ブログ休止中も継続してきた活動<課題の発見と分類・統合、その1>



<重層化・複雑化してきた私の問題意識>

 

 

これまで、私は、医師としての問題意識として最初に浮上する対象ジャンルが「医学」であることは、半ば当然のように考えてきました。

 

ただし、「医学」というのは学問です。

 

どのような学問か、というと、生体の構造(解剖)、機能(生理)および疾病を研究し、疾病の診断・治療・予防の方法を開発する学問です。

 

つまり医学は研究(医科学)と開発(医療技術)と実践(医療活動)とによって成り立っていることになります。

 

まず健康とは何か、疾病とはどのようなものであるか、という疑問を科学的な方法で解明していこうとするのが医科学に従事する医科学研究者であるのに対して、医療現場での業務に従事するのが医療従事者としての臨床医ということになるかと思います。

 

このように考えてみると、「医学」というのは学問、つまり科学の一分野でありながら、現場を持ち、実践活動を伴う中で科学を実際に適応させ、改良を図る、といった性質上、技術としての側面を包含するものといえるのではないでしょうか。

 

このような意味で「医学」とは<科学および技術>の一分野という捉え方も可能かもしれません。

 

 

ブログ休止中に再三考えてきたことは、「医学」は科学であり、学問である、としても、「医療」は極めて政治的産物なのではないか、という疑問でした。

 

 

「医療」とは「医術」で病気をなおすこと、と一般には受け止められていて、実際、広辞苑では、そのように定義されています。興味深いのは、病気をなおす手段が「医学」ではなく「医術」である、ということです。

 

 

「医術」とは、簡単には、病気(疾病)や傷(外傷)をなおすための技術と説明されています。しかし、「医術」の「術」は単なる技術だけではないニュアンスを帯びているのではないでしょうか。

 

たとえば、<「医」は「仁術」である>という表現があります。

 

これは「仁」を行う方法、程度の意味です。そこで、新たに「仁」とは何か、という問いが派生してきます。

 

「仁」とは、一般的には、<いつくしみ。思いやり。>の意味です。

 

そもそもは、孔子が提唱した道徳観念とされます。それは、<礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。>とされ、忠(偽りのない心。まごころ。まこと。)と恕(おもいやり。ゆるすこと。)の両面をもつ、と解説されています。

 

そして、「仁」の基礎となる「礼」とは、規範や作法にのっとっていることであり、敬意を表すことや、それにともなう動作にも及び、その行動には謝意を表すこと、また、そのために贈る金品などに広がります。

 

 

私自身は、<「医」は「仁術」である>という表現を自ら発することもなければ、そのような他者の発言を耳にすることは少ないです。もし、対話の相手から、この言葉が不用意に発せられたとしたら、その方は無知なのか無「礼」な方なのか、と悩んでしまうかもしれません。

 

 

最初に戻りますが、医学・医療と併記されることが多いにもかかわらず、「医学」と「医療」は互いに関連していますが、明確に区別しておきたいと考えたいところです。このような考え方を分別、といって良いかどうかは別として、混同したままでいると、大きな被害に見舞われかねません。

 

 

「医学」は科学であり学問でありました。
 

これに対して「医療」は社会制度上の実在であり、医療制度は極めて政治的な存在です。
 

なお、最先端の研究開発を抜きにしては発展が見込めない現代「医学」にとって、研究費の確保が必須であるため「医療」業界や政府からの資金提供が不可欠であり、そのため、これらスポンサーの意向を無視することは事実上困難なのです。
 

そして、政府やメディアが国民に働きかけるためのプロパガンダは、必ずしも純粋な「医学」的見地に基づくものではなく、極めて政治的経済的な力関係という背景がある、ということを本日の最後のメッセージとしたいと思います。