故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その4)

 

このシリーズの初回、常陸飯嶋氏のルーツ探訪(その1)で、飯島姓を名乗る文献上の初出は飯島七郎であり、明徳2年(1391年)に確認できることを述べました。これに対して、飯島七郎が勝倉城主になったのは応永年間(1427年)の頃なので、この間およそ36年の隔たりがあります。両者が同一人物であると推定することも不可能ではありませんが、七郎の名籍を嗣ぐ後継者である可能性も残されるのではないかと考えます。

 

そこで、「水戸市史(上巻)」第510頁に記載されている関連情報をそのまま書き写してみることにします。

 

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河和田と加倉井・赤尾関のほぼ中間にあたる飯島(市内)の地に、飯島・悉知(後世七字と書く)という一族のあったことが知られている。すなわち「熊野山願文」として「新編常陸國誌」に引かれるものに、

 

飯島七郎光忠・子息宗忠(明徳二・十二・二)飯島住人悉知左衛門尉宗忠・同七郎通忠(応永十・十一・二十二)等の名が見えていて、その資料の性質からかなり有力な土着の豪族であったと思われる。

 

飯島氏は、その本拠飯島の地理的な関係から、当然、加倉井・春秋らと共に早くから江戸氏とふかく結びついていたと考えられるが、明らかでない。

 

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上記の限られた記述の中で、歴史的に貴重な多くの手がかりを得ることができました。

 

1) 地名について

河和田・加倉井・赤尾関と同様に飯島は、水戸市の地名として現在でも残っています。ほぼ東西に走行する常磐線の赤塚駅(水戸市)と内原駅(水戸市)との間を常磐高速道路が南北に跨いでいる交点を目印にして4区分すると、北西部が加倉井、南西が赤尾関、南東が飯島、その東が河和田という位置関係になっています。

 

水戸市史の著者が、河和田・加倉井・赤尾関という一連の地名を挙げているのには根拠があります。それは、この一帯が江戸氏の所領だからです。江戸氏の通高は常陸守護の佐竹義篤の娘を妻とし、嘉慶二年(1388)には南朝方の難台城を攻略する軍功をあげました。しかし、通高はこの難台城攻めで戦死し、その賞として子の通景は鎌倉公方足利氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられています。これを機に江戸氏は父祖の地である江戸郷から河和田へ本拠を移し、その後の江戸氏発展の拠点としました。しかし、飯島という地名についての古文書記録がないため、私自身も永らく飯島の地名および氏族名の発祥に疑問に感じていたところです。ただし、ここで貴重なのは、飯島の地は江戸氏の新しい居城である河和田城と加倉井・赤尾関などの中間に位置することと、江戸氏の河和田進出が嘉慶二年(1388)以降であることです。

 

 

2) 年代について

飯島七郎光忠・子息宗忠の名は「熊野山願文」(明徳二・十二・二)に見られるのであるが、明徳二年とは、西暦1391年であり、中央では山名氏が室町幕府(足利3代将軍義光)に対して起こした明徳の乱のあった年の暮に相当します。ちょうど、この頃、江戸通景は河和田城主になっていることに注目したいところです。また通景は軍功のあった通高の子ですが、「通」の字が継承されていることにも着目しておきたいです。

 

なお飯島氏の熊野山詣は一度のみではなく、飯島住人悉知左衛門尉宗忠・同七郎通忠という名で再掲(応永十・十一・二十二)されています。応永十年は、西暦では1403年に相当するので、初出のときから12年を経ています。つまり、干支を一巡しています。なお、飯島七郎が勝倉城主になったのは、それからおよそ四半世紀後の応永年間(1427年)の頃なので、この間の飯島氏の動向についての手掛かりをつかみたいところです。