アルベール・カミュ作 『ペスト』を読むNo29 

 

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『ペスト』という作品は、五部構成で、各部は番号のない数章に分かれています。そこで、訳出にあたっての都合上、便宜的に章立てに番号を振っていることは、すでにお断りした通りです。今回から、第一部の第4章が始まりますが、第1部は8章構成であり、まだまだ長い道のりが続くことになります。

 

訳読については、宮崎嶺雄訳(新潮文庫、1969年10月30日)のみを参考にしていましたが、その後、新型コロナウイルス感染症の蔓延に触発されてか、三野博司訳(岩波文庫、2021年4月15日)、中条省平訳(光文社古典新訳文庫、2021年9月20日)が相次いで刊行されました。

 

そこで、今後は、上記の三者を参考にして、訳読を勧めていくことにしました。今後は、必要に応じて、それぞれ宮崎訳(新潮版)、三野訳(岩波版)および中条訳(光文社版)と表記して比較研究することにしました。

 

 

第一部 第4章
 

Les chiffres de Tarrou étaient exacts. Le docteur Rieux en savait quelque chose. Le corps du concierge isolé, il avait téléphoné à Richard pour le questioner sur ces fièvres inguinales.

- Je n’ycomprends rien, avait dit Richard. Deux morts, l’un en quarante-huit heures, l’autre en trois jours. J’avais laissé le dernier avec toutes les apparences de la convalescence, un matin.

― Prévenez-moi, si vous avez d‘autres cas, dit Rieux.
Il appela encore quelques médecins. L’enquête ainsi menée lui donna une vingtaine de cas semblables en quelques jours. Presque tous avaient été mortels. Il demanda alors à Richard, président de l’ordre des médecins d’Oran, l’isolement des nouveaux malades.

- Mais je n’y puis rien, dit Richard. Il faudrait des mesures préfectorales. D’ailleurs, qui vous dit qu’il y a risqué de contagion?

- Rien ne me le dit, mais les symptômes sont inquiétants.

Richard, cependant, estimait qu’ « il n’avait pas qualité ». 
Tout ce qu’il pouvait faire était d’en parler au préfet.

 

タル―の挙げた数字は正確だった。(註1)リュー医師も、それについては幾分知っていた。管理人の遺体を隔離したあと、リシャールにこの鼠径部の炎症について電話で尋ねていたのだ。

 

- 「まったく見当もつかないんですよ」とリシャールは言った。「死亡は2例。1例目は48時間以内、もう1例は3日目でした。その2例目は、朝診たところでは、すっかり回復してきた様子だったので(註2)、そのままにしておいたのですが

 

-「他にも症例が出てきたら知らせてください」とリュー医師は言った。
彼はさらに何人もの医師に電話した。こうして調査したところ、数日間で20件ほどの類似の症例報告が得られた。そのほとんどが死亡例だった。そこで彼は、オラン市医師会会長であるリシャールに、新たな患者を隔離するように要請した。

 

- 「でも、私にはどうしようもないのですよ」とリシャールは言った。「それには県が対策措置を講じる必要があるのですよ。それに、感染の危険性があるなんて、あなたは何をもってそう考えるのですか。

 

- 「何もありません。ただし、諸症状は憂慮すべきものです。

しかし、リシャールは「自分には権限がない(註3)」と考えていた。

彼にできることといえば、その件を県知事に伝えることが精一杯なのであった。

 

 

(註1)タル―の挙げた数字は正確だった。

Les chiffres de Tarrou étaient exacts.

 

この部分は、訳出の問題ではなく、何故、タル―が正確な数字を挙げることができたのか、という疑問を提示しました。読者は、この疑問にこたえられるほどタル―の人物像を把握していないので、事前の伏線として、今後の展開を待つほかないのではないでしょうか。

 

 

(註2)すっかり回復してきた様子だったので

toutes les apparences de la convalescence
    

la convalescenceは、回復期にあることを意味するのであって、治癒までをも意味しません。以下の中では、中条訳は適切ではないと考えます。

「すっかりなおりかけてるようにみえたんだが」(宮崎訳)

「すっかり回復の兆しを見せていたんで」(三野訳)

「治っているように見えたので」(中条訳)

 

 

(註3)自分には権限がない il n’avait pas qualité

avoir qualité(権限[資格]がある)
    

これは、オラン市医師会長のリシャール氏の判断内容です。宮崎、三野、中条のいずれも<資格>と訳しているのが気になるところです。「自分にはその資格がない」と訳してしまうと、適性がなく能力不足であるとか、倫理的にふさわしくない、などのニュアンスを帯びてしまいます。その<権限>を持っているのはオラン県の知事であり、リシャールは知事ではないから、その<権限>を持っていない、ということになるのではないでしょうか。

 

 

 

Mais, pendent qu’on parlait, le temps se gâtait. Au lendemain de la mort du concierge, de grandes brumes couvrirent le ciel. Des pluies diluviennes et brèves s’abattirent sur la ville ; une chaleur orageuse suivant ces brusques ondées. La mer elle-même avait perdu son bleu profonde et, sous le ciel brumeux, elle prenait des éclats d’argent ou de fer, douloureux pour la vue. La chaleur humide de ce printemps faisait souhaiter les ardeurs de l’été. Dans la ville, bâtie en escargot sur son plateau, à peine ouverte vers la mer, une torpeur morne régnait. Au milieu de ses longs murs crépis, parmi les rues aux vitrines poudreuses,
Parmi les rues aux vitries poudreuses, dans les tramways d’un jaune sale, on se sentait un peu prisonnier du ciel. Seul, le vieux malade de Rieux triomphait de son asthma pour se réjouir de ce temps.

 

しかし、彼らが話あっているうちに、天気が崩れ出してきた。管理人が亡くなった翌日には、濃霧が空を覆っていた。大洪水のような雨がこの都市の上に降り、この突然の驟雨の後、雷雨の前触れとなる熱気が襲ってきた。海までもが本来の深い青さを失い、霧にむせぶ空の下で、銀色や鉄色のまばゆい光を放ち、目が痛むほどだった。この春の蒸し暑さときたら、夏の猛暑を願う程だった。高台の上にカタツムリ型の螺旋状に建設された(註4)市街は、海に向かってはほとんど開かれてはおらず、どんよりした無気力状態に支配されていた。漆喰の長い壁に取り囲まれて、埃まみれのショーウインドウのある街路にはさまれ、うす汚れた黄色の路面電車の中に入ると、人々は空の下に閉じ込められた囚われ人のような気分になった。ただひとり、リウーの患者の老人だけが、喘息にひるむことなく(註5)、この天候を喜んでいた。

 

 

(註4)カタツムリのような螺旋状に建設された

bâtie en escargot
   

「螺旋状に作られ」(宮崎訳)、「らせん状に建てられた」(三野訳)、「螺旋状に建設され」(中条訳)いずれも、<らせん状>と訳していますが、(市街が全体として)エスカルゴ型に建設されているという視覚的にわかりやすい表現を活かした訳が望ましいと考えます。

 

 

(註5)喘息にひるむことなく 

triomphait de son asthma

 

「喘息を征服して」(宮崎訳)、「喘息に打ち勝って」(三野訳)では、喘息もちの老人の喘息が治癒してしまったかのような誤解を与えかねない直訳です。しかし、この文脈でいえば、この老人が喘息に苛まされてきた精神状態を克服したことを意味しているに過ぎません。そうした理解の上で中条は「喘息をものともせず」と的確に訳しています。

 

 

 

Ça cuit, disait-il, c’est bon pour les bronches. Ça cuisait en effet, mais ni plus ni moins qu’une fièvre. Toute la ville avait la fièvre, c’était du moins l’impression qui porsuivait le docteur Rieux, le matin où il se rendait rue Faidherbe, afin d’assister à l’enquête sur la tentative de suicide de Cottard. Mais cette impression lui paraissait déraisonnable. Il l’attribuait à l’énervement et aux préoccupations dont il était assailli et il admit qu’il était urgent de mettre un peu d’ordre dans ses idées.

 

- 「こんな焼け付く暑さも、気管支には悪くないのさ。」とその老人は言っていた。確かにうだるような暑さではあったが、熱病もそれに負けず劣らずだった(註6)。 

街全体が熱病にかかっていた。少なくともその日の朝、コタールの自殺未遂の調査に立ち会うためにファイデルブ通りに向かったリュー医師は、そんな心証を引きずっていた。しかし、こうした心証は彼には無分別であると思えた。彼は、こうなっているのは自分を襲っている苛立ちと取り越し苦労のせいであると判断し、自分の考えをいささか整え直すことが先決だと思い直した(註7)。

 

 

(註6)熱病もそれに負けず劣らずだった。

ni plus ni moins qu’une fièvre

 

「熱病といささかも変わるところがなかった」(宮崎訳)と

「熱病と似たりよったりだった」(中条訳)は、いずれも的確ですが、熱病の勢いが暑熱気象のそれよりも勝っていた、というニュアンスは ないので、厳密に訳出するならば三野訳「熱病のほうもそれに勝るとも劣らなかった」は、いささか行き過ぎの嫌いがあるものと考えます。

 


(註7)彼は、こうなっているのは自分を襲っている苛立ちと取り越し苦労のせいであると判断し、自分の考えをいささか整え直すことが先決だと思い直した。

Il l’attribuait à l’énervement et aux préoccupations dont il était assailli et il admit qu’il était urgent de mettre un peu d’ordre dans ses idées.

 

「街全体が熱病にかかっている」という心証を形成しかかっていたリウー医師は、自分がその様な心理状態に陥った原因を思い起こし、早急に自分の頭を冷やさなければならないと、我に返っています。つまり、自分が取り越し苦労をし過ぎていることに気付いたのでしょう。私は、impressionを情緒的で修正困難な「印象」ではなく、理性的で修正可能な「心証」と訳し、また、préoccupationsを「心労」や「心配」ではなく「取り越し苦労」と訳してみました。各翻訳者も内容に大差はありませんが、すっきりとした平易な日本語にするのは容易ではなかったようです。


「彼はそれを目下神経疲労と種々の心労に悩まされているせいだと思い、まず緊急に自分の考えを少し整理する必要があると認めた。」(宮崎訳)、

 

「彼はそれを、自分を襲ういらだちと心配のせいだと判断して、急いで考えを少し整理する必要があると認めた。」(三野訳)、

 

「それは、目下悩まされている心配事と神経の苛立ちのせいであり、自分の考えをすこし整理することが早急に必要だと思い直した。」(中条訳)。