故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その3)

水戸城主というと、徳川御三家の水戸徳川家、そそて、水戸徳川家というと、義公(光圀)、烈公(斉昭)さらにはその七男で御三卿の一橋家の養子に入り最後の将軍となった慶喜公が全国的に有名です。しかし、水戸城主は江戸時代の徳川氏の前は佐竹氏(関ヶ原以降秋田に転封)、それ以前は江戸氏でした。
飯島の家系は、本家の古い墓碑銘には、藤原秀郷流と刻まれていますが、没落氏族にありがちな家系伝承に対して私はこれまで半信半疑でした。ところが、詳細に調べていくと、常陸江戸氏は藤原秀郷流那珂氏の一族と伝えられていることに加えて、飯島氏は江戸氏の一族であることが判明することにより、にわかにその信憑性が高まってきました。
藤原秀郷とは、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大した人物です。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出しました。なお秀郷の子孫は、中央において源高明に仕え、官職を得るなどした。そしてその結果、鎮守府将軍として陸奥国に勢力を伸ばす奥州藤原氏や、関東を支配する武家諸氏が現れました。常陸江戸氏もその一族です。
さて、台城城主飯島氏について「勝倉、台城、飯島」を検索ワードとして、ネットやアメブロで情報を検索してみたところ、以下の情報を得ることができました。
勝倉城 ちえぞー!城行こまい (ojaru.jp)
「嘉禄2年(1226)、平井越前守明綱が築城した。その後、水戸城主・大掾吉田一族の俊幹が勝倉台館に土着し、その子孫が南北朝期に勝倉城を改修して居住した。江戸氏が水戸城主となると勝倉城主は飯島七郎に替わった。天正18年(1590)12月、佐竹義重・義宣父子による水戸城攻略の際、義重軍が勝倉に迫ったので江戸氏の臣谷田部通直らが佐竹勢を支えるため勝倉台で激戦したが全滅し、勝倉城主・飯島縫殿も討死して落城した。」
この記載でわかりにくいのは、「江戸氏の臣谷田部通直らが佐竹勢を支えるため」という箇所です。江戸氏の家臣が敵である佐竹勢を支えるというのは不自然です。その通り読めば、主家を裏切る、つまり寝返ったことになってしまいます。そこで、「江戸氏の臣谷田部通直らが佐竹勢を抑えるため」と書くべきではなかったのかと思われますが、確証はありません。なぜなら、飯島が佐竹氏の軍師として、常陸に侵入してきた相馬氏を撃退した記録があるからです。ただし、これは主家の江戸氏の許しを得たものでなかったため、飯島は没落することになったものとされています。これについては、改めて検討してみたいと思います。

図1


また、別のネット情報である「古城盛衰記」にも記載がみられます。
勝倉城 - 古城盛衰記 (google.com)


「鎌倉時代、嘉禄二年(1226年)平井越後守明綱が築城した。その後、常陸大掾(だいじょう)氏系の吉田一族が入った。南北朝時代には江戸氏の家臣飯島氏が城主となった。文禄三年(1594年)佐竹氏の水戸城江戸氏攻略に際し、逃れた江戸氏勢が勝倉城で佐竹勢を迎え討ったが大敗し、飯島氏も討死し落城した。」

 

その他のネット情報としては
こちらです


<築城は「日本城郭体系」によると「鎌倉時代初期 嘉禄2年(1226)平井越後守明綱が築き、その後、大掾一族俊幹の子孫が居城した。」とあり、新編常陸国誌でも「吉田太郎広幹の第四子、勝倉四郎俊幹が居城した。」と記されている。その後、江戸氏の水戸城奪取により、江戸氏の家臣飯島氏が城主になったが、天正18年(1590)佐竹氏の江戸氏攻撃で落城し、廃城となった。> 

 

その他、興味深いアメブロ情報 

勝倉城 | Pの、遺跡侵攻記 (ameblo.jp)
にもアクセスできました。
「・・・その室町期以降に那珂川流域を支配したのが、藤原一族の”江戸氏”で、浮の館を中心に大きく改変した水戸城の支城として、この勝倉城も一帯を含めて改修されていったものと思われる。戦国期の永禄年間頃に、江戸氏の家臣である”飯島氏”がこの城に住んだとされており、当時の佐竹氏の資料には”飯島七郎”といった名が見られるという。しかし、天正18年、その佐竹氏による水戸城侵攻による猛攻を受けて短時間で落城し、廃城になったという。」
 これらの記述を信用するならば、水戸城主江戸但馬守通房が「地蔵坂の上に、台城を築いた」という台城は、新規の築城ではなく、城主が替わっただけであることになります。もっとも、その際に改修が行われた可能性はあるでしょう。
この勝倉城は、嘉禄2年(1226)、平井越前守明綱が築城した後、ほぼ200年の後に、飯島七郎が城主となったことになります。飯島七郎について佐竹氏の資料にあるとすれば、地元の伝承も文献的な裏付けの存在により信憑性が高くなるといえるでしょう。ただし、この情報は、先の「勝倉今昔抄」に掲載されている地元伝承との食い違いがみられます。それは、飯島城主の没落(1562年頃)と勝倉城主飯島縫殿の戦死(1590年頃か?)の間の30年近くの年代的隔たりです。氏族の没落が直ちに滅亡を意味するものではないため、勢力が振るわなくなった後も30年近く城主として統治を支配していた可能性はあるのではないかと考えます。