診察室から:5月1日(火)

前新潟県知事、米山隆一君に告ぐ!

 

神に懺悔し、真の友を求めよ、そうすれば君は必ず蘇り、使命を果たせるであろう。

 

 

大型連休の中日は、通常通り午前7時からの診療で始まり、

 

診療受付終了は30分延長して午後7時とし、7時半過ぎには終了できました。

 

 

朝早くから新患が続いて来院されました。

 

せっかくの連休なのにお気の毒に思いました。

 

しかし、あなた方はゆっくり休み、養生できればかえって幸いです。

 

 

連休というのは、よほど工夫をしない限り、あっけなく終わってしまうもののようです。

 

私の過ごし方といえば、移動(最も多いのは老母の居る郷里の水戸へ電車かバスでの移動です)と読書と音楽(コンサート出演もしくは鑑賞など)と相場が決まっています。

 

運動については水氣道以外まったくしません。目的もなく散歩するまでの境地には到達できていないようです。

 

 

移動の間は主に読書です。

 

私は妻と二人の娘たちという3人の身内の女性に恵まれているので有難い限りです。

 

しかし、スマホとマイカーを持たない主義なので空き時間活用のための書物は必携品です。

 

今話題の新潟県前知事の米山隆一氏の惨状を知るにつけても、私の家族環境と生活方針は私の名誉のため一定の安全弁になってきたことは間違いなさそうです。

 

必需品の書物といえば図書館に出向いて借りるのではなく、もっぱら書店で購入します。

 

最近では、土曜日の水氣道の稽古の後、新宿の紀伊国屋に立ち寄ることが増えてきました。

 

私は書き込みをせずに精読できない性質であり、書籍は消耗品だと考えています。

 

最近では語学の本か歴史関係の本、あるいは音楽関係の本に惹かれることが多いです。

 

専門の医学書は別ルートで入手しています。読書と言えるかどうかは微妙ですが、国内新聞2紙と時間があればJapanTimesとおまけのNewYorkTimes(国際版)を読む程度。

 

週刊誌は、毎週金曜朝ミサ後に立ち寄る喫茶室<あろうむ>で読む程度です。

 

財務省の福田や新潟県の米山の両君の下世話な情報はここで仕入れました。

 

 

残念なことは、福田・米山事件の後、読書はするが、一向に何かを執筆しようという意欲が湧いてこないことです。

 

何かの執筆に取り掛かろうとすると、他のことが疎かになりそうな気がするからです。一種の虚脱状態のようです。これは連休中に解消できることでしょう。

 

 

先日都内で開催された医学会は、参加が便利なようでいて中身が薄くなりがちでした。

 

なぜなら、極力休診にせず診療の合間で参加することを試みてしまったからです。

 

それに比べて、外国での学会や、国内でも遠方の学会は充実しました。

 

なぜなら、診療に従事しなければならない拘束時間が無いからです。

 

良い意味で夢中になれる、ありがたい機会でした。

 

このように振り返ってみると診療を犠牲にして各種学会に参加することは必ずしも臨床を軽視することにはなりませんでした。

 

むしろ、診療から解放されているから、学会発表内容を普段の診療への応用をじっくりと吟味して検討する心の余裕が生まれて来たのです。

 

 

さて前掲の鬼才、米山隆一氏は東京大学大学院医学系研究科を単位取得退学し、(医学)博士号取得はハーバード大学附属マサチューセッツ総合病院を経るなど3年後のことと知りました。

 

それに対して自分自身をふり返ってみると、まさに奇跡の連続でした。

 

一人開業医として、水氣道も声楽も普段通りに稽古を続けながら、留学経験もなく、よく年限内に博士号を取得できたものだと、改めて驚いています。

 

当時は想定外の様々な困難が待ち受けていましたが、諦めずに粘り強く辛抱し一心不乱に究めようとしていると、その都度ギリギリのところで私の見方になってくれる師や友が必ず現れたものでした。

 

彼らはいわば天使であって、神の使いのようでした。それに加えて、私の周りには常に家族や仕事仲間や多くの患者さんがいたことが幸いしました。

 

今後も心不乱に集中できる、そんな時間を是非持ちたいものです。ただし、そのためには、唯一の神と人生における真の家族に恵まれていなければ、ますます難しくなるような気がします。

 

米山君も神と真の友に恵まれさえすれば、必ず復活できるのではないでしょうか。

 

人の才能とはすべからく神から与えられたものと悟るならば、自分の才能も他者の才能も神からの賜物です。各人の貴重な賜物を各人が相互に尊重するならば、今回の様な残念なスキャンダルは起こり得ないはずでした。

 

私は、稀有の能力をもつ彼と、今後彼を支える彼の真の友と、彼によって救われるべき人々のために祈りたいと思います。