ブログ休止中の活動報告(その2:聖楽院活動の再開準備Ⅰ)

 

<コロナ禍の中で>

 

コロナパンデミックにあって、歌唱訓練の場を失った私が思いついた方法は、新たな師を得て個人レッスンを受けることでした。

 

昨年の12月12日に許しを得て、はじめて岸本力先生のレッスンを受けることができました。

 

最初のレッスンの直後、武蔵野音楽大学の別科(声楽専攻)受験のお勧めを受けました。

 

想定外の御申しであったため、1週間だけ悩ませてくださいと申し上げたことを思い出します。

 

 

1年という限られた期間であること、クリニックでの診療時間に影響がない時間帯を調整してくださるとのこと。

毎週1回の60分の個人レッスンのための通学時間は、高円寺北口バス停から羽沢バス停までバスで13分、徒歩数分という絶好のアクセスであること。

私立音大であるにもかかわらず、国立の東京藝大の別科(2年制:暗黙の年齢制限有り!私は45歳から50歳まで毎年受験してようやく実情を知ることができました)の授業料と大差ないこと(むしろ、レッスン1回あたりの費用は藝大よりも格安!)、何よりも家内の後押しがあったこと。

などにより、1週後のレッスンの際に、受験の決意を報告しました。

 

 

 

それでは、私の新しい師匠のプロフィールを紹介させていただきます。

 

昭和22年茨木市生まれ(私は昭和34年茨城県生まれ、同じく猪年)。

福井小―養精中―春日丘高校出身。東京藝術大学卒業、同大学院修了。昭和47年第41回日本音楽コンクール第一位。

昭和48年、日本フィル「第九」、大阪フィル「森の歌」でバス歌手としてデビュー。

昭和59年文化庁芸術祭優秀賞。平成22年文化庁長官表彰賞受賞。平成24年2月17日、ロシア大統領メドベージェフより、日本人歌手として初の「プーシキン・メダル」(ロシア文化勲章)を受章。

同年本市市民栄誉賞贈呈

 

岸本先生は、一流の声楽家であるにもかかわらず、出世にはご興味が乏しいらしく、あるいは不器用でらっしゃるらしく、東京藝大の教授になっても当然な方であるにもかかわらず、私立音大の講師(現在、非常勤講師)止まりです(失礼!)。

 

 

入門直後から、岸本先生の熱血個人レッスンが始まりました。

 

ロシア語は勉強不足でキリル文字すら読めない段階であった私は、チャイコフスキーのオペラ、『エフゲニー・オネーギン』のレンスキーのアリアをレパートリーにして、コンクールへ臨みたい一心でした。まずは、歌曲からということで、チャイコフスキーの美しいロシア歌曲を1曲ずつ丁寧に教えていただきことになりました。

 

何と、別科の入学試験まで2カ月足らず、ロシア歌曲での受験は間に合いません。
そこで、日本歌曲とイタリア歌曲の各1曲を提出して受験しました。

 

受験会場は、音大構内のモーツアルト・ホールでした。

 

以下が、その後の経緯と今後の予定です。

 

<武蔵野音楽大学別科声楽専攻>

受験(令和4年2月11日および12日)

合格(令和4年2月16日)

入学(令和4年4月1日)

 

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修了試験(令和5年2月)予定

修了式(令和5年3月24日)予定

修了(令和5年3月31日)予定

 

 

話が前後しますが、コロナによる悪影響だけでなく、この間、ロシアーウクライナ紛争までもが勃発しました。そして、ロシア歌曲に対する世間の風当たりが、急激に強くなっていきました。ロシア歌曲や、その指導者である岸本先生にまで、あからさまな反感を示す方も現れました。岸本先生は、そのことに大変悩んでおられました。

 

私は、このようなご時世であるからこそ、むしろロシア音楽の勉強をする意義が多きいのではないか、と考えています。

 

武蔵野音大での岸本先生の熱血レッスンは4月12日から始まりました。その甲斐もあって、前期が終了する7月19日には、都合6曲のロシア歌曲に親しむことができるまでになりました。そこから、私の運命が大きく展開してきました。