アルベール・カミュ作 『ペスト』を読むNo23

 

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タル―という男の人間像もまだよくつかめない段階で、そうした彼が、さらに奇妙な老人に興味をもって仔細を描写するという展開になります。原文を読んでみると、得も言われぬミステリアスな雰囲気を味わうことができるのですが、訳出は容易ではありませんでした。例の如く、宮崎峯雄訳と照らし合わせてみましたが、それでもなおわかりにくい場面の一つです。

 

Tarrou semblait ensuite avoir été favorablement impressionné par une scène qui se deroulait souvent au balcon qui faisait face a sa fenêtre. Sa chambre donnait en effet sur une petite rue transversal où des chats dormaient à l’ombre des murs. Mais tous les jours, après déjeuner, aux heures où la ville tout entière somnolait dans la chaleur, un petit vieux apparaissait sur un balcon, de l’auter côté de la rue. Les cheveux blancs et bien peignés, droit et sévère dans ses vêtements de coupe militaire, il appelait les chats d’un « Minet, minet», à la fois distant et doux. Les chats levaient leurs yeux pâles de sommeil, sans encore se deranger. L’autre déchirait des petits bouts de papier au-dessus de la rue et les bêtes, attirées par cette pluie de papillons blancs, avançaient au milieu de la chaussée, tendant une patte hésitante vers les derniers morceaux de papier. Le petit vieux crachait alors sur les chats avec force et précision. Si l’un des crachats atteignait son but, il riait.

 

するとタルーは、自室の窓と向かい合ったバルコニーでよく繰り広げられる光景に好感を持ったようだ。彼の部屋からは、小さな横丁が見渡せ、家々の壁がなす日陰で猫たちが眠っていた(註1)。しかし、毎日、昼食の後、街中が暑さでうとうとする時間帯になると、通りの反対側のバルコニーに小柄な老人が姿を見せるのであった。白髪で、その髪は丁寧になでつけられていて、謹厳実直なミリタリー調の出で立ちのその老人(註2)は、距離を保ちつつも優しげに猫たちに「ミャゥ、ミャゥ」と呼びかける(註3)のである。猫たちは、青白い眠たそうな目で見上げるばかりで、依然として立ち上がらない(註4)。一方で老人が路上へ向けて小さな紙切れを引き千切り(註5)、その白い蝶のような紙吹雪に(註6)気を引かれた猫たちは、最後の紙吹雪(註7)に向かってためらいがちに前脚を伸ばして道路の真ん中に繰り出す。そこで、小柄な老人は、勢いよく、正確に狙いを定めて猫たちに向けて唾を飛ばす。その唾が一発でも命中すると、彼は笑い声をたてるのであった。

 

(註1)猫たちが眠っていた<des chats dormaient>

宮崎訳:猫が眠っていた。

猫は複数形なのですが、宮崎訳では単に「猫」としています。文脈からは、猫が群れているように想像されるので、そのように訳してみました。

 

(註2)白髪で、その髪は丁寧になでつけられていて、謹厳実直なミリタリー調の出で立ちのその老人<Les cheveux blancs et bien peignés, droit et sévère dans ses vêtements de coupe militaire.>

宮崎訳:白髪を綺麗になでつけ、軍服仕立ての服をきちんといかめしく着込んだ老人

宮崎訳は良くこなれていると思います。

私には、年をとっても高円寺の古着屋に出入りしているような、自分の外見にこだわりをもっているような人物が想起されます。

 

(註3)距離を保ちつつも優しげに猫たちに「ミャゥ、ミャゥ」と呼びかける

<il appelait les chats d’un « Minet, minet»>

宮崎訳:「ニャオ、ニャオ」と、よそよそしいと同時にまた優しい呼び声で猫を呼ぶ

« Minet, minet»というのは、実際にどのような発音なのかは定かではありません。猫の鳴き声を真似たものであろうと思われますが、子音ぐらいは言語のMに合わせたオノマトペとしたいと考えました。

 

(註4)猫たちは、青白い眠たそうな目で見上げるばかりで、依然として立ち上がらない<Les chats levaient leurs yeux pâles de sommeil, sans encore se deranger.>

宮崎訳:猫はぼんやり眠そうな眼をあげるが、まだ体は動かそうとしない。繰り返しになりますが、登場する猫は一匹ではありません。levaient leurs yeuxというのは、見上げる、という意味です。

老人が階上のバルコニーに居て、猫たちが階下の建物の壁の日陰にいて、その老人は猫たちを直接見えない可能性があるのですが、対則の建物の窓から眺めているタル―はその両方の様子を観察している構図であると解釈して訳出しました。

 

(註5)路上へ向けて小さな紙切れを引き千切り<L’autre déchirait des petits bouts de papier au-dessus de la rue>

宮崎訳:小さな紙きれを通りの上で千切ってみせると、

⇒宮崎訳では、猫たちと老人の位置関係が平面的であり、千切った紙切れが蝶のように舞い落ちるイメージではないようです。

 

(註6)その白い蝶々のような紙吹雪に<cette pluie de papillons blancs>

宮崎訳:この白い蝶々の雨に

⇒直訳すれば、この通りですが、白い蝶々と雨がどのように結びつくのかがイメージしづらいと感じました。路上に白い蝶々のような紙きれが落ちていて、それは雨が降った後の路上のようであった、という静的かつ平面的解釈であれば、宮崎訳で良いと思います。これに対して私は、動的かる立体的に解釈しました。つまり、老人がバルコニーから下の路上に紙切れを散らすとなれば、それは紙吹雪のようでもあり、蝶々が舞い降りる様でもあるからです。

 

(註7)最後の紙吹雪<les derniers morceaux de papier>

宮崎訳:最後の紙片

⇒わたしは、印欧諸語の翻訳に当っては、可能な限り単数・複数の違いや集合名詞など集団の性質を表す表現などを可能な限り訳し分けておきたいと考えています。

<les derniers morceaux>これも複数形ですから、最後の一切れの紙片ではなく、何枚かまとまった一段の紙切れであることが読者に伝わるように訳しておきたいと考えました。