故郷(茨城)探訪

 

各地にて編纂された『風土記』は、現在ではわずかに五つしか残されていません。

 

『常陸国風土記』はその貴重な一つなのですが、残念ながら完本ではありません。

 

省略されたり欠落していたりする箇所も少なくありません。

 

『古事記』や『日本書記』とは異なり、たとえ中央との繋がりが深い官人の手によって編纂されたとはいえ『風土記』は、地方の伝承や物語が中心をなしているため、生き生きとした古代の世界を豊かに表現しています。

 

 

現在の茨城県といえば、首都東京から比較的近くに広がっているにもかかわらず、現在でも地方色が豊かで、どちらかというと地味な土地柄です。

 

長野県が都会人を大いに引き付けるアピール力をもった洗練された田舎であるとすれば、茨城県は地味で不器用で飾り気のない田舎ということが言えるかもしれません。

 

当時の常陸の国は、奈良の都からはるか遠くに隔たった東国の辺境にあったにもかかわらず、常世の国として美しく豊かに描かれていることにミステリアスなロマンを感じます。

 

 

ヤマトの最も優れた勇者とされてきた東国を彷徨された日本武尊(倭建命、倭武天皇とも)は、常陸国風土記の中でも物語を展開させています。

 

 

永遠の時を隔てて古代の姿を今日までとどめているものとしては、自然をおいて他にはないでしょう。

 

筑波山は常陸国の象徴であり続け、茨城県のシンボルでもあります。また建造物としては、常陸一之宮である鹿島神宮があります。

 

鹿島神宮は、天智天皇の時代に都から遥か東国の果てにあるにもかかわらず、国家の手で造営したのは、藤原鎌足に対する天智天皇の恩寵のためであるとか、東国鎮圧の願いのためであるとか、種々の説があるようです。

 

神護慶雲二年(768年)には、春日大社が創建され、鹿島の武甕槌(建御雷)神を筆頭に、下総香取の経津主神、河内枚岡の天児屋根神、比売神の四神が、その祭神とされました。

 

それは当時の都の程近くの畿内ではなく、遥かな東国であるにもかかわらず鹿島神宮、香取神宮を擁する常陸国、下総国の地位や重要性が決して低いものではなく、むしろ高く評価されていたことを意味します。

 

この事実を確かめることによって、私は、常陸国および下総国よりなる茨城の古代の姿を想像し、ロマンを感じずにはいられなくなるのです。