故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その8)

 

応永年間の常陸国

 

「水戸」という特定の地名は,応永年間(1394~1424)のものと推定され、吉田薬王院文書に現れたものがその初期の例とされています。

 

「熊野山願文」に記録されているのは、初回が飯島七郎光忠・子息宗忠(1391年)、二回目が悉知左衛門尉宗忠・同七郎通忠(1403年)です。

 

そこで、明徳2年(1391)から応永10年(1403)までのおよそ12年間の常陸国はどのような状況にあったのかに目を向ける必要があります。

 

南北朝争乱において常総南朝の決定的壊滅をもたらした常陸難台山の合戦は、元中四年(1387)南朝方の小山義政の三男若犬丸が、小田孝朝の子・五郎藤綱と共に難台山で挙兵して始まりました。

しかし、北朝方の上杉朝宗は常陸国の佐竹義宣、小野崎通郷、江戸通高らの応援を受け、元中五年(1388)に小田五郎は戦死したと伝えられています。

江戸氏(旧、那珂氏)初代通高はこの難台城攻めで戦死し、その子・通景は父の戦功により、戦で活躍できなかった大掾氏旧領の河和田(水戸市)周辺を関東管領足利氏満より新領として与えられて本拠地を江戸郷から河和田(河和田城)に移しました。

 

飯島七郎光忠・子息宗忠の「熊野山願文」(1391)は、こうした常陸国での南北朝の騒乱が一応の決着した時期の文書です。

まさに、この年、元中8年/明徳2年(1391)12月に、中央では山名氏清・満幸らが室町幕府に対して反乱を起こしています。

内野合戦とも呼ばれる明徳の乱です。ただし、東国において重要なのは、陸奥国、出羽国の2カ国が鎌倉府の管轄となったことではないかと考えます。そして翌年(1392)には南北両朝が合一しています。

 

飯島の地は河和田城を中心とする河和田の西部に隣接しているため、後顧の憂いなく常陸の飯島を出発し熊野詣を実現できたのかもしれません。

 

なお、難台山の合戦で、南朝方の小山若犬丸は、辛うじて難を逃れ、応永四年(1397)奥州で旗揚げしたが、陸奥国にも捜査権が及ぶようになった関東管領足利氏満の命により、玉造の城主烟田重幹の追討を受け、敗れて自害し、名族小山氏は滅亡したのでした。

 

河和田城と新領を得た、江戸氏2代通景は、その後も在地支配勢力を着実に広げていきました。これに対して、支城の河和田城を奪われた大掾氏は、応永7年(1400)に本城である居城の水戸城の修築を行ないました。

 

飯島七郎光忠の子息の悉知左衛門尉宗忠の2回目の熊野詣が記録される応永10年(1403年)から十年余りの応永23年(1416)には上杉禅秀の乱が勃発しますが、この時期の水戸地方は比較的平穏であった可能性があります。

 

この乱で上杉禅秀は敗れ自害し、鎌倉公方足利持氏は禅秀派であった大掾満幹は本拠地である水戸城周辺の所領を没収し、持氏派の江戸通房に与えました。

そして水戸城の明け渡しを拒否し占拠し続けていた満幹は、応永26年(1419)に府中(茨城県石岡市)へ出かけた留守中に、水戸城は江戸氏3代通房によって攻め落とされました。