前回はこちら

 


認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

 

なぜ病気が長引くのか…発作性の症状対策

 

<痛風発作編その5>

 

・・・ふだんからの血清尿酸血のコントロールが決め手・・・

 

尿酸はプリン塩基(アデニン、グアニン)分解の最終産物です。
高尿酸血症を4大分類すると、

 

1) 腎負荷型(尿酸産生過剰型あるいは腎外排泄低下型)
尿酸合成阻害薬:主にキサンチンオキシドレダクターゼ(XOR)の阻害による酸化ストレスの低下、臓器障害の予防効果あり

 

2) 尿酸排泄低下型

 

3) 腎外排泄

 

4) 腎外排泄型

 

となります。

 

尿酸産生過剰の原因は、①食事からのプリン摂取過剰、②内因性のプリン酸性の増加、③プリン体の分解亢進などが考えられます。

 

特殊な病態としては、レッシューナイハン症候群といって、プリンサルベージ酵素(HGPRT)の完全欠損症では、プリン体産生が増加し、高尿酸血症となります。

 

また、癌化学療法時にも腫瘍細胞内のプリン体が多量に放出されるために高尿酸血症を来すことが知られています。とりわけ、腫瘍崩壊症候群といって、癌化学療法に伴う急激な高度の高尿酸血症も知られています。

 

 

痛風の治療も副作用管理が重要です。

・キサンチンオキシダーゼ阻害薬:メルカプトプリン、テオフィリンの血中濃度が上昇するため

 

・ベンズブロマロン:劇症肝炎の報告があり、投与開始後6カ月は定期的に肝機能検査を実施します。

 

・ラスブリカーゼ:主に肝障害、アナフィラキシー、溶血性貧血(G6PD欠損症など赤血球酵素異常による)があります。

 

 

<腎障害時の注意点>

通常では中等度以上の腎障害例や尿路結石保有例ないし既往例などでは尿酸生成抑制薬を用いることが多いです。アロプリノール(ザイロリック®)が多く使用されています。しかし、腎不全では、代謝産物であるオキシプリノールが増加し、副作用が重篤化することがあります。そこで中等度の腎障害まで投与量の調整は不要な、フェブキソスタット(フェブリク®)が使いやすいです。

 

また、血中尿酸濃度低下が最も強力な尿酸排泄促進薬(ユリノーム®)を使用する場合には、尿路結石を予防するために、尿アルカリ化薬である重曹(ウラリット®)を併用し、尿pHを6.0~7.0に維持します。また、選択的尿酸再吸収阻害薬であるドチラヌラド(ユリス®)が承認され、肝障害や薬物相互作用の懸念が少ない薬剤として期待されています。

 

前回はこちら

 



臨床産業医オフィス

<高円寺南労働衛生コンサルタント事務所>

 

産業医・労働衛生コンサルタント・第一種作業環境測定士・衛生工学衛生管理者

 

飯嶋正広

 

 

企業の禁煙推進戦略 No.5

 

職場は、適切な組織的対策が求められている!

 

Q5.衛生担当者からは、どのようなアプローチが求められますか?

 

禁煙サポートには、人事部と衛生管理者をはじめ衛生委員会参加者と産業医が連携して進めることが良いと思います。そして、禁煙成功者に禁煙促進員(ファシリテータ)に加わっていただくことも有効です。


安全衛生委員会の委員の中にも、当然、喫煙者の方が参加されている可能性はあります。私が、禁煙対策について地道なサポートを続けていく過程で、そうした喫煙者であった委員の方から禁煙成功のご報告を受けることがしばしばあります。

 

私のように喫煙歴のない産業医より、禁煙に成功した元喫煙者の方の方が影響力が大きいことをしばしば実感します。ですから、そうした禁煙成功者を禁煙推進者として活躍していただきことはとても有意義だと思います。

 

つまり、<善意による健康の拡大再生産>をはかることです。

そのためには、企業の衛生担当者がタバコについて情報収集することも大切です。
今では禁煙に関する有用なテキストが数多くありますので、そういった資料を活用して、企業の方には理解を深めていただくことも大切です。

 

また、経済産業省の認定制度「健康経営優良法人」の認定基準にも「受動喫煙対策」は必須項目になっています。

 

最近の高校生、大学生は吸わないことが当たり前の世代ですから「スモークフリーな職場」でないと新入社員が確保できにくくなると考えています。

 

2022年度を新たな節目の年度として、この流れの先陣を貼っていただきたいと願っております。

 

 

まとめ:企業の経営者、衛生担当者、喫煙者の方へメッセージ

 

職場の喫煙問題の解決に必要なこと、それは受動喫煙が発生しないための環境づくりです。

 

繰り返しになりますが、第一歩は、決断することです。

つまり、思い切って職場から喫煙スペースを無くしてしまうことです。
タバコが吸える環境を無くしてしまうことで「禁煙企図」が高まり、その結果、禁煙の支援になります。

 

1年間だけでもトライしてみて、支障がなければそのまま喫煙スペースを無くしてしまうのも手でしょう。

 

そして、喫煙者の方に知ってもらいたいのは「禁煙は、何歳からでも遅くない」ということです。

「もう長年タバコを吸ってきたから、今さら…」という方も多いですが、禁煙をはじめた瞬間からリスクは減少していきます。

 

禁煙して10年で心血管系疾患への影響はなくなり、15年経過すると肺がんのリスクも非喫煙者と差がなくなります。

仮に失敗しても、あきらめずに何度でもトライしてください。

 

私の禁煙指導歴は30年以上に及びますが、現在私のクリニックを受診される方で喫煙者はゼロです。私は諦めることも、匙をなげることも決してせずに、根気強くチャンスを待ちました。こうして喫煙者も全員禁煙に成功しました。ですから、禁煙の最大のコツは「成功するまでトライする」ことです。

 

前回はこちら

 


常陸國住人 

飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その9)

 

応永26年(1419)から天正18年(1590)にかけての飯島氏

 

泰平で長続きしたとされる応永の約35年間も、常陸国においては必ずしも平穏な時代ではなかったようにみられます。その後の飯島氏にとっても、主家(本家?)の江戸氏とともに水戸の近隣の支配を拡げたものの、ごく限られた期間の表面的な繁栄に過ぎなかったのではないかと見られます。とまれ、応永年間の後も、応仁の乱が終焉した文明5年(1473)をその間に挟み、およそ170年に及ぶ領主として支配していた時の流れの有様については興味深いものを感じています。

 

飯島氏が、飯島(水戸市)から勝倉(旧:勝田市、新:常陸那珂市)に本拠を移した時期は、江戸氏3代通房が水戸城を奪った応永34年(1427)以降であろうと思われます。

それは、河和田城のある河和田に隣接して飯島があるように、勝倉城は那珂川を挟んで水戸城と指呼の距離にあります。

そして、飯島氏は江戸氏の重臣であるとされますが、一族であるという資料もあります。もちろん一族が臣下になることに矛盾はありません。

 

いずれにしても、主家の江戸氏の新領となった、河和田・鯉渕・赤尾関などの地名に並んで飯島が登場していないことに疑問を感じていました。しかし、そもそも飯島が河和田の一部であると認識されていたのではないかと考えると納得がいくように思われます。

そして、飯島氏の棟梁が飯島から勝倉(城の内、台城)に移った後も、飯島には砦(飯島砦)が築かれていて、七字氏(飯島の同族か?)が部将として支配していたようです。

 

現在に続く水戸市飯島町字薬師原の七字氏について、太田亮の「姓氏家系大辞典」によれば、「悉知」姓が改められたとあります。私自身の知人にはいませんが「悉知」「七字」両姓とも茨城に多いとされる苗字です。また<茨城県水戸市飯島町(旧:悉知)発祥。記録時代不詳の地名。伝承での比定地。伝承では室町時代に称する。

同地に江戸時代にあった。茨城県水戸市三湯町では草分けと伝える。>とあります。

 

さて、応永年間から時代が降り永禄年間(1558年から1570年までの期間)に飯島七郎という者が勝倉を領しており、永禄5年(1562)8月、相馬盛胤が多珂郡に侵攻してきたとき、勝倉台の館主飯島七郎は佐竹の軍師として戦ったという説があります。

 

「佐竹秘録」に記された義重の代の家臣名簿に軍師として「小田原伊勢、飯島七郎、神長将監、藤弥衛門、安次郎兵衛、同次三郎、岡民部少輔」がみえます。

「常陸遺文」所収の金上系図に、鎌倉時代の人に「飯島七郎頼明、勝倉藤山二居」とあるが、史料の信憑性に問題があるという指摘があります。その理由として、永禄のころ、勝倉の地が佐竹氏の支配下にあったとは思われないので、たしかなことは不明である、ということです。

 

しかし、この考察が妥当でないことは、永禄5年(1562)8月に、勝倉台の館主飯島七郎が佐竹の軍師として戦った説から、飯島七郎の本拠とする勝倉が佐竹氏の支配下でなくてはならないという先入観にまどわされたものであると考えます。

永禄年間、すなわち1558(永禄元年)から1570(永禄12年)については、勝倉は水戸城に本拠を置く累代の江戸家との密接なつながりがあるため、当然、佐竹領ではありません。

永禄元年(1558)および同5年(1562)の水戸城主は、いずれも江戸氏7代当主忠通(1564死去)、また永禄12年(1570)の水戸城主は江戸氏9代当主重通(1567家督相続)でした。

 

さらに、飯島七郎の先祖は江戸氏の一族であり、当時は江戸氏の譜代の重臣であるとしても、陸奥の相馬氏が常陸国を侵攻するという非常事態において、それを迎え撃つ佐竹氏に軍師として急遽加勢することは何ら不思議ではないと考えます。

その当時の江戸氏と佐竹氏の関係も複雑であり、互いに姻戚関係となったり、江戸氏が佐竹氏に臣従したり、あるいは佐竹領を脅かしたりするなど、謀略に満ちた駆け引きが繰り広げられているからです。

 

しかし、私がここで興味深く感じられるのは、「飯島七郎頼明」と名乗る人物が、鎌倉時代に既に勝倉に居していた可能性が残されていることです。鎌倉時代は1333年(元弘3年/正慶2年)に終焉を迎えますが、常陸国飯島氏の名の初出となる飯島七郎光忠・子息宗忠の「熊野山願文」(1391)と比べても極端に大きな年代的隔たりはありません。

つまり、飯島七郎という名乗りが鎌倉期から続いてきた名跡である可能性も若干残されているのではないかということです。また、これに比べて飯島の地名(現水戸市飯島町)は、旧くは悉知と呼ばれていたことから、飯島氏が悉知を支配することで、その地を飯島と命名した可能性も残されていることになります。

 

そこで再び「勝倉今昔多抄」に立ち戻ってみたいと思います。それは、巻末の年表(勝倉年代表)がよく整理されているからです。
 

抜粋ですが、室町時代の表の中から、飯島氏関連の記述を抜粋してみます。

「1392(元中9年)南北朝合一、1427(応永34年6月2日)大掾(21世)満幹は河和田城主江戸但馬守通房に敗れ水戸城を奪われる。<勝倉関係の記録>勝邑城主持幹その子幹行大敗し、録千貫を奉り江戸氏に降る。この戦で不二佐久(藤咲)要、鹿島二郎、福平(福田)信方等18名戦死。江戸氏の一族、飯島七郎城の内に台城を築き城主となる。1561(永禄5年)佐竹義昭相馬盛胤と孫沢原に戦いこれを破る。<勝倉関係の記録>台城主飯島氏、佐竹軍の軍師となり参戦。台城主飯島氏失脚、持幹四世の孫満幹その領地を併合する。」

 

天正十八年(1590)

水戸落城時討死江戸氏家臣(常陸誌料):飯島縫殿(いいじまぬいのすけ)

天正末期の江戸氏支城砦

 


天正(1573~1592)末期は(1590頃か?)

城砦:飯島、部将:七字勘解由、

典拠:江戸旧記

 

1572年                       

勝倉城主:飯島縫殿
水戸城主:江戸通政

 

1582年

勝倉城主:飯島縫殿

水戸城主:江戸重通

 

1590年

勝倉城主:飯島縫殿

水戸城主:江戸重通


<出典:「戦国大名事典」より>

 

1572年から1590年に至る勝倉城主が飯島縫殿であることを前提とするならば、飯島縫殿は同時に七郎を名乗っていた可能性はあるのかがよくわかりません。同一人物であるとすれば、江戸家臣で勝倉城主の飯島七郎縫殿は天正十八年十二月に佐竹義宣に滅ぼされたことになります。いずれにせよ、七郎は、飯島氏の通字であるとするのが妥当なのではないかと考えます。しかも、水戸城落城時の飯島縫殿と飯島砦の部将七字勘解由は同族である可能性が高いと考えています。

 

ただし、上記の表には誤りがあるようです。1572年(元亀3年)は、9代当主重通が城主であったと考えられます。その理由は、8代当主通政が1567年(翌永禄10年)に、享年30で死去しているからです。また、通政は、1570年(永禄13年/元亀元年)に14歳で元服し、1572年には16歳になっていたからです。なお「重」の字は佐竹義重から偏諱を受けたとされます。1590年(天正18年)12月19日に重通は佐竹義重の攻撃を受け、居城の水戸城を落とされて結城晴朝の下へ落ち延びました。 慶長3年(1598年)、享年43にて死去。

 

今回をもって、常陸国飯島氏のルーツ探訪のシリーズは、いったん終了といたします。

新たな資料が入手できましたら、更なる研究を進めていきたいと考えます。

以下は、参考資料です。

 

<歴代水戸城主江戸氏通史>

江戸 通景:江戸氏2代当主。

那珂通泰の子、通高は嘉慶二年(1388)には南朝方の難台城を攻略する軍功をあげています。しかし、通高はこの難台城攻めで戦死し、その賞として子の通景は鎌倉公方氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられた。江戸氏を名乗る。因みに、飯島は河和田、鯉渕、赤尾・関に囲まれる場所に位置する。

 

江戸 通房:江戸氏3代当主。

初めは河和田城(水戸市)を本拠としていたが、応永34年(1427)水戸城主・大掾満幹が青屋祭を行うために城を離れて常陸府中に向かった隙に水戸城を占拠して自らの居城とした。その後、子・通栄を額田小野崎氏の後継者に送り込み、周辺を子弟で固める一方、守護の佐竹義人と結んだ。義人の後を巡る佐竹義俊・実定兄弟の争いに対しては山入祐義と共に実定を支持し、享徳元年(1452)に実定が常陸太田城を占拠し義俊から佐竹氏の家督を奪うと、通房は実定の補佐役としてその政権を支える役目を果たす。享徳の乱では、関東管領上杉房顕に従って古河公方足利成氏と戦い、長禄3年(1459)には、室町幕府将軍である足利義政から幕府と主君・実定への忠節を賞賛されている。但し、11月には成氏派の小田持家に敗れている。

寛正6年(1465年)、死去。享年56。

 

江戸 通長:江戸氏4代当主。

江戸通房あるいは通房の子・通秀(修理亮)の嫡男として誕生。
寛正6年(1465)、家督相続。当時の常陸守護・佐竹氏では、先々代の佐竹義人が一旦家督を譲った嫡男・義俊を廃して弟・実定を守護にした事から内紛が生じていた。通長は実定を支持していたが、実定の死後に義俊が常陸太田城に復帰して、実定の嫡男・義定は水戸城の通長を頼った。ところが、義人の死後の文明9年(1477)に義俊方の刺客が水戸城を襲撃して義定を暗殺すると、通長はこれに驚いて義俊に降伏した。その後は佐竹氏傘下として文明13年(1481)には小鶴原の戦いで小田成治を破り、続いて鹿島郡に進出するなど、常陸南東部に勢力を広げた。ところが、延徳2年(1490)に山入義藤が佐竹氏に叛旗を翻すとこれに加担した。明応3年(1494)、病没。通長には子が無かったため、家督は弟・通雅が継いだ。

 

江戸 通雅:江戸氏5代当主。

寛正4年(1463)、誕生。父は江戸通房または江戸通秀あるいは江戸通長ともされる。文明18年(1486)、大山義成と共に徳宿城主・徳宿三郎を滅ぼす。延徳2年(1490)、山入の乱で山入義藤に呼応し水戸城周辺から那珂川にかけての佐竹氏の所領を奪うも、明応元年(1492)に義藤が死ぬと岩城氏の仲介で佐竹義舜と和睦、那珂川周辺の所領を義舜に返還。翌明応3年(1494)、父または兄である通長が没したため、家督相続。以後、佐竹義舜に従属して永正元年(1504)、義舜と共に山入氏義を攻め滅ぼした。永正7年(1510)12月2日、義舜から「一家同位」の家格を認められたが、直後の12月20日に死去。享年49。

 

江戸 通泰:江戸氏6代当主。

文明18年(1486)、江戸通雅の子として誕生。永正7年(1510)、父が没すると兄・通則も先だって死去していたため家督相続。
佐竹義舜に従属して常陸南部に勢力を広げる。永正の乱では義舜と共に足利高基を古河公方に擁立して小田氏などと戦った。大永4年(1524年)には大掾忠幹や鹿島氏重臣・松本政信(右馬)と結んで鹿島義幹を攻め下総国に追放、通泰の姪婿・通幹(大掾忠幹の実弟)を鹿島氏当主に送り込み 、鹿島郡進出を図った。天文元年(1532)、大洗の小幡義清を滅ぼし、その城を奪う。しかし、鹿島郡への進出は後に大掾氏と敵対したために、その野望を十分に果たす事は出来なかった。天文4年(1535年)、死去。享年50。

 

江戸 忠通:江戸氏7代当主。

永正5年(1508年)、江戸通泰の子として誕生。天文4年(1535年)に父・通泰が没したため家督相続。佐竹氏の所領を侵略するが伊達稙宗の斡旋で佐竹義篤と和睦。その後、内紛を収拾し勢力を拡大する佐竹義篤に従属。宇留野義元の起こした部垂の乱(享禄2年(1529年)から天文9年(1540)や天文11年(1542)からの伊達氏の洞の乱に出兵。天文14年(1545)、佐竹義篤が病死すると佐竹氏に反抗、義篤の後を継いだ佐竹義昭と争う。天文19年(1550)に戸村で勝利を収めたが、翌天文20年(1551年)に降伏に追い込まれた。
後に許されて小田氏治と大掾慶幹の仲裁を行い、また弘治2年(1556)に芳賀高定の要請を受け嫡男・通政や足利義氏、佐竹義昭らと共に、壬生綱雄に宇都宮城を追放された宇都宮広綱が宇都宮城に復帰する際、援軍として参加。
晩年は嫡男・通政の健康問題に悩まされる。鹿島神宮に鎧兜一式を奉納して健康回復を願うも好転せず、やむなく嫡孫・重通を後継者としたが、永禄7年(1564)重通が9歳の頃、死去した。享年57。

 

江戸通政:江戸氏8代当主。

天文7年(1538年)、江戸忠通の子として誕生。
弘治2年(1556)、芳賀高定の要請を受け父・忠通や足利義氏、佐竹義昭らと共に、壬生綱雄に宇都宮城を追放された宇都宮広綱が宇都宮城に復帰する際、援軍として参加。しかし、通政は生まれつきの病弱で、回復の見込みが無いため廃嫡して孫・重通を後継者とするが、永禄7年(1564)に父・忠通が急死し、重通も僅か9歳であったために重通の元服までという条件で通政が当主となった。
永禄9年(1566年)、上杉謙信と佐竹義重の意見が対立した際にその仲裁を行っているが、翌永禄10年(1567年)、死去。享年30。その治世は僅か3年であった。
江戸重通:江戸氏9代当主
弘治2年(1556年)、江戸通政の嫡男として誕生。
永禄10年(1567年)、父・通政が病死したため家督を相続。この頃になると北条氏政の関東における勢力拡大が常陸にまで及び、重通は佐竹義重に半従属の形で従って北条軍の侵攻に対抗していた。永禄13年/元亀元年(1570年)、元服。「重」の字は佐竹義重から偏諱を受けたと思われる。
天正3年(1575年)、江戸氏が保護していた真言宗の僧侶に絹衣の着用を許可。これは当時、朝廷が定めた僧侶の服装規定に反するものであったため、正親町天皇と織田信長が揃って問責の使者を出した。ところが、重通はこれを逆手に取って朝廷と信長に自分を売り込み、翌年8月4日には従五位下・但馬守に補任される事になった(絹衣相論)。

しかし、北条軍の攻勢は激しく、天正6年(1578年)に重通は後北条氏と降伏に近い形で和睦した。ところが、ここでも重通は抜け目無く佐竹氏・北条氏両方に自分を売り込んで大掾氏・鹿島氏の討伐の許しを得る。

天正15年(1587年)に鹿島郡を制圧し、翌天正16年(1588年)には佐竹義重の援軍を受け大掾清幹を降伏させた。

だが、こうした急激な拡大路線によって負担を強いられた神生氏など家臣団が離反し始めて家中は分裂、江戸氏は急速に衰退していく。

また、その後も江戸氏と大掾氏の対立は収まらなかったとみられ、天正18年(1590年)の小田原征伐に際して、大掾清幹は豊臣秀吉の命に応じて出陣する佐竹義宣に対して秀吉への詫言(謝罪)を依頼する書状を送っている。実は重通も同様の動きを見せており、近世以来言われてきた「江戸・大掾両氏は北条氏と結んで参陣しなかった」という説は事実ではなく、江戸氏・大掾氏ともに豊臣方について出陣する意向はあったものの、留守中、相手側による攻撃を互いに恐れて出陣できず、同盟国である佐竹義宣らに秀吉への執り成しを望んでいたのが実情であったと考えられている。
しかし、ここにおいて佐竹義宣はこれを常陸統一の好機と捉えて江戸氏・大掾氏らの執り成し要請を黙殺し、8月1日に秀吉から常陸全域54万石の安堵を受けた。

これにより、同年12月19日に重通は佐竹義重の攻撃を受け、居城の水戸城を落とされて結城晴朝の下へ落ち延びた。佐竹軍はそのまま南下して府中城を攻略し、大掾氏も滅ぼした。

慶長3年(1598年)、死去。享年43。

 

重通の子・水戸宣通は越前国の結城秀康に仕えた。

<はじめに>

前回は「首のこり」に効果のあるツボを紹介しました。

 

「天容」は下あごの骨の角の後ろで両耳の下の位置にあり、

 

「曲池」は肘を曲げたときにできるシワの端で親指側にあり、

 

「天柱」後頭部の髪のはえぎわで、2本の太い筋肉の外側にあるというお話でした。

 

 

今回は「足のむくみ」に効果のある「湧泉(ゆうせん)」「三陰交(さんいんこう)」「承筋(しょうきん)」のツボを紹介しましょう。

 

 

 

<湧泉>

イメージ

足裏で踵から爪先の方向へ指をすべらせて止まるところにあります。

 

 

 

<三陰交>

1__#$!@%!#__イメージ

内くるぶしから指4本上で骨のきわにあります。

 

 

 

<承筋>

2__#$!@%!#__イメージ

ふくらはぎの一番膨らんで高いところにあります。

 

 

 

杉並国際クリニック 統合医療部 漢方鍼灸医学科 鍼灸師 坂本光昭

 

前回はこちら

 

本日の物語には、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」第一幕「冷たき手を」を連想させる描写を見出しました。孤独に生きる人は対話の相手を求めるのものですが、きっかけが必要です。都市生活にあっては、なかなかそれもままならないことが多いのではないでしょうか。

 

 

― Il a frappé hier à ma porte, dit Grand, pour me demander des allumettes. Je lui ai donné ma boîte. Il s’est excusé en me disant qu’entre voisins... Puis il m’a assure qu’il me rendrait ma boîte. Je lui ai dit de la garder.

Le commissaire demanda a l’employe si Cottard ne lui avait pas paru bizarre.

「彼は昨日、私の部屋のドアをノックして、マッチを貸してほしいと言ってきたんです。私は一箱を渡しました。ご近所のよしみで......とか何とか申し訳なさそうに言い淀んでいました(註1)。そして、マッチは必ずお返ししますのでと言うものですから、それはよいから取っておいてください、と言ったんです。」とグランは語った。

警部は、コタールの様子に変ったところがなかったかと、吏員であるグランに(註2)尋ねた。

 

(註1)ご近所のよしみで......とか何とか申し訳なさそうに言いました

Il s’est excusé en me disant qu’entre voisins...

 

「どうも悪いんだが、まあ近所同士だからっていうようなことを言ってましたっけ。」(宮崎訳)

 

「彼は言い訳して、近所に住んでいるからなんとか……」(三野訳)

 

「申し訳ないが隣同士のよしみで、とかんとか言って……」(中条訳)

 

 

(註2)吏員であるグランに 

a l’employe
    

「グランに」(宮崎訳、三野訳、中条訳)
    

いずれの翻訳者も固有名詞であるグランを、職業名の代わりに用い ています。しかし、警部にとって職務質問をする相手である事件関係者が不特定の個人であるグラン氏というよりも、地方自治体の吏員であるグラン氏であるということが大切ではないかと考えます。

 

 

Ce qui m’a paru bizarre, c’est qu’il avait l’air de vouloir engager conversation. Mais moi j’étais en train de travailler.
Grand se tourn avers Rieux et ajouta, d’un air embarrassé:
― Un travail personnel.

「私が妙だと思ったのは、彼が対話をはじめたがっているように見えた(註3)ことです。でも、私は仕事の最中だったものですから。」
グランはリウ医師の方を向き、きまり悪そうにこう付け加えた。
「個人的な雑用だったのですが(註4)。」

 

(註3)対話のやりとりを始めたがっているように見えた

il avait l’air de vouloir  engager conversation.

 

「なんだか話し相手でも欲しがっているような様子だった」(宮崎訳)

 

「彼が話をしたがっているように見えたことです」(三野訳)

 

「話し相手が欲しそうに見えたことですね」(中条訳)
  

コタールがグランとのみ会話したかったのか、人恋しさのあまり、たまたま隣人であったためにグランとの対話を始めたいと思っていたのかについては、この段階ではわかりません。そのため、ここでは三野訳が良いのではないかと思います。ただし、私はコタールがグランとのやりとりをはじめるきっかけを探っている描写であると解釈しています。

 

 

(註4)個人的な雑用だったのですが

Un travail personnel.

 

「個人的な仕事なんですがね」(宮崎訳)

 

「個人的な仕事なんですが」(三野訳)

 

「個人的な仕事だったんですが」(中条訳)

 

宮崎訳や三野訳では、グラン氏の気持ちを伝えることは難しいのではないかと思います。中条訳では、グラン氏の仕事は、さしたる重要な仕事でなかったにもかかわらず、コタールとの関りを避けてしまったことへの忸怩たる思いというニュアンスが感じられます。

 

Le commissaire voulait voir cependant le malade. Mais Rieux pensait qu’il valait mieux préparer d’abord Cottard à cette visite. Quand il entra dans la chambre, ce dernier, vêtu seulement d’une flanelle grisâtre, était dressé dans son lit et tourné vers la porte avec une expression d’anxiété.

ともかく警部は病人に面会することを望んでいた。しかし、リウ医師はまずコタールにこの会見を受けるにあたって心の準備をさせることが先決だと考えた(註5)。リウが部屋に入っていくと、コタールは灰色がかったフランネルの下着を身にまとったきりで、ベッドの上に身を起こし、不安気な表情でドアの方を向き直っていた(註6)。

 

(註5)この会見を受けるにあたって心の準備をさせることが先決だと考えた

Rieux pensait qu’il valait mieux préparer d’abord Cottard à cette visite.

 

「まずコタールにこの会見の心構えをさせておいたほうがいいと考えた」(宮崎訳)

 

「まずコタールにこの訪問に対する心の準備をさせるほうが良いと考えた。」(三野訳)

 

「あらかじめコタールに心の準備をさせたほうがいいと考えた」(中条訳)
各氏の翻訳には本質的な相違はないようです。

 

(註6)ドアの方を向き直っていた

tourné vers la porte avec une expression d’anxiété.

 

「扉口のほうを振り向いた」(宮崎訳)

 

「ドアの方を向いていた」(三野訳)

 

「ドアの方を・・・振り向いた」(中条訳)
 

宮崎訳や中条訳では、コタールは顔だけをドアの方へ向けた、という顔の動作という動的解釈になります。これに対して、三野訳では、体全体がドアの方を向いていた、という静的解釈になります。ベッドの上で身を起こしているコタールのいで立ちは、医師の診察を今か今かと準備して待つ入院患者の様でもあります。

 

前回はこちら

 

 


聖楽院主宰 テノール 

飯嶋正広

 

武蔵野音大でのレッスン中にNHKから(5月24日)

 

5月24日12時40分からの岸本力先生の個人レッスンは、少し早めに始めてくださいました。

 

6月3日(金)に日経ホールで、岸本先生のリサイタルがあることの確認や、NHKの取材があったこと、その他、8月22日(月)に練馬のゆめりあホールで開催される門下生コンサートでの私の歌唱予定曲の相談などをしていました。

 

私はすべてロシア物で統一し、歌曲のみであれば3曲、アリア1曲を含めれば、歌曲も1曲ということを承りました。現在レッスン中の曲の中からチョイスすることになるため、前期のレッスンの総決算という位置づけを兼ねることになろうかと思います。

 

その後、定例の発声練習が済んで、王さんのピアノ伴奏によるレッスンが始まり、2曲目に取り組んでいるところでした。

 

岸本先生の携帯電話に、NHKから最終打合せの連絡のため、数分間のレッスン中断となりました。当日18:00からのラジオ放送が予定されているとのことでした。

 

レッスンから戻り午後の診療が一段落したところで、NHKのニューズウェッブを検索したところ、すでに案内が掲載されておりました。

 

今回は、その報道内容を御紹介いたします。

 

 

NHK NewsWeb(首都圏)

 

声楽家 ロシア音楽歌っていいのか苦悩も“歌で平和訴えたい”

05月24日 16時23分

 

 

「ロシアの音楽を歌い続けていいのか」。

 

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から3か月、日本でロシア音楽の普及に取り組んできた声楽家は、苦悩しながらも、歌うことを通じて平和を訴えたいと考えています。

 

都内に住む声楽家の岸本力さん(74)は、長年、ロシア音楽の普及に取り組み、その功績をロシアから表彰されたこともあるということです。

 

しかし、ウクライナへの軍事侵攻が長期化するなか、ロシア音楽の演奏会で集客が落ち込むなど、影響が出ていると言います。

 

さらに、30年以上指導を続けてきた東京・練馬区にあるロシア音楽の合唱団でも、一部のメンバーから「ロシアの音楽を歌いたくない」という声が上がり、当面、日本の歌を練習することになったということです。

 

岸本さん自身も、ウクライナでの凄惨な映像を目にすることで、「ロシア音楽を歌い続けていいのだろうか」と気持ちがゆらいだと言います。

 

岸本さんは、苦悩しながらも、来月の演奏会の準備をしていて、そこではウクライナの詩人の詩にロシアの作曲家が曲をつけた歌を歌うことを決めたと言います。

 

2つの国を感じることができる曲を披露することで、“音楽に罪はなく、国境もない”という気持ちを表現したい。そう考えています。


岸本さんは「“今はロシア音楽を聞きたくない”という気持ちも理解できます。戦争には反対ですが、ロシアの音楽に罪はなく、私の歌を通して、平和につながってほしいという思いで、使命感を持って歌い続けたい」と話しています。

 

前回はこちら

 

認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

 

腎疾患の治療について(No4)

 

腎臓病の専門的治療薬

 

第119回日本内科学会講演会(2022年)の教育講演5.慢性腎臓病治療の新たな展開(菅野義彦:東京医大)によれば、「従来の腎機能保護の中心は血圧と血糖値の管理であり、これはRAA(renin-angiotensin-aldosterone)系抑制薬等多くの薬物によりエビデンスが示されてきた。病態としては糸球体過剰濾過からの解放である・・・」と述べています。

 

また同氏は「近年は腎機能低下に関する他の機序についての介入が可能になりつつあるが、患者の高齢化に伴い治療における様々な注意点も生じている。」との問題提起をしている。

 

その一つは、おそらくポリファーマシーであると思います。これは、多剤併用のことで、多種類の医薬品が処方されていることです。俗に「薬漬けともいわれますが、専門分化し過ぎた現代医療において、医師の好むと好まざるとを問わず、特に高齢者の医療で発生しがちな問題です。腎疾患治療用の主な薬剤としては、大まかに言って以下の種類があります。」

 

私のクリニックで使用している薬剤は、安全性の高い、限られた薬剤のみを使用しています。これらの薬剤の多くは、腎不全が進行してから使用することになるなるため、腎不全が進行しないように早期に対応することが望ましいことは言うまでもありません。そういう意味においても、腎臓病には特効薬はないのです。
 

しかし、朗報としては、近年有力な糖尿病治療薬として注目されているSGLT2阻害薬であるダパグリフロジン(フォシーガ®)が、慢性心不全(慢性心不全の標準的な治療を受けている患者に限る)に加えて新規に、慢性腎臓病(末期腎不全、透析施行中の患者を除く)にも適応拡大が承認されたことを挙げることができます。

 

この薬剤は、当クリニックでは糖尿病の方のために処方して良好な成績を得ているのですが、糖尿病患者の3大合併症である糖尿病腎症の進展防止に期待できるばかりでなく、高血圧・心不全の治療にも役立つことが期待されます。

 

1) 高カリウム血症治療薬:

この薬剤中には陽イオンが含まれていて、腸内のカリウムイオンと好感させることによって、カリウムを体外に排出させることで、血中で高値となったカリウム濃度を低下させます。

 

この薬剤を使用する前にカリウム接種制限が行われます。

 

急性及び慢性腎不全に伴い高カリウム血症を来した場合は、ポリスチレンスルホン酸ナトリウム(ケイキサレート®)などのほか、2020年3月に新規の高カリウム血症改善薬として、非ポリマー無機陽イオン交換化合物のジルコニウムシクロケイ酸ナトリウム水和物(ロケルマ®)が登場しました。しかし、私のクリニックでは、これまでのところ、これらの薬剤を使用せずに対応できています。
 

 

高カリウム血症治療薬に関する情報そのものよりも大切なのは、高カリウム血症の原因や悪化因子となる薬剤です。
 

降圧薬として頻用されているACE阻害薬、ARB、ミネラルコルチコイド受容体拮抗薬、ベータ遮断薬は、いずれも高カリウム血症の原因となるため注意が必要です。また、消炎鎮痛剤(NSAIDs)も高カリウム血症の原因となり得ます。

 

 

2) 高リン血症治療薬

この薬剤はリン吸着薬である陽イオンであり、消化管内で陰イオンであるリンと結合して、その吸収を妨げます。

 

この薬剤を使用する前にリン接種制限が行われます。

 

透析中の慢性腎不全患者の高リン血症の治療薬として、セべラーマ塩酸塩(レナジェル®、フォスブロック®)が使われますが、私のクリニックでは、現在、透析中の方は通院されていないため使用していません。むしろ、透析に至らないための対策に力を注いでいます。

 

 

3) 代謝性アシドーシス治療薬

この薬剤はアルカリ性物質である重曹(NAHCO₃)であり、経口内服すると胃酸と反応して分解され、その結果、膵液の重曹の消化吸収を促進することによって、血中のアルカリ予備を増やして代謝性アシドーシスを改善します。
 

炭酸水素ナトリウムは、制酸剤として、あるいはアシドーシスの他、尿酸排泄促進と痛風発作の予防が適応になります。私のクリニックでは、高尿酸血症や痛風の専門診療を行っているため、酸性尿改善薬としてクエン酸カリウム・クエン酸ナトリウム配合剤(ウラリット®等)を用いています。尿路結石の再発を抑制することができ、尿酸排泄促進と痛風発作の予防が主目的ですが、同時に腎機能の保護を図っています。

 

 

4)尿毒症治療薬

腸管内で尿毒素物質あるいはその前駆体を吸着し糞便中への排泄を促進します。この薬は進行性慢性腎不全における尿毒症症状の改善や透析導入を遅延(時間稼ぎ)のために使用される炭素微粒体です。私のクリニックでは使用経験はありません。

 

 

5)カルシウム受容体作動薬

副甲状腺のカルシウム感知受容体に直接作用し、過剰な副甲状腺ホルモン(PTH)の分泌を抑制します。
 

腎透析を受けている腎不全の合併症である二次性副甲状腺機能亢進症に対してシナカルセト塩酸塩(レグパラ®)が使用されることがあります。私のクリニックでは、いまだ需要がないため使用経験はありません。

 

 

6)腎性貧血治療薬

赤血球産生を刺激する薬剤です。HIF-PH阻害薬という新しい薬剤であり、ロキサデュスタット(エベレンゾ®)などが使われています。日本腎臓学会は2020年にこの薬剤の適正使用法についての推奨を発表していていますが、私のクリニックでは処方していません。しかし、当方が紹介した連携医療機関の血液科から処方されている方はいらっしゃいます。

 

前回はこちら

 


声楽の理論と実践から学ぶNo.3


横隔膜と大腰筋の繋がりと、仙骨運動との関連性について

 

大腰筋は上部腰椎の側面から横隔膜の後を通って、腸骨筋とともに大腿骨の小転子につながっています。股関節を伸ばすと、大腿骨は大腰筋を介して上部腰椎を前に引っ張り、脊柱の動きを制限します。また、上部腰椎と第12肋骨は弓状靭帯でつながり、その弓状靭帯に横隔膜がつながっています。

 

大腰筋は、平地の歩行ではあまり鍛えられません。階段を上ったり、ハイキング登山を楽しむなどして適切に鍛えることができます。しかし、平坦であっても水中歩行であれば、大腰筋は大いに鍛えられます。

 

水氣道の基本航法の中でも第三航法(前蹴り歩き航法)などで、仙骨のうなずき運動が生じると第5腰椎が伸展します。腰椎が伸展運動を起こすと横隔膜の腰椎部である右脚と左脚が下方へ伸張され,横隔膜全体は下方へ牽引されます。それによって,横隔膜が下降し、横隔膜ドームの平坦化によって,胸郭の垂直径が増えます。また,横隔膜の下降によって,腹腔内容の圧縮,腹横筋のような伸張された腹筋群の他動的張力による腹腔内圧の上昇による抵抗を受けます。

 

腹腔内圧の上昇は,下部肋骨を側方へ拡大させます。腹腔内圧の上昇によって一旦固定されると引き続いて生じる横隔膜の肋骨線維の収縮により下位と中位の肋骨が挙上されます。また,仙骨の起き上がり運動により寛骨は外旋‐内転します。それに伴って,大腰筋は緩んだ状態となり,大腰筋と筋連結をもっている横隔膜も弛緩します。

 

これによって,仙骨のうなずき運動により横隔膜全体は下方へ牽引され,仙骨の起き上がり運動により弛緩が促されることになります。

 

水氣道の航法に組み込まれている、このような仙骨のうなずき‐起き上がり運動の反復訓練によって横隔膜の収縮‐弛緩がスムーズに行われるようになります。

 

その結果、呼吸機能が向上し、心肺機能ならびに全身の筋肉活動を高めることに繋がって行くことが期待できます。
呼吸効率の改善と有酸素運動能力の向上は脳の諸機能を活性化し、気分を安定化させ、認知能力を高めるのに役立ちます。
このようにして、水氣道は心身の両面に及ぶ全人的な鍛錬法として発展を続けています。

 

前回はこちら

 


認定内科医、認定痛風医

アレルギー専門医、リウマチ専門医、漢方専門医

 

飯嶋正広

 

 

なぜ病気が長引くのか…発作性の症状対策

 

<痛風発作編その4>

 

高尿酸血症・痛風は生活習慣病である!

 

高尿酸血症は生活習慣病です。

そこで、飲酒を含めた生活習慣の改善と治療薬の服用を確実にするための行動変容が求められます。

 

ただし、痛風発作の発現・再発や高尿酸血症の合併症を防ぐためには、自覚症状のない(無症候性)高尿酸血症対策も必要であるため、適切な行動変容の前提として、患者教育を通して認知の歪み(素人的な思い込み)を是正することを含めて、少なくとも簡易な認知行動療法を外来診療で実施することは有意義だと考えます。

 

血清尿酸血の急激な変動は、発作を増悪あるいは遷延化するので、発作中は尿酸降下薬を開始したり、中止したりすべきではありません。つまり、痛風発作の際、再発を防ぐためには、尿酸降下薬の使用は炎症が十分落ち着いてから開始しなくてはなりません。

 

無症候性高尿酸血症でも、腎障害を有する場合は、腎機能低下を抑制することを目的に、条件付きではありますが、尿酸降下薬を用いることが推奨されるようになりました。

 

 

前回はこちら

 


臨床産業医オフィス

<高円寺南労働衛生コンサルタント事務所>

産業医・労働衛生コンサルタント・第一種作業環境測定士・衛生工学衛生管理者

飯嶋正広


 

企業の禁煙推進戦略 No.4

 

職場の喫煙は「コスト」と「リスク」の根源

 

Q4. 企業が抱える「喫煙のリスク」とはどのようなものでしょうか?

 

企業にとってリスクになるのは、企業全体の健康レベルが下がることだけで
はありません。喫煙者の「労災リスク」や、非喫煙者からの「訴訟リスク」が不当にも、かなり低く見積もられていることがしばしばあります。

 

喫煙者は、体内のニコチン濃度が下がることによって、集中力が低下します。その際に、労災、つまりケガや事故の危険性が高まるという研究結果があります。

 

また、職場の受動喫煙によって他の従業員に健康被害が出た場合だけでなく「タバコのニオイで気分不良」でも、従業員から会社が訴えられることすら実際に発生しています。タバコ臭い上司からの執拗な叱責がハラスメントとして認定されないとも限りません。

 

たとえ喫煙室を設置して分煙化していたとしても、喫煙室のすぐ外側で、タバコ臭いのであれば、それだけで問題あり、明らかに不合格です。

 

こうしたリスク回避のためにも、やはり、職場の禁煙対策が重要となるのです。
その他にも、リスクとは異なりますが、喫煙スペースを維持することにも多くのコスト(費用)が掛かります。

 

まず、床面積(地面)に対する家賃。そして、喫煙室から換気扇で冷暖房された空気を排気することで大量の電力を消費します。

 

1つの喫煙室で年間10〜20万円の電気代が浪費されるという試算もあります。さらに、清掃業者に支払うコストもかかります。経理的な観点からも企業・オフィスの喫煙スペースは無くしたほうが良いのは明らかです。