中欧研修レポート:第4日目

日本日時3月18日11:00pm

(現地Wien 日時:3月18日3:00pm)

 

 

絶えず日本時間を確認しながら行動しないと、帰国後の時差障害で苦しむことになります。

 

日本時間3月18日4:00am(現地Wien時間:3月17日8:00pm)

 

私の声楽の先生の一人であるテノール歌手Pablo Cameselle氏のコンサートを聴くためにコンツェルトハウスのシューベルト音楽堂に向かいました。

 

コンツェルトハウスといえば、ウィーン交響楽団の本拠地であり、楽友協会と並ぶウィーンの2大コンサートホールとして有名です。

 

Wien滞在中の私は、これまで国立歌劇場か国民歌劇場(フォルクスオーパー)(シュターツオーパー)のみだったのが、昨年は楽友協会(ムジークフェライン)のチケットをプレゼントされて初めて聴くことができたのを思い出します。

 

 

以下が広告のポスターです。

 

Latin Classic Ein unvergesslicher Abend mit Latino Flair im Wiener Konzerthaus Werke von berühmten spanischen und südamerikanischen Komponisten sowie Amiris bekannte Kompositionen Tangos, Gitarresolos sowie stimmgewaltige Künstler bereichern das Programm. Pablo Cameselle Tenor, Gonzalo Manrique Gitarre, Pablo Rojas Klavier ton. pendium Ensemble Wien, Carlos Pino-Quintana Dirigent Sa. 17. März 2018, Beginn 20:00 Uhr, Schubertsaal

 

 

ラテンクラシック

ウィーン・コンツェルトハウスで忘れられないラテンの雰囲気に包まれた夜を

有名なスペインと南米の作曲家やAmirisの作曲による作品

タンゴ、ギターソロ、ボーカルアーティストがプログラムを充実させます。

 

Pablo Cameselle Tenor、Gonzalo Manriqueギター、Pablo Rojasピアノ。

pendium Ensemble Wien、Carlos Pino-Quintana指揮者

2018年3月17日土曜日、開演20:00、シューベルトホール

 

 

チケットは、予定通り、本番30分前にPablo先生から受けとり、そこで、ピアニストYuri Pranzlさんを紹介していただきました。

 

彼女と隣同士の席をアレンジしていてくれました。Yuri(由里)さんは名古屋出身で桐朋音大をご卒業の後、ウィーン国立音楽大学に留学、現在も市内に御在住です。

 

昨年、Pablo先生からいただいたタンゴCDのジャケットで彼女の写真の見覚えがあるため、初顔合わせという気がしませんでした。

 

 

コンツェルトハウスには複数のホールがあり、シューベルトホールは300人収容ですが、とても立派なホールで、雨交じりの雪と寒風の夜であるにもかかわらずほぼ満席でした。

 

演奏後の聴衆が起立して拍手するスタンディング・オヴェ―ションというものを初めて体験しました。

 

演奏後、Yuriさんに誘われて、楽屋のPabloさんに挨拶にいきました。

 

Yuriさんにトスティ50番を小倉百人一首のイタリア語で歌うお話と、水氣道の紹介を簡単にしたところ、興味を持っていただくことができました。

 

そこで、さっそくYuriさんの御自宅に伺って伴奏していただくことになりました。

 

 

タンゴは19世紀後半にアルゼンチンの都、ブエノスアイレスで起こった4分の2拍子系の舞曲、つまりダンス音楽です。

 

Pablo先生たちの演奏は、タンゴ本来の荒々しい踊りを思わせる激しい音楽ではなく、メリハリが効いてはいても、クラシック音楽に対する耳が肥えているウィーンの聴衆を満足させるような、とても洗練された調和のある音楽でした。

 

 

Pabloの声は高音も無理なく良く通るだけでなく、フレーズを長く支えることができ、デミュネンドも繊細で表現豊かです。

 

昨年「技術によって豊かな感情表現が可能になるのであって、その逆ではない。」ということを教えてくれました。

 

逆に言えば「最初に技術ありき。感情移入して技術をないがしろにしてしまうと、まっとうな表現ができない。」というアドヴァイスを思い出します。

 

 

ホテルに戻り、次の予定に備えて仮眠を摂りました。

 

 

Wien時間で6:30am(日本時間で2:30pm)に日曜日の朝食を摂り、7:30am(日本時間で3:30pm)に臨床心理士のHarald Mori先生が、約束通りにホテルまで迎えにきてくれました。

 

彼とはすでにファーストネーム(ハラルド、マサヒロ)で呼び合う仲です。

 

 

ウィーン郊外のヴァッハウ(Bachau)渓谷への半日ドライブでした。

 

互いのコミュニケーションはドイツ語交じりの英語でいきました。

 

テーマは互いに共通する仕事のこと、研修や研究のことが中心でしたが、ハラルドの旅行ガイドが間に入って、実にヴァリエーション豊かでした。

 

また、ドライブの後、昨日初めて知己を得たYuriさんからハラルドと共にお茶の御招待を受けることになりました。

 

 

ハラルドは臨床心理士として市内の自宅で開業の傍ら、ウィーン大学の医学部やヴィクトール・フランクル研究所で、医学生や心理学専攻の学生を教育しています。

 

フランクルは自らがナチスの収容所に送られた経験のある著名なユダヤ人医師ですが、ハラルドはフランクルの最後の弟子です。

 

そのハラルドは、来年3月には、日程をすり合わせてくれるということなので私も授業に参加することになりました。

 

また、昨年彼からいただいたドイツ語の原書を英語に翻訳し、さらに日本語訳にすることの打ち合わせもドライブ中に済ませました。

 

彼は、フランクルの実存心理学の専門家ですが、授業の内容は、そもそもの心理学発達史から解きほぐすことからはじめるのを常とし、学問や時代背景を踏まえながらフランクルの医学について講義するのだそうです。

 

特に臨床家は、自分が専門とする技法に目の前の患者が乗ってくるかどうかという従来の視点だけでは、多くの患者を救えないので、心理学の全体像を、歴史的な発達背景を含めておさえておく必要があるという彼の主張には、深く共鳴できました。

 

 

さてヴァッハウ渓谷に話を戻します。

 

この渓谷は、ドナウ河流域で最も美しいことで有名であり、2000年に世界遺産に登録されています。

 

曇天で雪が残っていたため、水墨画のようでもあり本来の『美しく青きドナウ』のイメージとは異なりますが、日本でいえば最上川を想起させる風景でした。

 

このあたりは古来より交通の要衝であったためか、いくつもの古城や修道院が見られます。

 

先日からの小雪は、寺院や古い建築物の輪郭を浮き立たせ、また岸辺の斜面に延々と続くブドウの段々畑の構造を明確にするのに役立っていました。

 

 

最初に下車したのはドナウ川左岸のクレムス(Krems)。

 

バッハウ渓谷の東端に位置しているので、ウィーンから車を走らせると、入り口に当たります。

 

町の南を西から東へドナウ河が流れ、北方に連なる河岸の丘陵は、南面のほとんどをブドウ畑で占められているように見えました。

 

ドナウ河遊覧船の乗り場があり、観光シーズンには、歩行者天国などでは訪問者で溢れかえるそうですが、この季節はオフシーズンでもあり、遊覧船の発着もなく昨日来の雪が残る岸辺は閑散としていました。

 

しかし、平たい大型の船舶が河を行き来している様子は十分楽しむことができました。

 

 

そこから橋を渡って右岸に沿って車を走らせると、その丘陵は北側に面しているためブドウ畑はなく、ドナウ河の両岸は別の世界のようにも感じられました。

 

しばらくして山上のメルク修道院(Stift Melk)が迫ってきました。

 

そこで二回目の下車をして、メルク修道院と付属教会を訪れました。

 

ハラルドによるとメルク修道院は、オーストリア第一の修道院とのことでした。この修道院の由緒は、11世紀、ベーベンベルク家のレオポルド1世が建てたベネディクト会修道院です。

 

18世紀に改築され、オーストリア・バロックの至宝の名に相応しい華麗な姿を今に残しています。

 

日曜日の礼拝に預かる人々が聖堂から降りて来るので、互いの目が合うたびにGrüß Gott(グリュース・ゴット)と自然に挨拶しました。

 

それがドイツ南部からオーストアに広がるカトリックドイツ語圏の素晴らしいところです。

 

「こんにちは」に相当しますが、元来の意味は、「神に挨拶」あるいは貴方に神様の御加護がありますように」という祝福の言葉です。

 

わたしは、この挨拶で癒されるので、とても気に言っています。

 

さてこの修道院は、マリー・アントワネットがフランスのルイ16世の元へ嫁ぐ途中で、この修道院で一泊したのが1770年とされますから、きっとこの修道院が改築されたばかりの頃だったのではないかと考えてみたりもしました。

 

 

そこから再度橋をわたって左岸に戻り、ドナウ河の流れに沿うてウィーンに戻る途中でシュピッツ(Spitz)を経てデュルシュタイン(Dürstein)で最後の下車をしました。

 

ドナウ河を背にして、山稜を見渡すと、急峻な山上には、いかにも廃城と見て取れるみケーンリンガー城が聳えていました。

 

この廃城にまつわる歴史のキーワードについて、ハラルドが繰り返し教えてくれたので覚えているのが、イギリスのリチャード獅子心王の名です。

 

後で調べてみると、これが実に興味深い話でした。英王リチャードは第3回十字軍遠征から帰還するにあたって、オーストリア公レオポルド5世の怒りに触れ、1192~1193年に、この城に幽閉されていたようです。

 

この十字軍参加の折、敵の返り血を浴びて全身赤く染まったが、ベルトの部分だけは白く残ったという伝説が、上から赤・白・赤のオーストリアの国旗のデザインになったとのこと。

 

この経緯から、第3次十字軍が終わった後にイングランド本国に帰還しようとしていたリチャード1世を逮捕し、その身柄を聖ローマ皇帝であったハインリヒ6世に引き渡した。

 

そして、莫大な身代金を受け取ることでリチャード1世を釈放しています。

 

しかしサラーフッディーン(サラディン)と並び「獅子心王」とまで称される英雄リチャード1世を逮捕したことは、ローマ教皇ケレスティヌス3世の怒りを買うことになり、レオポルト5世は破門されてしまいました。

 

そして1194年、落馬事故が原因であっけなく死去しました。

 

 

落馬が原因で死去ということで思い起こすのが源頼朝。

 

獅子心王リチャードがケーンリンガー城に幽閉された1192年は、ちょうど日本では頼朝が鎌倉に幕府を開いた年に相当します。

 

イングランド王リチャード一世(1157~1199)は、ヘンリー二世の三男で、が獅子心王と呼ばれ敬愛されたのは、彼が勇敢・寛大で、中世騎士の典型とされたためのようです。

 

しかし、彼は第3回十軍に出征して帰国後、フィリップ2世(フランス王)と交戦して戦死しました。

 

計算してみるとデュルシュタインの幽閉を解かれて英国に帰国後6年目のことです。

 

 

修道院教会(Stift Dürstein)に立ち寄りましたが、修道院関係者以外は3月一杯まで閉鎖されているようで、聖堂内に立ち入ることはできませんでした。

 

その代り、近くの小さな落ち着いた雰囲気のレストランでアメリカンコーヒーとウィンナーソーセージのみの軽い昼食を楽しみました。

 

 

ウィーンに戻ると、ハラルドと共に招待されていた由里さんの御自宅を訪問しました。

 

そこでコーヒーとチョコレートでお茶の時間を楽しい会話でしばらく過ごしてから、由里さんにピアノ伴奏をお願いし、ハラルドを唯一の聴き手として、トスティ50番作品1から7(イタリア語訳詞)、コンコーネ50番作品50(日本語原詞)を歌いました。

 

ハラルドの所望もあり、都合8曲を歌うことになったのですが、その後の会話も弾みました。

 

 

Yuriさん邸を出ると、音楽館(Haus des Musik)の隣に位置するウィーン国立音楽大学第1区の校舎まで、ハラルドに送ってもらいました。

 

ここで4:45pm(日本時間0:45am)からPablo先生の個人レッスンを受けるためです。

 

日本では日付が変わり19日月曜日になるので、本日の報告はここまでとします。