故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その7)

 

権威のある文書とされる熊野願文に、飯島の初出がみられたことに関連して、当時の常陸国における熊野信仰についての理解が必要となります。

 

神仏の信仰では、とくに伊勢信仰とならんで熊野信仰が鎌倉時代から盛んとなって室町時代には諸国の武士および民衆にまで広く行われていました。


明徳二年(1391)、応永十一年(1401)の例を考え合わせると、水戸付近の武士・民衆にまで熊野信仰が拡がっていた事情を推測することができます。明徳二年は、南北朝が合一する明徳三年(1392)年の前年に当ります。明徳の和約といって、南北朝時代の内乱の講和条約により南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)との間で、和議と皇位継承について締結されました。


応永は、日本の元号の1つ。疱瘡の流行、干害などにより、明徳五年(1394)七月五日改元。正長の前。1394年から1428年までの期間。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇です。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量でした。応永は日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長です。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われています。

 

しかし、室町時代といえば、後世、必ずしも平和なイメージではなく、むしろ、応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで11年間続いた、京都を中心とする内乱である応仁の乱が想起されるのではないでしょうか。応仁の乱は、将軍家の相続問題と、畠山・斯波両管領家の家督争いから、諸国の守護大名が細川勝元の率いる東軍と、山名宗全の率いる西軍に分かれて争われました。この平和な時代とされた応永11年(1404)には、応仁の乱の西軍のリーダーである山名宗全(持豊)が誕生し、文明5年(1473)に没しています。


飯島氏の二度目の熊野山詣、すなわち飯島住人悉知左衛門尉宗忠・同七郎通忠の記録は応永10年(1403)11月22日とされていますから、その頃は、山名宗全誕生の前年にあたります。その頃は、関東の領主が支配地を後にして遥か遠国にまで参詣にでかけることができたのですから、坂東の武者や庶民にとっても、束の間の泰平の時代であったことが推測されます。