運動生理学的トレーニング理論の限界と水氣道の可能性No4

 

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    • 水氣道稽古の12の原則(3)教修不岐の原則

 

教修不岐とは何か、これは「文武不岐」という言葉から着想を得た水氣道のための新しい概念です。それでは文武不岐とは何かというと、文と武とは分かつことができないものであるということです。武がなければ文ではなく、文がなければ武ではないということです。ですから、文武両道という考え方とは根本的に異なります。

 

水氣道において、「教修不岐(きょうしゅうふき)」というのは、教えることと修めることは水氣道の稽古において分かつことができないものであるということです。他者に教えることができなければ修めることができず、また修めることができなければ教えることができないということです。

 

そして、教修不岐の原則は、心身統合の原則心技体の原則に通じるものでもあります。これらの簡単な原則を心に受け入れ、身に着けることができれば、それで水氣道の実践者ということができるのです。

 

つまり、身と心は分かつことのできないものであるということが心身統合の原則です。それであるから、心のない身は物を感じることができず、また、身のない心は道理を知ることができません。けれども、入門者の一応の理解のために、あえてこれを分けて言えば、心は分別することによって道理を知り、身は行動して事実を感覚するものと言えるでしょう。したがって、心に受け入れられ修めることができる道理とは、事実としてこの身に行われるものでなくてはなりません。

 

水氣道においては、その真実の道理として心に受け入れ修めるべきことを「修錬」といい、その道理を事実として身に着けていくことを「訓練」といいます。しかし、この修錬と訓練とを別のものと考えてはなりません。

なぜならば、「真の修錬」と「真の訓練」とは分かつことができないからです。

しかし、このことを身に着けるためには一定の稽古を要します。ですから、水氣道の訓練生というのは、真の訓練には至らず原初的な「仮の訓練」を行っている段階の人を意味します。そして、修錬生は、仮の訓練の積み重ねの上に修錬の手ほどきをはじめることになります。ただし、この段階の修錬は、真の修錬には至ってないので「仮の修錬」といいます。つまり、修錬生は修錬を始めることによって、仮の訓練を真の訓練に高めていく段階の人です。

 

それでは、分かつことができないという「真の修錬」と「真の訓練」を身につけるにはどうしたらよいのか、ということになります。それは初期の入門者である体験生のように水氣道に委ねて学び修めるだけでは到達することはできません。

 

そもそも水氣道は自力では習得できるものではないので、教えを受けることがどうしても必要になります。しかし、教えを受けて稽古の参加さえすれば「真の訓練」と「真の修錬」を統合できるのかというと、それだけではまだ不足なのです。何が不足なのかというと、それは自分が稽古を通して悟ったことや身に着けたことを上級者の支援を受けながら可能な範囲で後輩に「教え伝える」ことです。つまり、教え方を修習することです。他者に伝えることができてはじめて修得したことの証になるからです。そして、後輩を教え導くことを通して、真の訓練と真の修錬とを統合していく段階にある人が支援員ということになります。そして、それが教修不岐ということになります。支援員は、教修不岐の原則に則って精進していく段階の人です。

 

そして、このような稽古を継続的に続けていくことができなければ水氣道を全人的に指導をすることはできません。水氣道の指導員とは、水氣道を通して全人的な指導ができる人であることが求められるからです。