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__ Hein, docteur, dit-il pendant la piqure, ils sortent, vous avez vu?

__ やあ、先生。連中が出きたのを見ましたかい?と注射を打たれながら彼は言うのであった。

 

 

__ Oui, dit la femme, le voisin en a ramassé trois. Le vieux se frottait les mains.

__そうなんですよ、お隣では3匹見つけたのよ、とその妻が言うのであった。老人は手をこすり合わせていた。

 

 

__Ils sortent, on en voit dans toutes les poubelles, c’est la faim!

ネズミどもが出てきて、どのゴミ箱にも入っているのを見るにつけても、こいつは飢饉ですな。
  

 

Rieux n’eut pas de peine à constater ensuite que tout le quartier parlait des rats. Ses visites terminées, il revint chez lui.
その後、リューは、近所中がネズミの話題で持ちきりになっていることを労せずに気づいた。往診が済むと家に戻った。
 

 

__ Il y a un télégramme pour vous là-haut, dit M.Michel.
お宅の電報が上の階に届いていますよ、とミシェル氏が言うのであった。
 

 

Le docteur lui demanda s’il avait vu de nouveaux rats.
医者は彼に、ネズミを新たに見たかと尋ねた。

 

 

__ Ah! Non, dit le concierge, je fait le guet, vous comprenez. Et ces cochons-là n’osent pas.

__ とんでもない、私が警備しているんで、わざわざネズミ共が出てくる幕はありませんよ、と管理人は言うのであった。

 

 

Le télégramme avertissait Rieux de l’arrivée de sa mère pour le lendemain. Elle venait s’occuper de la maison de son fils, en l’absence de la malade. Quand le docteur entra chez lui, la garde était déjà là. Rieux vit sa femme debout, en tailleur, avec les couleurs du fard. Il lui sourit:

__ C’est bien, dit-il, très bien.

電報には、彼の母が翌日到着することが記されていた。病気の妻が不在となる息子の家の世話をしに彼女は来るのであった。医師が家に入ると、付添婦がすでにいた。リューは、妻がスーツ姿で化粧をして立っているのを見た。彼は彼女に微笑みかけて

__いいよ、とてもいいよ、と言うのであった。
 

 

Un moment après, a la gare, il l’installait dans le wagon-lit. Elle regardait le compartiment.

しばらくして、彼女を駅で寝台車に乗せた。彼女は客室を見ていた。

 

 

__ C’est trop cher pour nous, n’est-ce pas?
私たちには贅沢すぎるのではないかしら?

 

 

__ Il le faut, dit Rieux.

必要だよ、とリューは言うのであった。

 

 

__Qu’est-ce que c’est que cette histoire de rats?

ネズミの一件はどうなっているの?

 

 

__ Je ne sais pas. C’est bizarre, mais cela passera.

わからないね。奇妙な話だが、それは片が付いていくことだろう。

 

 

Puis il lui dit très vite qu’il lui demandait pardon, il aurait du veiller sur elle et il l’avait beaucoup négligée. Elle secourait la tête, comme pour lui signifier de se taire. Mais il ajouta:

それから、彼は、ひどく急き立てられるように彼女に詫びて言うのであった。彼女に気を付けてやるべきだったこと、ずいぶんと放っておいてしまったことを赦してほしい、と。彼女は、そんなことは言わないで、とばかりに首を振っていた。 しかし、彼はこう付け加えた。

 

 

__ Tout ira mieux quand tu reviendras. Nous recommencerons.

きみが戻ってきたら、すべてが良くなる。また、やり直そう。

 

 

__ Oui, dit-elle, les yeux brillants, nous recommenceron.

彼女は目を輝かせて「そうね、また、やり直しましょう」と言うのであった。
 

 

Un moment après, elle lui tournait le dos et regardait à travers la vitre. Sur le quai, les gens pressaient et se heurtaient. Le chuintement de la locomotive arrivait jusqu’à eux. Il appeal sa femme par son prénom et, quand elle se retourna, il vit que son visage était couvert de larmes.

しばらくして、彼女は彼に背を向けて車窓の外をながめていた。ホームでは、急ぎ足の人々がぶつかり合っていた。機関車の蒸気の音が彼らのところまで聞こえてきた。彼は妻を呼ぶと、妻は振り向いたが、その顔は涙で溢れていた。
 

 

__ Non, dit-il doucement.

だめだよ、彼は優しく言うのであった。

 

 

Sous les larmes, le sourrire revint, un peu crispé. Elle respira profondément:

涙の翳には、ややこわばり加減ではあったが、笑顔が戻っていた。彼女は息を深くついだ。

 

 

__  Va-t’en, tout ira bien.

行っておいで、まったく大丈夫だから。

 

 

Il la serra contre lui, et sur le quai maintenant, de l’autre côté de la vitre, il ne voyaite plus que son sourire.

彼は彼女を抱きしめ、そして今はプラットフォームで、彼女のいる車窓の外側から、ただ彼女の笑顔を見るばかりであった。

 

 

__ Je t’en prie, dit-il, veille sur toi.

くれぐれも体を大事に、と彼は言うのであった。

 

 

Mais elle ne pouvait pas l’entendre.
しかし、その声は彼女には届かなかった。

 

註:

Quand le docteur entra chez lui, la garde était déjà là.というところのla gardeの訳に関して、宮崎嶺雄の訳では、「看護婦」となっているのが気になりました。

 

翻訳初版の昭和44年には看護師という言葉はまだ誕生していなかったにしても、看護婦と訳すのが許されるとすれば、原文はl‘infirmièreでなくてはならないと思うからです。

 

la gardeは「付添婦」などと訳すのが適切ではないかと考えます。<医師であるリューが家に入ると看護婦がいた>のであれば、リュー医師は妻のために付き添いの看護師を雇えるほど経済的に豊かな開業医ということになりますが、いかがでしょうか?

 

それほどに豊かな開業医の妻が「寝台車」で出発する際に C’est trop cher pour nous, n’est-ce pas?(私たちには贅沢過ぎるのではないかしら?)などと言うのは不自然です。このあたりのニュアンスを

 

宮崎嶺雄先生はどのように受け止めておられたのかについて、ご存命であれば直接うかがってみたいものです。

 

杉並区の内科の開業医で看護師を雇えているのは3分の1程度だという話をきいたことがあります。

 

世間様の勝手なイメージやマスコミに操作されてきたイメージとは異なり、現在の日本においてさえも、平均的な開業医は、得てしてつましいのが実態なのではないでしょうか。

 

それにしても、駅での別れのシーンは映画の中の恋人同士と相場が決まっていそうなものです。それにもまして、夫婦の一時的な別れを、これほどまでに繊細に、印象的に活字で描くことができるカミュは、やはり文豪の名にふさわしい表現者であるといえるでしょう。

 


東京へのこだわりN01:現在編<東京でしかできないこと>

 

令和4年度は、「東京でしかできないことは東京で、郷里(水戸)でしかできないことは水戸で」という私の行動指針が固まってきました。

郷里での生活より、東京での生活の方が遥かに長くなったのですが、いつの頃からか、東京で過ごしているから安心、という根拠の乏しい思い込みに染まり、日々をぼんやり過ごしつつある自分自身に気が付いて反省を始めているところです。

 

そこで、まず「東京でしかできないことは何だろうか?」という自問自答に始まるわけです。

しかし、東京に住んでいるだけで、地元の高円寺をはじめ杉並区のことすら皆目見当がつかないまま過ごしてきたことに気が付いて愕然とするのでありました。

 

まず、高円寺についてですが、高円寺には杉並区立杉並芸術会館があるということを私は本日まで知らないでおりました。もっとも「座・高円寺」の存在はさすがに認識しておりましたが、両者が同一の実体であることは知らなかったわけです。

 

「座・高円寺2」は演劇や音楽・ダンス等のさまざまな文化・芸術活動、発表会、講演会等に幅広く利用できます。また 「阿波おどりホール」は阿波おどりの練習や普及事業のための 専用のホールのようです。おまけに、一般社団法人 日本劇作家協会の事務局が高円寺北2丁目に置かれていて、高円寺は演劇の世界でのメッカでもあることなど全く知らないで過ごしていました。

 

劇団の演出部で演出助手として目下修業中の私の次女が既に数年前に「高円寺は、自分にとって必要なものが何でも揃っている街だ。」と言っているのを耳にしたときに、私は不思議な思いに駆られたものでした。

しかし、やたら遠方の世界に憧憬を抱く傾向にあった私よりも、身近な地元に素晴らしい宝を見出すことができる次女の感覚は大切に育んで欲しいものだと思うし、私自身もそのような発想が持てるように、毎日を生き生きとした感覚で過ごしたいとものです。

 

一言で「表現芸術」といっても色々あるわけですが、そもそも「表現」の仕方や表現者の心構えの在り方も様々であるように思われます。私は、一時期、能のお仕舞やお謡の稽古をさせていただいた時期がありましたが、残念ながら定期的に続けることは断念し、機会に恵まれれば観能を楽しめればと考えています。そのかわり、声楽の稽古は、コロナ禍にあっても、何とか続けております。

 

東京でしかできないこと、というお題で考え始めましたが、高円寺でしかできないこと、杉並区でしかできないこと、と置き換えて、折に触れて考えてみることが大切であることに気づくことができたように思います。

 

大切にしたいことは、もし私が何かの折に高円寺を、そして杉並区を去った後に、学問・芸術・文化等の領域において、高円寺や杉並の魅力を再発見したときに、大きな後悔に襲われないようにしたいということです。そうは言っても、後悔、先に立たずという言葉もあります様に、なかなか思うとおりに行かないのが世の常なのかもしれません。


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厚生労働省は、職場のメンタルヘルスに関するよくある質問と答えをまとめました
として、ホームページで、こころの健康に対してわかりやすいQ&Aを掲載しています。

それに私が臨床の立場からCとしてコメントを加えてみました。

 

⑤ Q.うつ病の根本にある思考パターンを変える3つの方法とは?

 

A.ここでは、うつ病の原因になりやすい思考パーターンを変える方法を紹介します。

 

5-1:自分の本音に気づいてあげる

もし今あなたが「自分の本音」がわからないとしても、必ずあなたの中に本音はあります。

本音がわからない理由は、あなた自身が本音を見ないようにしているからかもしれません。

というのも、本音というのは下に挙げたようなネガティブな感情を含む場合が多いからです。

 

・実は自信がない

・実は無理だと思っている

・実はもう限界だと思っている

・実は助けて欲しいと思っている

・実は自分のことをダメだと思っている

 

ネガティブな感情を含め、自分の本音を受け入れることができれば、気持ちが軽くなります。そうすれば、本音から目を逸らすことに割いていたエネルギーを自分自身の成長に使うことができるようになるでしょう。

 

 

5-2:ひとりで頑張ろうとしない

なかなかうつ病が改善しないのであれば思い切ってカウンセリングを受けてみましょう。

・薬でなんとかなるだろう

・自分の力でもう少し頑張ってみよう

 

ついそう思ってしまいがちですが、これこそがうつ病が長引く原因のひとつなのです。皮肉なことにあなたの「頑張り」があなたのうつ病を長引かせている可能性があります。自分で自分の心のケアを行うとどうしても客観性が失われます。

 

また、自分の経験だけで解決しようする為、時間ばかりかかってしまうことが多いです。うつ病とはひとりで改善するものではなく、専門家と力を合わせて改善していくものです。今までひとりで頑張ってきて改善しないのであれば、カウンセリングを受けてみてください。

 

C. 今回の回答Aは分かり易く有用であると思います。私が改めてコメントする必要がない位です。ただし、念のため私が下線を施しましたので、もう一度お読みになっていただければ幸いです。

 

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健診や人間ドックなどの医学的評価(メディカル・チェック)ばかりでなく、それ以前に、基礎健康評価(フィットネス・チェック)が必要です。

 

なぜならば、人間ドックで異常がみつからないからといっても、ただちに健康が保証されるわけではないからです。

 

健診や人間ドックの検査項目は、既製服のようなものであって、必ずしも個性豊かな一人一人のために仕立てられてはいないからです。

 

たとえば、ビタミンDなどは、フレイルやロコモの予防のためにも免疫力の保全のためにも重要であることが知られています。そして、これが充足している人は20%に満たないにもかかわらず、高額な人間ドックでも測定されていません。

 

つまり、一般的な医学的評価において正常範囲とされたとしても、基礎健康評価が至適状態でない限り、確かな健康は保証されないことになります。逆に言えば、基礎健康評価が至適状態に向かって改善されていけば、医学的評価において改善されにくい項目も改善し易くなるといえます。

 

さらに言うならば、医学的評価において異常が出現しないうちに、基礎健 康評価において見出された問題点や課題を克服しておくことが極めて効果的な健康法になることでしょう。

 

病気になってから治すのではなく、半健康の状態(医学的評価では正常、基礎健康評価では課題あり、の状態)のうちから、健康の質を向上させておくことが賢明な方法です。「未病を治す」という言葉をご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、まさに、こうした半健康の状態が「未病」に相当するのです。

 

杉並国際クリニックで実施しているフィットネス・チェックは「体組成・体力評価」票に則って、季節ごと(年4回、3カ月ごと)に実施しています。

 

ただし、通常の医療機関でこれを実践するのは容易ではないので、たとえば日本医師会で認定している「健康スポーツ医」や日本体育協会で認定している「公認スポーチドクター」などの資格を持っているだけではなく、熱心に実践指導の経験をもつドクターに巡り合うことができた方は幸運だといえるでしょう。そうした指導をする上でたいせつなポイントを3つ紹介させていただきたいと思います。
 

 

1つめ。

これが今回のテーマなのですが、自分の弱点を認識すること。多くの人たちは、自分の得意なこと、自信のある分野を更に伸ばしていきたいと思っています。それは、とても楽しみでもあり、運動を続けていくうえでの動機付けにもなるので意味のある事です。

 

しかし、競技や特定の領域の記録の向上を目指すだけでは真の健康は得られません。活動寿命を無理なく自然に延ばすための生涯エクササイズとしては、自分の苦手なところ、弱点を見落とさないように定期的にチェックして、それらの弱点を克服できるような意識で稽古プログラムに参加するのが良いでしょう。

 

はじめのうちは、なかなか弱点を改善できないかもしれませんが、「継続は力」です。焦る必要はないので、根気強く希望をもって意欲的に取り組んでいけば、いつの間にかに成果が見られるようになります。また、各自の弱点克服のために有効なプログラムとなるように、継続的な工夫がなされ、改良を加えながら発展してきたのが水氣道であるともいえるのです。このような実証的な方法で発展を続けているのは世界広しと言えども「水氣道」をおいて他に類例をみることはありません。

 

2つめ。

正しい健康法を『継続』させること。これはとても大切です。いくら正しいやり方だとしても継続できそうもない健康法では全く役に立ちません。

 

だから単なる「ブーム」のような健康法はお勧めできません。そして、医学的根拠があるとしても、ひとの心理や行動パターンに関する知見が欠如していたり、断片的で単純すぎる展開の無い動作の繰り返しであったり、一時的に流行っていたりするような健康法には信用に足るものは少ないです。

 

逆に、一見、地味なエクササイズに見えたり、簡単過ぎるように見えたりしても、実際に試してみると、予想していたほど簡単なのものでも味気ないものでもなく、次第に高度で複雑な動作を身に着けるために必要なスキルであることに気づけるエクササイズこそが有意義なエクササイズであることに気づくことが多いのではないでしょうか。

 

ですから、シンプルで基本的なことからキチンと続けられ、無理を伴わない、体系的にプログラムされ,全体としての稽古の流れを体感できるような健康法をお勧めしたいです。無理がないプログラムであるからこそ、苦手であり弱点でもあるポイントを安全に安心して、しかも楽しく克服していくことができるのです。
 

 

最後に3つめ。

その時々の体調に応じてプログラム路線を変更できる「柔軟な健康法」であること。かたくなに信じこんで修正のきかない強制的な健康法はしばしば身心を壊すことがあります。別の言い方をするならば、稽古プログラム自体が各人の体と心の状態との相互コミュニケーションが可能なエクササイズであることが「柔軟な健康法」であるということです。