<生姜無い>

 

気いつけや

 

味見のつもりが、つまみ食い

 

腹がつまって人生つまらん

 

 

※夜中に料理を作って後悔したので もうしません。

 

水氣道1級 高等修練性 加藤博文

 

 

 

「できることなのに、課題の先延ばし」

 

 

少し前までのMr.NoGucciの行動パターン①

 

ボクは少し成長した。

 

まず考える、ことにしたからだ。

 

考えることは苦手なので、苦手な思考から始めることにしたのだ。

 

何という勇気なのだろう。これはまさに『革命』だ!

 

いや、変革を望まないMr.NoGucciに革命なんか出来ようハズがない。

 

そこで「出来ない」と内外に宣言するための方法の探索に取り掛かる、

 

つまり、与えられたタスクを回避し、自己の成長を拒むため、

 

しなくて済む理由をこじつける作業なのだ。

 

課題や、仕事を始めなければならないとき、

 

できるかどうかを迷いはじめたとき、

 

あれこれ考えて、しなくて済ませるための計画を立てます。

 

 

いえいえ、計画を立てて、しっかりと考え、積極的に仕事に取り組んでいる、

 

そんなつもりのムードに浸っていたいのです。

 

自分で自分に思い込みを与えようとしているのです。

水氣道 准3級(特別訓練生) 野口将成

 

 

減肥航法の特訓を続けてきて、結果的には

 

「自分にやや厳しく、相手にやや優しく」という関係に近づきつつあると思います。

 

 

これこそが、中庸であり、自然で健全なバランスの取れた人間関係の在り方であること等、

 

気づくことがたくさんありました。

 

 

水氣道は、長所(競技的な強み)を限界まで引き延ばし、

 

超越させようとする並のスポーツではありません。

 

 

むしろ全体(心身両面および社会関係性)の中での欠点や弱点を発見して、

 

集団的ダイナミズムにより少しずつ着実に補って、

 

それを各人に相応しい水準まで回復させようとするものです。

 

 

人生いろいろ、長所も欠点もいろいろですが、欠点を長所に替えることで、

 

総合的、統合的に、全体として自然なバランスの取れた健康

 

あるいは調和のとれた人間性が育まれるのだと確信しています。

 

わかっています、でも… 「できることなのに、課題の先延ばし」

 

 

1)かつてのMr.NoGucciの行動パターン③

 

≪他人に任せるより自分でするほうが早くて楽。≫ 

 

この思い込みは、どこから来たのだろうか?

 

さらに、検討を続けます。

 

 

Q3 : 本当に自分でする方が楽だったか?

 

 

A3-1:頼むことの面倒を考えたら、頼まないで済む方が楽なハズ・・・だった

 

 

A3-2:自分ですれば自分のペースでいけるから訳なハズ・・・だった

 

しかし、結果はいつもパンクして終わった。

 

なお悪いことに中途半端のまま放棄。

 

したがって、これらの仮説も、ことごとく誤りだったハズだ。

 

しかし、同じ過ちを何度も何度も繰り返し。

 

性懲りもせずに、改めようともせずに、ただ繰り返し。

 

 

なぜ、繰り返してしまうのだろうか。

水氣道 准3級(特別訓練生) 野口将成

 

集団で稽古することの効果をグループ・ダイナミクス(集団力動)というのだそうです。

 

個人単位の稽古とは異なり、対人関係の場が与えられます。

 

そこには、各人の自分と他者に対する態度の特性が明らかにされます。

 

 

Mr.NoGucciの始めの頃は

 

「(本音を言えば)他人には厳しく(意外でしょう?)、自分には甘い」態度でした。

 

稽古がきつく感じられると「他人にも自分にも甘くなる」態度に改めて、

 

相手と共に楽をしようと細工するのです。

 

しかし、そんな小細工は私より真面目に取り組んでいる相手には通用しません。

 

 

そこで「自他ともに厳しく」の稽古が始まります。

 

ただし、そんな厳しさの中にも、

 

過度にならないよう、無理をしたり、させたりしないよう、

 

互いに十分配慮することを体得していきます。

 

 

・・・本当に、心と体は、切り離せない関係にあります。・・・

 

 

いま、私は線維筋痛症が再発するんじゃないかという不安を抱いていません。

 

絶望に近い感じを味わっていた「片頭痛」とも、

 

付き合い方が徐々に分かり始めていて、いまは怖くありません。

 

怖くなくなってからは頭痛も減っていて、ここにも心と体の不思議な関係を感じます。

 

間違いなく、自分の健康状態には、自分自身が大きく関わっているようです。

 

ストレスは外部からもたくさんやってきますが、

 

それにどう向き合って、どう対処するかは、

 

しっかりとした見識を持ったお医者さんなどの助けを借りながら、

 

じつは自分でできることなんですね。

 

 

自分の心と体を自分で引き受けていいこと、

 

そして自分自身で健康を目指すことがいつでもできるんだ、という自覚をもつこと。

 

そうしたことを、この病気をきっかけにして、

 

飯嶋先生をはじめ、いろんな方々から教わりました。

 

病を封じ込めるのではなく、

 

病を通して身体が訴えていることを感じ取って、

 

それを自分自身が立て直すことができるという意識を持つこと。

 

すると身体は、ゆっくりと居心地がいい方向に進んでいくこと。

 

これが、私が病気を通して学んだことです。         

 

おわり

運動の大切さを教わってからは、

 

水氣道以外にも、体を動かすことに臆さないようになっていきました。

 

ヨガとストレッチは、治療を受けてからはほとんど日課になっています。

 

今でも続けています。

 

身体に大きな負担が来ない程度の筋力を使う有酸素運動(スロートレーニング)も、

 

週に2回程度はするように心がけています。

 

 

「動きたくない」身体の苦痛を取り除くことは、じつは重要ではなくて、

 

動き「たくない」という心の面に気がついて、

 

心から身体全体へというケアをすることが大事なんだなと実感しています。

 

自己治癒力を高めることを目的にした施術を行う治療院でも、

 

身体へのアプローチで、内臓系を整えて、

 

そうやって自己治癒力や免疫力を上げるという考え方を学んでいます。

 

 

その観点からすると、水氣道やヨガは、

 

心の状態を鎮めて整えるのにも、とても役に立っていることが実感できます。

 

近頃はあまり焦らなくなりましたし、

 

何よりも「怒りが随分減ったな」と、自分でも驚いているほどです。

 

そして、焦りや怒りが少なくなると、

 

身体の緊張が目立って減ることもとても深く感じることができるようになりました。

 

片頭痛に特有と言われる症状はそれから7年近く続きました。

 

 

幸い飯嶋先生にお会いしてから、対症療法ではない考え方があることを理解しました。

 

そこで痛みそのものを薬で緩和するという考え方をやめて、

 

ある時期に思い切って片頭痛薬も止めてしまいました。

 

2013年から通い始めたホリスティックな施術を行う治療院で、

 

身体からのアプローチで自己治癒力を高めるという考え方を学ぶに至って、

 

頭痛は劇的に減っています。

 

 

高円寺南診療所での鍼治療が、

 

じわじわと身体の不快感を減らしていくのが実感できました。

 

そして水氣道では、

 

身体が「動かない」のではなくて、どうやら身体が「動きたくない」と訴えている

 

らしいことを、自分なりに感じるようになりました。

 

「動きたくない」身体を抱えていた私は、水氣道を習うことで、

 

動いても不快感がない」運動があることを発見したように感じます。

 

 

線維筋痛症に伴う全身の強いこわばりを何とかしたくて、

 

診断を受ける前から妻にマッサージをしてもらったり、

 

自分なりにストレッチをしたり、

 

妻に教わって見よう見まねでヨガをしてみたり、いろいろと試みてはいました。

 

それで苦しさがうまくとれることはありませんでしたが、

 

時々、身体の一部分が少し心地よくなる感覚も味わっていました。

水氣道 准3級(特別訓練生) 野口将成

 

肥満者特有の自分勝手で弱くて卑怯な心」と戦うスピリットを鍛える減肥航法!

 

それに目覚めた頃から、いろいろなことが次第に見えてきました。

 

 

「何事も、動き出すまでは、たしかに大変できつい。」

 

だから、ついつい、スタートの先延ばしを画策したくなってしまう。

 

ところが、「何とか1、2,1,2…とリズムに乗って動けるまでに辿り着く」

 

そこまで行ってしまえば、それまでより比較的楽になる。

 

これが、無理なく継続できると、さらに楽になっていく。

 

ただし、「油断してリズムを崩すと、とたんに動かしにくくなる。」

 

 

これらは普段、じぶんが何度となく経験してきたが、

 

まったく省みようとはしてこなかった行動パターンそのものの再現なのでした。

 

 

集団で稽古することには数々のメリットがあります。

 

「最初はお互い重くてきついが、体重が減ってくるとお互い楽に。」

 

「一人ではつい手を抜いてしまったりするが、互いに励まし合える。」