アルベール・カミュ作 『ペスト』を読むNo27

 

前回はこちら

 

 

前回の人物描写に引き続き、今回の対話や心理描写には、奥深い人間観が感じられてきます。私はあくまでも読者の視点で翻訳する立場を取りたいと考えていたため、作品全体を予め通読していません。つまり、プロフェッショナルな翻訳家とはあえて異なるアプローチを試みています。とりわけ、fataliste(運命論者)という思想性の高い硬い言葉が対話の中で鮮明に浮き上がってきます。

 

 

« Malgré ce bel example, on parle beaucoup en ville de cette histoire de rats. Le journal s’en est mêlé. La chronique locale, qui d’habitude est très variée, est maintenant occupée tout entière par une campagne contre la municipalité: “Nos édiles se sont-ils avisés du danger que pouvaient presenter les cadavres putréfiés de ces rongeurs?” Le directeur de l’hôtel ne peut plus parler d’auter chose. Mais c’est aussi qu’il est vexé. Découvrir des rats dans l’ascenseur d’un hôtel honorable lui paraît inconceivable. Pour le consoler, je lui ai dit: “Mais tout le monde en est là.

«-Justement, m’a-t-il répondu, nous sommes maintenant comme tout le monde.”

« C’est lui qui m’a parlé des premiers cas de cette fièvre surprenante dont on commence à s’inquiéter. Une de ses femmes de chambre en est atteinte.

«Mais sûrement, ce n’est pas contagieux, a-t-il précisé avec empressement.

« Je lui ai dit que cela m’était égal.

« ― Ah!Je vois. Monsieur est comme moi, Monsieur est fataliste.

« Je n’avais rien avancé de semblable et d’ailleurs je ne sui pas fataliste. Je le lui ai dit...»

 

「こんな立派な手本があるにもかかわらず、街ではこのネズミの話題でもちきりになっている。新聞社もそれに巻き込まれてきた。いつもはバラエティに富んでいる地方記事も、今ではすっかり自治体に対する論評で占められている。『うちの市の幹部職員たちは、このネズミの腐乱死骸がもたらす危険性に気付いているのだろうか?
ホテルの支配人は、もはや鼠のこと以外、何も語れなくなっている。しかし、それは彼も当惑しているからなのだ(註1)。格式のあるホテルのエレベーターの中でネズミが見つかるなどということは、彼にとっては受け入れがたいことなのであろう(註2)。そんな彼を慰めるために、自分はこう言ってやったのである。「でも、どこへ行っても目に入ってくるものなのだから。

「まさにそこなんですよ。それこそ、このホテルとしたことが、いまや、世俗並みの体たらくになってしまっているということなのです。(註3)

と彼は答えた。

世間がようやく懸念し始めたこの突発性の熱病の最初の事例を私に話してくれたのは、彼だった。この支配人の配下の客室係の女性従業員の一人がその熱病にかかったのである。

『しかし、伝染性のものでは断じてございませんよ』と支配人は慌
てて力説した(註4)。

自分にとってはどうでもいいことだということ彼に言った。

『なるほど、おっしゃるとおりです。お客様も私共と同じで、宿命論者(註5)でいらっしゃるんですね。』

自分はそんなことは言ってないし、宿命論者などではない。自分はその旨を支配人に言った。

 

註1:Mais c’est aussi qu’il est vexé.

宮崎訳では、「しかし、それはまた彼が腹立たしい気持ちになっているからでもある。」フランス語のvexerという動詞は、ロワイヤル仏和中辞典によると、❶気を悪くさせる、傷つける;(感情を)害する、などを意味し、また⦅過去分詞で⦆の用例では、Vexée par cette plaisanterie, elle se tut brusqument.を挙げて、<その冗談がかんに障り、彼女は急に黙ってしまった>といった使われ方を示しています。この語に対応する英語はvexであるため、ジーニアス英和大辞典でvex英語の《やや古》い使われ方も参考になると考えます。そこには、a〈人〉を〔人に/物・事について/…して/…ということで〕いらだたせる、やきもきさせる、怒らせる、b〈人〉を悩ませる、困らせる、苦しめる(distress);〈人〉を当惑させる、まごつかせる(puzzle)という意味が示されています。登場人物の支配人の心理は、腹立たしさ、いらだたしさ、という方向よりも、悩ましさ、当惑、といった方向に近いのでは、と読者の私は感じ取っています。

 

註2:Découvrir des rats dans l’ascenseur d’un hôtel honorable lui paraît inconceivable.

宮崎訳では、「れっきとしたホテルのエレベーターの中に鼠が発見されるなどと言うことは、彼には考えられぬことのように思われるのである。」

と素直に翻訳されています。名誉ある高級ホテルの支配人であるという誇りと責任感が、ネズミの出現で彼の心を大きく悩ませています。ここでは、望ましくない突然の事態の出現を、自分とのかかわりのある実際の事実であると受け入れたくない拒否的な様子が描かれているのではないでしょうか。

 

註3:nous sommes maintenant comme tout le monde.

宮崎訳では、「われわれも、今じゃ、世間みんなと同じなんです。」

この訳は原文と比較するとその通りであり、この支配人は、世間みんなと同様であってはならないと考えていることも伝わります。しかし、それでは彼が、なぜ自分のホテルが月並みであってはならないのか、というニュアンスが分かりづらくなります。彼の優越感や誇りが傷つけられている、その思いが読者に通じる必要があります。

 

註4:Mais sûrement, ce n’est pas contagieux, a-t-il précisé avec empressement.

<『しかし、もちろん、これは伝染性のものじゃありません』と、彼はとり急いで補足した。>支配人にはホテル管理上の重責が課されています。従業員の熱病の発生は、支配人の管理責任の一環である可能性があり、宿泊客に対する安全配慮義務も必然的に伴います。それと同時にホテルの信用を維持し、顧客を減らしたくないという、より優先的な思考が支配していて、彼にこのような根拠の乏しい断言をもたらしているように読み取れます。

 

註5:fataliste(宮崎訳では運命論者)

運命論者/宿命論者とは、運命論/宿命論(fatalisme)を支持する人です。そこで、ラルースのフランス語辞書で、この語の定義を検索してみました。

fatalisme

1. Doctrine qui considère tous les événements comme irrévocablement fixés à l'avance par une cause unique et surnaturelle.

すべての事象は、単一の超自然的な原因によってあらかじめ不可逆的に固定されていると見なす教義。

 

2. Attitude de quelqu'un qui s'abandonne passivement aux événements.

出来事に受動的に身をゆだねる人の態度

支配人が意味するfatalisteとは、2.の意味のようです。ただし、支配人の心理としては、出来事に受動的に身をゆだねるというよりは、自分には責任はない、という保身的な考え方のように読み取れます。もし、責任感のある人物が、保身のための宿命論者と同一視されたならば、きっぱりとそれを否定しておかなければならなくなるのではないかと考えます。