これからの「聖楽院」(くすし歌声・くすりの音色の原点)音楽する心の起源を探るNo2

6月14日(日)

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―声がある。対話がある。可能性がある。―

 

存在が見えない、よくわからない相手と、いつまでお付き合いしたら良いのか、
さっぱりわからない状況の中に私たちは生きています。
そのような相手と和平交渉を試みるなどは思いもよらないからです。
このようなストレスフルな状況が続く限り、
私たちの免疫力は益々消耗してしまいかねません。

 

ウイルスは有機物である核酸(DNAかRNA)と、通常この核酸を保護するカプシドという、やはり有機物である蛋白殻で覆われた粒子として存在します。しかし、ウイルスは無生物、あるいは生物と無生物の間であるとされます。

 

そもそも生物とは何か?一般的には、これまで栄養代謝・運動・生長・増殖などを生活現象と呼び、生活現象あるいは生命現象を営んでいるものとされてきました。しかし、今日では増殖を最も普遍的な生物の属性とみなしています。このような考え方に基づくならば、ウイルスはもっとも原初的な生物であると考えることは不可能ではありません。

 

ここで、ウイルスを最も原初的な生物であると考えるならば、そのウイルスが最も原初的な、たとえば本能のような意志を伴っていると仮定することも、あるいは可能かもしれません。
医師として科学者としてではなく、一人の生活者として、私はウイルスにも意思があるように感じています。

 

相手が意思をもつ存在であれば、その相手と交渉する可能性が残されています。
その相手がたとえ言葉を発しなくとも、対話できる余地が残されているからです。
またたとえ対話ができなくても、相手の独り言を聴くことはできます。
なぜならばその相手が言葉を発していなくとも歌っているはずだからです。

 

私は、生身の人間が歌う声音(こわね)には、薬のような働きがあることを経験してきました。そこから、くすし歌声・くすりの音色の原点を探究する試みを始めました。