故郷(茨城)探訪

 

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番外編:偕楽園と徳川斉昭公の和歌

 

水戸駅の北口からほど近い銀杏坂の観光看板で、偕楽園の写真に添えて、徳川斉昭公の和歌が添えられていました。率直に申し上げて、あまり上等な出来ではないのですが、斉昭公は、歌の技術的な出来よりメッセージと実践を大切にする指導者であり、その人柄が滲み出てくるような温かさを感じ、足を止めました。

 

世を捨てて 山に入る人

山にても なほ憂きときは

ここに 来なまし

(徳川斉昭)

 


徳川斉昭(烈公)は、水戸藩第9代藩主で、最後の将軍慶喜の父、藩校「弘道館」の設立者として知られています。

 

1833年(天保4年)藩内一巡後、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持ちました。

造園は本草学者である長尾景徳が実施しました。その人の出自は長尾景虎(後の上杉謙信)を輩出した家柄です。

この広大な大名庭園は藩校「弘道館」で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいという目的があり当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていました。

 

「偕楽」とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられています。

そこで水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神により斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられました。

 

しかし、この斉昭の和歌は本歌取りのようです。

 

本歌は、おそらく古今集に収載されている凡河内躬恒による以下の和歌でしょう。

 

世を捨てて 山にいる人

山にても なほ憂き時は

いづち行くらむ

(凡河内躬恒・古今集)

 

 

この和歌の大意は、「世を捨てて山に入ってしまう人は、山にいてもまだつまらなくてたまらないときは、いったい今度はどこにゆくというのだろう。」ということです。

 

この歌の本音のところは、出家をする人達に対する皮肉を込めた歌で、どこへ行っても辛いことは多いということが言いたいのだと解釈されているようです。

 

なぜ、これが皮肉をこめた歌なのか、ということを理解するためには、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)という人物についての背景知識が欲しい所です。


凡河内躬恒とは、平安前期の歌人で生没年は未詳です。宇多・醍醐天皇に仕え、古今集撰者の一人であり、三十六歌仙の一人であるばかりでなく、紀貫之、壬生忠岑と併称されるほどの大歌人です。

 

最もよく知られている和歌は、『小倉百人一首』29番歌でもある心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花(『古今和歌集』巻5-277)ではないでしょうか。

 

とても雅で洗練された定家好みの歌だと思います。ちなみにこの歌について、写生を重んじる歌人・俳人の正岡子規が酷評していることは有名です。

その評価の妥当性は別として、私はこの和歌が三位以上の上級貴族の作品のように感じられるのです。

しかし、躬恒の実際の官位は六位止まりで、通貴(四位・五位)にも届かない身分でした。

つまり、歌人として超一流ではあっても官位官職には恵まれないという人物像が見えてきます。

 

このような才人は、逆の立場の人、たとえば生まれつきの高貴の家柄の出身であるにもかかわらず、上等な和歌を詠むことができずに辛い思いをしなければならない人々に対して、どのような感情を抱くのでしょうか。

 

プライドを傷つけられるのを恐れて貴族文化サロンから身を引きたいと願っている人たちに対して、たしかに、とても辛辣で皮肉なメッセージを贈っていると解釈することも可能でしょう。

 

私は、官位に恵まれない立場にある自分は、出家もままならず、逃げ場とてなく、ひたすら歌の道を極める他に道はないのだ、という悲痛な叫びのように聴こえてくるのです。
 

さて、躬恒の和歌については、そのあたりで止めておき、斉昭の和歌との比較を試みたいと思います。すると、斉昭は、躬恒の和歌の上の句ばかりでなく、下の句の最期の七音を除いて、ほぼこの歌の大部分を援用していることがわかります。
 

しかし、ここで思わぬ発見をすることができました。それは結句次第で、それまでの句の意味するところ、言葉の温かみが大きく転換するということです。

 

初句の 

世を捨てて 山にいる人

 

これが、躬恒の「世を捨てて山に入ってしまう人は」という冷徹な一般論としてではなく、「世を捨てて山に入ってしまおうかと悩んでいるお方よ」という斉昭の暖かい呼びかけのように響いてくるような気がします。

 

次いで、

山にても なほ憂き時は

 

これも、躬恒であれば「山にいてもまだつまらなくてたまらないときは」と、その相手との距離を感じさせるのに対して、斉昭は「山にいてもまだつまらなくてたまらなくなったとしても」と救いを暗示する流れへと繋がって行くようなきがするのです。

 

そして、斉昭は、

ここに 来なまし

「ここ(偕楽園)にいらっしゃい」

と迎え入れるのです。

 

これが真の斉昭の心、水戸学の心なのではないか、

水戸人の真心(誠)は俗人からはなかなか理解されがたいのです。

 

和歌は繰り返し詠んでこそ和歌、リフレーンが必要であると私は考えています。特に日本語は最後まで丁寧に伝え終えることができないと、なかなか真意が伝わらない言語です。

 

つまり、相手の言うことを最後まで聴き届けることが相互理解にとって不可欠な約束ごとなのです。ですから大切な思いは、繰り返して歌ってみるのは良い方法だと思います。

 

私は躬恒の歌と斉昭の歌を一つの問答歌に仕立てた上で、前奏、間奏、後奏を付して作曲してみました。いずれ、吟味の上、御披露することができるように準備したいと考えております。