これからの「聖楽院」(くすし歌声・くすりの音色の原点)音楽する心の起源を探るNo3

6月21日(日)

 

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―声がある。対話がある。可能性がある。―

 

存在が見えない、よくわからない相手と、いつまでお付き合いしたら良いのか、
さっぱりわからない状況の中に私たちは生きてきました。
そのような相手と和平交渉を試みるなどは思いもよらなかったからです。
解決可能性がないことで精神的に追い詰められてくると、
ストレスフルな状況がますます増強されてしまい、
私たちの免疫力は危機的な程度までに消耗してしまいかねません。

 

ウイルスが生物であり意思もあり、歌さえも歌っているなどと荒唐無稽なことを述べたので怪訝に思われた皆様も少なくないことでしょう。

ウイルス粒子が存在する限り電磁波の音が生じます。もっとも、その振動数は私たちの可聴域とされる20から20.000ヘルツのバンドには入っていません。

したがって、それはふつうの歌ではないし、ふつうの歌を聴くつもりで聴こうとしてもその歌を聴くことはできません。しかし、それでもウイルスは歌っているのです。何者かが歌っている限り、聞く耳を持てば必ず聞き取る方法が見出せるはずです。

 

なぜウイルスが歌っているといえるのか?ウイルスが生物であるとするならば、意志を持ち、意志を持てば何らかの活動を続け、その何らかの生命活動に際しては、必ず音が発生するからです。

 

話を混ぜ返すようですが、有機物だけでなく無機物ですら歌っています。塩分濃度が海水の4倍程あって、一切の魚が棲めない死海でさえ、湖のほとりに立てば、風の音や湖畔のさざ波の音を聞くことが出来るはずです。

 

ウイルスと徹底抗戦しても、かえって心身のエネルギーを消耗させてしまうだけであって、そのようなコンディションでは勝ち目はありません。

むしろウイルスとは出来る限り平和共存していく道筋を模索していくことが賢明な生き残り方ではないかと思います。

ウイルスの歌声を聴くというのは、ウイルスの振舞方を冷静に観察すると同時に、私たちが造物主の神からインスピレーションを受けた私たちの先輩たちから与えられる新たなエネルギーを再創造し、その作品を楽しみながら、今日まで生きていられることに感謝することが大切に思われます。

また、そうした生活習慣やリズムの中で新しいアイディアという音楽が授かるような気がします。