『聖楽院』便り


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東京へのこだわりN02:過去編<東京でしかできなかったこと>

 

東京でしかできないことを考えるより、東京でしかできなかったことを振り返ってみることの方が容易であることに気づきました。
 

東京でしかできなかったことというより、地元の水戸、しかも交通の便が芳しくない市のはずれの住人のままではできなかったことはたくさんありました。

 

水戸市とはいえ、バスで水戸駅に向かう時間と、水戸駅から特急で東京駅に向かう時間がどっこいどっこいだったのですから。

 

それでも中学校から高等学校までの6年間は、自転車で自宅から学校まで、聞く人とていない、折々の歌を歌いながら、山や谷を越えていったものでした。これで今に至るまでの私の足腰と喉は大いに鍛えられることになりました。

 

関東地方の県庁所在地で医学部がないのは、埼玉県の浦和市は別としても、栃木県宇都宮市と茨城県水戸市です。

 

埼玉県には国立防衛医科大学校と私立埼玉医科大学の2校があります。

 

栃木県にも自治医科大学と獨協医科大学の2校があります。これに対して茨城県には国立大学である筑波大学医学群(特殊な名称です)が1校のみです。

 

国立大学であれば入学のための財政事情が許されるのでが、水戸の自宅から通学するのは困難でありました。ですから、そもそも医学部に進学するには水戸の自宅を離れざるを得なかったということです。

 

もっとも私の亡父は、自宅から自転車でも通学可能な地元の茨城大学教育学部に進学し、小学校か中学校の教諭になって地域の基礎教育に貢献することを盛んにすすめてくれていました。

 

幸い医師となることができましたが、厳しい現実と理想とのギャップという矛盾の間で翻弄されるようになると、父の勧めてくれた人生行路も、それなりに充実した人生になっていたのではないかと思うことも、しばしばありました。

 

一方、地元の小学校の教諭であった私の叔父(亡父の末弟)は、60歳の停年を迎えて、退職した後、しばらくの間、目標喪失のためか鬱状態に陥っていたことが思い出されます。生徒から愛され、教室で子供と過ごすことに大きな生き甲斐を感じていた叔父は、生徒と共にある教壇を離れたがらず、そのため教頭にすらなろうとしなかった草の根教師でしたが、幸いに今も健在です。

 

かくいう私もすでに62歳を迎え、世間でいうところの定年を過ぎていることに気が付かされます。私の場合、立場上、公的な停年はないのですが、私的な定年は自分で決めることができるし、いずれ決めなくてはならないことになります。あらかじめ強制的に与えられている停年が良いか、自分の裁量と責任で決定すべき定年が良いか、一概には言えないと思います。いずれにしても、定年(停年)が、その人の人生において持つ意味は小さいものではなさそうです。

 

医師になってからも東京はすこぶる便利でした。研修医を過ごした虎の門病院は、レジデントクオーターといって病室を改造したような研修医宿舎(2人部屋)がありました。地方出身者として居住費がかからないということがとても有難かったことを思い出します。

 

医師になってからの自己研鑽の場として、東京は非常に有利であったと思います。学位取得のための通学(杉並区高円寺⇔文京区本郷)や複数の専門医等の資格取得および資格更新のための業績を確保することができたのも東京在住でなければ困難であったものと思われます。

 

開業医として勤務し、水氣道を続け、聖楽院の活動をしながら博士(医学)の学位を取得することなど無謀極まりないとまで意見されたこともありましたが、それはすべての活動圏が東京23区内であったことが、それを何とか可能としてくれました。そもそも、各種医学会は東京で開催される頻度が高いばかりではなく、地方の中核都市等で開催される各種の医学会に参加するにしても、東京からのアクセスは良好だからです。

 

私が水戸市在住を続けていたとしたら、上記のいずれも実現できなかったであろうことは想像に難くないといえます。