アルベール・カミュ作 『ペスト』を読むNo22

 

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路面電車の二人の車掌の間で、死亡した同僚についての噂話が展開していきます。

 

・・・Tu as bien connu Camps, disait l’un.
・・・Camps?Un grand avec une moustache noire?
・・・C’est ça. Il était à l’aiguillage.
・・・Oui,bien sûr.
・・・Eh bien, il est mort.
・・・Ah!et quand donc?
・・・Après l’histoire des rats.
・・・Tiens!Et qu’est-ce qu’il a eu?
・・・Je ne sais pas, la fièvre. Et puis, il n’était pas fort. Il a eu des abcès sous le bras. Il n’a pas résisté.
・・・Il avait pourtant l’air comme tout le monde.
・・・Non, il avait la poitrine faible et il faisait de la musique à l’Orphéon. Toujours souffler dans un piston, ça use.
・・・Ah!termina le deuxième, quand on est malade, il ne faut pas souffler dans un piston.

「カンのことはよく知っていたよね」と一方が言った。
「カン?黒い口ひげを生やした背の高いヤツ?」
「そいつさ。転轍機係(註1)だったんだが。」
「うん。たしかに。」
「それがね、死んでしまってね。」
「はあ!いったいいつのことなんだい。」
「ネズミ騒ぎの後なのさ」
「へえ!いったい何が起こったというのだ。」
「よくわからんが、熱病だろう。それにやつは丈夫な質ではなかったからな。腋の下に膿瘍(はれもの)がいくつか(註2)できたんだそうだ。それに持ちこたえられなかったようだ。」
「皆と変わらない様子に見えたのだが」
「いや、彼は胸が虚弱(註3)で、オルフェオ(註4)で楽器演奏をやっていた(註5)んだ。いつもコルネット(註6)に息を吹き込んでいれば、くたびれもするさ。」

二人目の男が「病気のときはコルネットを吹くものではないってことよ」といって話を締めくくった。

 

 

(註1)転轍機係<Il était à l’aiguillage>宮崎訳:転轍のほうをやってたがな

l’aiguillageとは鉄道のポイントのこと。死亡した男性はポイント切り替えに従事していたものと解釈しました。

 

(註2)膿瘍<des abcès>宮崎訳:腫物(できもの)

医学的には膿瘍(のうよう)と訳すのが相当でしょう。炎症を伴って形成され、内部に膿(うみ)を貯留したできもの・はれものを意味します。単独か複数かも重要ですが、フランス語原文からすれば複数型なので、「幾つかの」というニュアンスを明確にすることは重要かと思われました。

 

(註3)彼は胸が虚弱で<il avait la poitrine faible>

宮崎訳:やつは胸が弱くてこれが具体的にどのような状態を意味するのかは想像するしかありません。胸部の基礎疾患のために呼吸器症状(咳・痰・呼吸困難など)を伴っているのか、呼吸器感染症にかかりやすいことなのか、たとえば喘息なのか、結核なのか、は読み取れません。単に肺活量が少ないという意味にも取れないことはないのではっきりしません。

 

(註4)オルフェオ<l’Orphéon>宮崎訳:男声合唱隊

Orphéonオルフェオ男性合唱協会:フランスの音楽教育家ビレムGuillaume Louis Wilhem(1781‐1842)がパリに創立した。オルフェオは大文字の固有名詞であるため、名称を省略しない方が良いのではないかと考えます。イギリスに結成されたグリー・クラブなどとともに今日の合唱音楽にもたらした役割は大きい。日本では明治の中ごろに関西学院大学と同志社大学にグリー・クラブが誕生し,1902年に慶応義塾大学ワグネルソサエティが結成され,おもに大学合唱団が中心になっていたが,29年に創立された東京マドリガル会などをはじめ,同好の士による合唱団が生まれている。

 

(註5)楽器演奏をやっていた<il faisait de la musique>宮崎訳:音楽をやっていた

男声合唱団で「音楽をやっていた」というのは合唱をしていたのではなく、伴奏楽器を演奏していたと解釈して訳出した方が分かりやすいのではないかと考えました。

 

(註6)コルネット<un piston>宮崎訳:管

これは音楽用語としては、管楽器の音栓であるピストンバルブを意味することもありますが、コルネットという小型のトランペット様の金管楽器を意味することもあります。コルネットのピストンはトランぺットと同様に3本です。フランス語原文では単数形なので、「一つの管楽器」を意味すると解するのが自然ではないかと考えました。

 

 

 

Après ces quelques indications, Tarrou se demandait pourquoi Camps était entré à l’Orphéon contre son intérêt le plus évident et quelles étaient les raisons profondes qui l’avaient conduit à risquer sa vie pour des défilés dominicaux.

こうしたいくつかの情報を得て、タルーは、カンがなぜ彼自分の最も明白な利益に反してまでオルフェオに参加したのか、日曜日のパレードに命を賭けるに至ったより深い理由は何だったのか、と考えたのだった。

 

コメント:

死亡したカンという鉄道ポイント切り替え係員の胸が虚弱であるということの内容が気管支喘息のような疾患であれば、管楽器の演奏は適切に実施するならば治療上も有意義です。喘息ではないようですが、逆に結核のような呼吸器感染症の患者が管楽器の演奏を許されることは、この時代の医学の常識から察しても考えられません。カンという男は単に息切れし易い、あるいは風邪をひきやすい体質であったのではないかと想像することは可能だと思います。ただし、車掌同士の対話の内容からすれば、単なる虚弱体質ではなく、業務に従事可能な何らかの軽症の呼吸器系の基礎疾患をもっていたようにも推測することもできるでしょう。