故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 飯嶋正広


夭折の詩人、立原道造をしのんでNo3

 

とらや書店2代目店主のツイッター記事の抜粋から、

 

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「暁と夕の詩」で知られる立原道造は水戸藩の学者一族の立原翠軒に繋がるという説がある。翠軒の子、杏所は著名な画家、その子朴二郎、妹の春沙ともに優れた絵かきだった。その子が立原道造といわれるが、水戸の研究者たちは一笑に付していた。立原道造本人が杏所を祖父と言っていたらしい。

 

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(中略)
朴二郎は水戸藩の闘争に巻き込まれ、若くして戦死した。長男は早世、長女羊子の子は道造とは違う。水戸藩では立原家は絶家となっている。道造が立原家に繋がると良いのだが。

 

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とらや書店主人の郷土愛から、その気持ちはよくわかるような気がします。
まず、伝承ですが、「立原道造本人が杏所を祖父と言っていたらしい。」との情報について年代的に検討してみたいと思います。
  

立原杏所が文字通り道造の祖父であると仮定して系譜を検討するならば、立原杏所は道造の母である立原とめの父に当たることになります。が、互いの生没年を比較してみます。杏所には9人の子があり、そのうち女子は6人で、長女・阿端、次女・於青、三女・栗、四女(徳川斉昭側室・喜連川縄氏の生母)・利子(夏)、五女(友部煕正妻)・辰子、六女(千葉道三郎妻)・稲子です。

 

この6人の女性の中で、暫定的に道造の母に比定できるのは、長女、次女、もしくは三女に限られてることになります。ただし、登免(光子)という名との一致はありません。次に、祖父と孫の生没年を比較すると、杏所(1786-1840)、道造(1914-1939)であることから、祖父と孫の年齢差は128歳になります。また、祖父の死亡後74年後に孫が誕生したことになります。

 

道造誕生時の母の年齢は未確認ですが、祖父杏所の最晩年である54歳時の生まれだとして1840年、道造出産時には74歳となり、常識的にいってあり得ない計算となります。先祖代々の土地を<父祖の地>と呼ぶように、道造が数代前の特定の先祖に親しみをこめて<祖父>と言っていたとしても非難するには当たらないと私は考えます。なお、道造の実の祖父とは祖母立原朝子の配偶者である養子の平衛門(中村氏)ということになります。祖父とはいえ他家からの養子ということになることも無関係ではないように思われます。

 

なお、道造の母、立原とめの談によると、登免(とめ)は翠軒の四代目にあたるとのことです。この証言をもとに簡単な直系系譜を作製すると、

立原翠軒(1)―杏所(2)―佐之介(3)―朝子(4)―登免(5)―道造(6)
という繋がりになります。

 

すると、道造が祖父と呼んでいた杏所は高祖父にあたります。

また、高祖父である杏所の男子は3人で、長男・元三郎、二男・清彦、三男(家督相続者)・朴二郎とされているのですが、いずれかが左之介と同一人物である可能性があるかどうかが問題となります。

 

但し、これは立原道造の詩集である『立原道造全集』の解説の中でも、系図上必ずしも明らかでない点が指摘されているようです。