4月15日(水)水曜日:ドイツ語旅行

ドイツ銀行物語

 

第1話:事始め

COVID-19対策にも熱心に取り組んでいるドイツ企業として、意外にも経営崩壊が取りざたされているドイツ銀行の常識サイトにたどり着きました。

ドイツ銀行(Deutsche Bank AG)の公式サイト

は起業精神を英文でスマートに紹介している他、信頼のイメージを提供しています。

 

この銀行はフランクフルト・アム・マインのメガバンクです。国内大手同様、戦前から監査役を複数の投資先等で兼任させています。

現在はカール・フォン・ロール会長(Karl von Rohr)と、ドイツ銀行生え抜きのクリスティアン・ゼーヴィング社長(Christian Sewing)です。

 

しかし、素人目にはいかにも謹厳実直な金融企業としての印象を与えているこの銀行が、なぜ破綻の憂き目にあっているのかが不思議なので、横道に逸れて少しだけ調査してみることにしました。

すると、ドイツ銀行の歴史は、そのままドイツの歴史の反映であるばかりではなく、そこには国際社会における虚々実々の駆け引きの歴史が展開されていました。

それは極めて狡猾であり、不誠実の極みでさえあることが判明しました。

それと引き換えに、日本の経済人が、自社の発展ばかりでなく、日本の国益や国際経済に対してどれほど誠実に努力してきたのか、わが国の検察官僚がいかに外国の巨悪と勇敢に戦っていたのか、ということまで少しずつ見えてきました。 

 

ドイツのメルケル首相は、この銀行を救済しない旨の意見を表明していました。

今後はどうなるのかわかりません。しかし、もし、ドイツがこの銀行を救済するとしたら、例外的な扱いとなり、これまでドイツを中心とするEU諸国がイタリアやギリシャの銀行に対してとってきた厳しい姿勢に反することになります。

コロナ騒ぎで各国の国境が封鎖されている中にあってEU統合の精神はたちまち崩壊し、相互不信に陥ることになるでしょう。

中国やロシアにとっては、願ったり叶ったり、ということになるでしょう。

 

それではドイツ銀行に関する内外の情報をもとに、独自に企業史として時系列的にまとめてみましたのでご覧ください。

 

 

第2話:ドイツ銀行の19世紀史

ドイツ銀行は中央銀行と誤解されやすいが、ドイツの中央銀行はドイツ連邦銀行です。

ドイツ銀行はニューヨーク証券取引所とフランクフルト証券取引所に上場している市中銀行であり、ドイツ株価指数 (DAX) の採用銘柄でもあります。

 

1870年(明治3年)1月22日、中央集権化されたドイツの資本の海外進出を促進するため、外国貿易に特化した銀行としてベルリンで創業しました。

 

1872年(明治5年)、創業2年後には、早くも初の海外支店を日本の横浜と清国の上海に出しました。

このときの人材は、普仏戦争でパリ割引銀行中国支店から解雇された職員を用いました。(註:清朝末期には、パリの銀行がすでに中国の上海に支店を出していたということです。ロンドンのような欧州の一大金融都市よりも早く、極東に支店を置いたのは、植民地支配構想との関係があるのではないでしょうか?)

 

1873年にロンドン支店も開設しました。

 

1875年、東アジア取引は思ったほどうまくゆかず経営を圧迫し、横浜支店も上海支店も3年で閉鎖し、以後は国内の産業に投資するユニバーサルバンク(銀証非分離)への道を選びました。(註:東アジア取引、とくに中国人との取引の難しさのゆえに、大英帝国は阿片を用いたことが想起されます。)

大不況 (1873年-1896年) 期に国内最大の銀行へ成長しました。

 

1890年アリアンツ(Allianz SE)の創業に参加しました。戦後から日本公共外債引受け大手の一つでした。

アリアンツは、フランクフルト証券取引所上場企業であり、ミュンヘン再保険と双子の関係にある保険会社で、資産運用会社などを傘下に持つ世界有数の金融グループです。

 

まとめ:

ドイツ銀行は創業期から東アジア(中国・日本)に関心がありました。それが戦後に再び深いかかわりをもつようになることを予言しているかのようです。