故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その2)

 

東京から水戸へ電車で移動するには、JR常磐線を利用するのですが、特急なら、いわき行(福島県いわき市)または勝田行(茨城県ひたちなか市)が便利です。勝田というのは、水戸の次の駅で、町村合併前は勝田市の駅でした。

 

その勝田という地名も、市内の勝倉と武田の地名を合成して成立したということは、私は後年になって知り得た情報です。武田は、武田信玄および勝頼に代表される甲斐(山梨県)武田氏の発祥の地であり、現在も武田館が記念館として残っています。一方の勝倉ですが、水戸駅近くの古書店「とらや」で武石巌氏著の「勝倉今昔多抄―ふるさとは いのちの母 ぶんかの泉―」(昭和59年6月発行)を掘り出しました。

 

この書籍の中に、著者の武石氏自身のルーツが記載されていましたので、そのまま引用してみます。

 

・・・・・地元の伝承によると、武石の家系は古く、応永年間(一四二七年)の頃、水戸城主江戸但馬守通房が、地蔵坂の上に、台城を築いた際、城主飯島氏の武将として、武石某を遣わした。武石氏は田向坪に侍屋敷を構え、一族この地に居住したが、永禄年間(一五六二年の頃)飯島城主の没落により、録を失い、数々の経過を辿り、その子孫が元禄の頃、地元の信望熱く、庄屋となり、再び世に現われることとなったと、言い伝えられている。・・・

 

上記の情報が、地元の伝承であって、文書ではないことは残念ではありますが、今後、他の文献資料との照合によって、事実関係を検証していくことは可能であると考えます。この伝承を素直に読めば、武石氏の本来の主は水戸城主となった江戸氏であるということになります。新たに築城された台城城主の「飯島氏の部将」というのは、飯島氏の付家老という役割を担った家系であると想定することができるでしょう。

 

また、この伝承情報によれば、飯島氏は1427年頃から1562年頃までの、およそ135年間にわたって台城の城主であったことが推測されます。

 

そこで、次回は台城城主飯島氏について「勝倉、台城、飯島」を検索ワードとして、ネットやアメブロで情報を検索してみることにします。