでほしいだけだ(註5)と答えた。

 

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(註3)

「個人的な悩みねえ、ご名答ですよ

« chagrins intimes, c’était très bien »
    

コッタールは警部には目もくれずに答えていることの意味をよく弁えて翻訳したいものです。私はコッタール氏は、証言者のグラン氏に対しても、警部に対してもシニカルな返答をしているものと理解しています。

 

「内的な悲嘆というのは、たいへんよく当たっています」(宮崎訳) 

 

「内心の苦悶、まさにそれです」(三野訳)

 

「内面的な悲しみというのはよく当てはまる」(中条訳)

 

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(註4)

言質を迫った

(Le commissaire) le pressa de dire s’il…

 

警部は、自分の取り調べを手っ取り早く片付けるために、都合の良い調書の作成に必要な文言を残そうとやっきになっていることがうかがわれる場面です。

 

「しきりにいわせようとした」(宮崎訳) 

 

「言わせようとした。」(三野訳)

 

「なんとかいわせようとした。」(中条訳)

 

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(註5)

ただ波風を立てないでほしいだけだ

il désirait seulement qu’on lui laissât la paix
   

解釈が難しいというよりは、日本語として自然な訳文とは何かを検討したい部分です。

 

「ただ自分の平和な生活をそっとしておいてもらいたいだけだ」(宮崎訳) 

 

「自分はただ平穏を与えてもらいたいのだ、」(三野訳)

 

「自分の平和を大事にしてもらいたいだけだ、」(中条訳)

 

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― Je vous ferai remarquer, dit le commissaire sur un ton irrité, que, pour le moment, c’est vous qui troublez celle des autres.
 Mais sur un signe de Rieux, on resta là.

「はっきり言わせていただくが(註9)、目下のところ、世間を騒がせているのはあなたの方なのですよ。

と、警部は苛立った口調で言った。

しかし、リゥ医師が身振りでたしなめてその場を収めた(註10)。

 

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(註9)

はっきり言わせていただくが

Je vous ferai remarquer
   

この部分は、多様な表現が可能なところですが、対人相互の関係性をどのように捉えるかによってニュアンスの違いが生まれます。ただし、二人称単数形の<vous>を活かした訳に心掛けたいと思います。

 

「ご注意申しますがね」(宮崎訳) 

 

「言っておくがね」(三野訳)

 

「いっておくがね」(中条訳)

 

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(註10)

身振りでたしなめて、その場を収めた

sur un signe de Rieux, on resta là
   

<un signe>を「合図」と訳すのは適切か、という疑問があります。警部とリゥ医師が昵懇の間柄で予め合図を決めていたというのでなければ、何らかの了解可能な身体動作である「身振り」としました。そして、「合図」であれ「身振り」であれ、行為の目的があるはずであり、この場合は、<on resta là>(その場が収まる)ようにたしなめることに他ならないのではないでしょうか。

 

「リウーの合図で、それもその程度で打ち切られた」(宮崎訳) 

 

「リユーの合図によって、彼はそう言うにとどめた。」(三野訳)

 

「リューが合図して、話はそこまでになった。」(中条訳)

 

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― Vous pensez, soupira le commissaire en sortant, nous avons d’autres chats à fouetter, depuis qu’on parle de cette fièvre...
Il demanda au docteur si la chose était sérieuse et Rieux dit qu’il n’en savait rien.

「お察しください(註10)、この熱病のことが取り沙汰されてからというものは、他にも厄介な諸々の仕事が残されているんです…(註11)と、警部は退出しようとしながら、ため息まじりにつぶやいた(註12)。

警部はリゥ医師に、事態は深刻なのか(註13)どうかと尋ねると、リゥ医師は、それは自分にも皆目わからない、と答えた。

 

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(註11)

お察しください、

Vous pensez

 

この部分の解釈も、警部とリゥ医師との関係性の読み取りが必要であるように思われます。

宮崎訳では<Vous>を親称二人称複数形として解釈しています。

これは、いささか不自然です。その場合は、警部の対手はリゥ医師とコッタール氏ということになりますが、警部はリゥに対する敬意とコッタール氏に対する反感とを抱いていて両者を区別して一緒にはしていないと理解するのが妥当ではないかと思います。

これに対して三野訳と中条訳では、<Vous>を敬称二人称単数形として訳出しています。しかし、「お察しの通りです」(三野訳)とまで訳すことができる背景や根拠が不明です。私は、警部が、リゥ医師に理解を求める気持ちを端的に表現しているものと理解しています。

 

「あんたがたはどう思っとるか知らんが」(宮崎訳) 

 

「お察しの通りです」(三野訳)

 

「ご存じとは思うが」(中条訳)

 

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(註12)

他にも諸々、厄介な仕事が残されているんです

…nous avons d’autres chats à fouetter
   

Avoir d’autres chats[chats]à fouetterという慣用句があり、これは「ほかにもっとも大事な仕事がある」という意味です。そして<fouetter>とは、鞭打つこと、≺à fouetter>は鞭打つべき、ということになります。

 

「余計なことになんぞかかり合っとる暇はありゃせんですよ」(宮崎訳) 

 

「われわれには他にやらなきゃならん仕事があるのです、」(三野訳)

 

「やらなきゃならないことがたくさんあるんです」(中条訳)

 

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(注13)

(警部は)退出しようとしながら、ため息まじりにつぶやいた

soupira le commissaire en sortant,

 

<en sortant> 前置詞<en>と現在分詞<~ant>とでジェロンディフを構成しています。これは同時性(~しながら)を表すことが多く、宮崎訳、三野訳では、この解釈に基づいていますが、中条訳では、(出てから)といているように、その他にもさまざまなニュアンスを表す可能性があります。
   

また動詞<soupira>の不定形soupirerは、自動詞であれば単に(溜息をつく)ですが、他動詞であれば(溜息交じりに言う)という意味になります。

soupira le commissaire en sortant,はVous pensez nous avons d’autres chats à fouetter,

(我々は他にも諸々、厄介な仕事が残されているということはお察しであるとは思いますが)と警部が発言している一文への挿入句であることに着目して解釈したいと思います。

 

「出て行きながら警官は溜息をついた。」(宮崎訳) 

 

「外へ出ながら署長はため息をついた。」(三野訳)

 

「警視は部屋を出てからため息をついた。」(中条訳)