診察室から:<病気が治らない人の6タイプ>

先週の日曜日に都内で開催された研究会で面白い話題を仕入れてきたので、ご紹介いたします。

 

その話題の一部は、「難病ドットコム」より

http://jpma-nanbyou.com/index.aspx

 

解説を引用したお話でした。

 

 

病気が治らない人には大昔から現代に至るまで変わらぬ共通点があるようです。

 

古代中国には、扁鵲(へんじゃく)という、半ば伝説的な名医がいました。

 

古代中国の医学は、中医学であり、それが日本で発展したのが漢方医学です。

 

その扁鵲先生の唱える<六不治>という学説は、とても説得力があります。

 

 

<六不治>説とは、簡単に言ってしまえば、病気が治らない人の6タイプであると、まずは説明しておきましょう。

 

有力な別の解釈(鶯谷書院:http://oukokushoin.blogspot.jp/2015/12/blog-post_14.html)もあり、これも興味深いです。

 

 

<六不治>の出典は司馬遷が著わした『史記』扁鵲倉公列伝の扁鵲の段です。

 

以下の6つのタイプのうち、一つでもあてはまる場合は、病気は治らないか、あるいは治すことができても、治療は非常に困難である、と解釈するのが一般的なようです。

 

以下、私の解釈も加えてご紹介いたします。

 

 

〇 病気が治らない人(タイプ1)『驕恣理を論ぜざるは、一の不治なり』 

 

<患者がわがまま>(医師の言うことを聞かない)

 

驕恣(きょうし)といって、おごりがひどく、欲ばりな性格の人で、物事の道理に従わない人です。

 

医師が患者のためを思い、有効な治療法を提案しているのにもかかわらず、あれこれ勝手な言い訳をして、問題解決の手続きを先延ばしにしているタイプです。

 

我儘勝手に生きて「理」を論じようとしないもの。

自己診断して、『・・・の薬を出して欲しい』という人。

 

あるいは検査が必要な根拠となる情報を医師に伝えることなく、

のっけから『・・・の検査をして欲しい』という人。

 

つまり、医師の専門的能力より、自分の思い込みや願望などを尊重する人です。

 

 

〇 病気が治らない人(タイプ2)『身を軽んじ財を重んずるは、二の不治なり』 

 

<身体を軽んじお金を大切にする>(医療費をけちること)

 

財(診療費)を出し惜しみして、結果的に身(健康)を軽んじてしまう人。

 

つまり、必要経費を無理に節約しようとして、その結果、自分の寿命を大幅に節約してしまう人。

 

検査や治療の意義や価値を値踏みしたり、いちいち否定してかかったりする疑い深い人も同系統の人です。

 

このタイプの人の中には、あやしげなサプリメントには惜しみなく大金を支払っている人がいて理解に苦しみます。タイプ1に重なるケースも少なくありません。

 

 

 病気が治らない人(タイプ3)『衣食適する能わざるは、三の不治なり』 

 

<衣食が病気にふさわしくない>(季節に合わない服や食べ過ぎたりすること)

 

衣食住を適切にしない、できない状態。慢性的な生活習慣病に多いタイプ。

 

衣食住にお金を掛けている割には、自分自身の健康に投資しようとしない人。

 

また、逆にそもそも衣食住を切り詰めなければ生活が成り立たない人もこのタイプです。

 

経済的に困窮していても、生活保護を受給できない事情の方もあり、心が痛みます。

 

 

 病気が治らない人(タイプ4)『陰陽并背、臓気定まらざるは、四の不治なり』

 

<陰陽の調和がくずれて臓気が定まらない>陰陽が臓腑で合併し、定まらないこと。

 

陰陽が五臓にとどこおり、気が安定しない状態。少しややこしいのですが、気が滞ることを気滞(きたい)と言いますが、滞ることは鬱に等しく、気鬱(きうつ)の病の人は、血や水などの体液も鬱滞します。

 

漢方医学では、それぞれ瘀血(おけつ)、水毒(すいたい)といいます。

 

「陰陽があわさり」とは、「陰陽」ともに盛んなものと、「傷寒」によって陰陽の両者が侵されるような場合を指し、「臓気が定まらない」とは、いわゆる五臓六腑の元気のバランスが崩れている、もしくは元気が失われていることを指す、と解説する専門家もいます。

 

しかし、もっと簡単に言ってしまえば、自分のための養生の方向性が定まらない人です。

 

転々と病院や医師を替えたり、ああでもない、こうでもない、と勝手な思いや情報に振り回されたりして、一定の治療指針にしたがって、根気強く養生できない人です。

 

このような人は身体とともに精神も病むのですが、いずれか一方の側面ばかりにとらわれるため、悪循環から解放されずに混乱を招いてしまいます。

 

 

 病気が治らない人(タイプ5)『形つかれて服薬能わざるは、五の不治なり』

 

<体が衰弱して薬をのむことができない>身体がやせ衰えていて、薬を飲むことさえできない状態です。

 

脱水状態や栄養失調症の患者さんに飲み薬を処方する時には慎重を要します。

 

昔は、注射という方法が無かったので已むを得なかったのではないでしょうか。

 

ただし、現代でも特に胃腸の調子が悪く、全く機能していないのにもかかわらず、むやみに薬を飲んだら死んでしまうかもしれない患者さんがいます。

 

今年は、とくに食欲不振や急性胃腸炎を合併するインフルエンザが流行したため、ビタミン類添加のブドウ糖注射で最低限度の栄養補給をすることで、胃腸機能の回復を図ったうえで、飲み薬を処方して無事を得たケースが続きました。

 

そうした患者さんの全員が、インフルエンザワクチンを未接種でした。

 

「インフルエンザに罹ったことが無いし、罹ることはないと思った。」とか、「インフルエンザワクチンは効かない。」とかの思い込みに支配されている人が多数を占めていました。

 

このタイプは、他の5つタイプを複数兼ねていました。

 

 

〇病気が治らない人(タイプ6)『巫を信じ医を信ぜざるは、六の不治なり』 

 

<宗教を信じ医学を信じない>巫女を信じて医者を信じないこと。

 

占いや祈祷の類を熱心に信じて、医者の治療や言うことを聞けないような場合を指します。

 

つまり、根拠なく信じたいものだけを信じて安心したがる依存性の強い人です。

 

根拠のない不安におびえるのと、根拠に基づいて安心して過ごすのとでは、どちらが望ましいでしょうか。

 

そうした問いかけで覚醒する人もいますが、その人にとっての気づきのタイミングに合致しないとなかなか心に響かないようです。

 

 

ただし、これには前述したとおり異説があります。

 

治らない患者の6タイプではなく、<医師が治したくなくなる6タイプ>、

 

つまり、<医師が積極的な治療をためらう患者の6タイプ>をいうとするものです。

 

これもなかなか説得力があります。

 

 

 

「不治」に対して誤解されているので、一言。 

 

「不治」は、「治らない」と訳されることが多いのですが、「治らない」のは「不已」「不愈」とあらわします。「不治」というのは、「治療を加えない」という意味です。

 

 

「六不治」とは治らないケースではなく、扁鵲が治療したくないケースです。

 

 

たとえば第一の不治は「驕恣にして、理を論(さと)らず」といい、おごり高ぶって、自分勝手で、道理を理解しないような人です。

 

実際、こんな人でも病気は治りますから、やはり治らない理由ではなくて、手を出したくない理由なのです。

 

 

「君有疾、在腠理、不治將深」

 

 扁鵲が斉国の桓侯に対して言ったことばです。

 

貴方には病気があります。病気は腠理にあります。

 

治療しなければ、病気は深く隠れてしまうだろう(将に深(かく)るらん)。

 

実際には桓侯の治療はしていませんので、「治らなければ」とは読めません。

 

 

『内経』にも「死不治」という句が出てきますが、「死が近い、なので治療しません」という意味です。

 

「死が近い、治りません」という意味ではありません。

 

そして、以下のようにまとめています。

 

 

扁鵲先生が治療を断る6つのケースをみておきましょう。

 

驕恣不論於理(おごりたかぶって、自分勝手で、道理を理解しようとしない人。)

 

輕身重財(身体よりも、金銭を大事にする人。)

 

衣食不能適(衣の適度さをコントロールできない人、食の適度を守れない人。)

 

陰陽并、藏氣不定(陰気と陽気が交戦し、蔵気が不安定なとき。陰陽并は『霊枢』玉版篇によれば悪性腫瘍ができている状態。)

 

形羸不能服藥(身体がやせ、薬も飲み込めない状況のとき。)

 

信巫不信醫(お祓いを信じ、医者を信じない人。)

 

有此一者則重難治也(このうち一つでもあれば、私には重荷。加療しがたい。)

 

私は、率直なところ、この異説の解釈に、思わず頷きたくなる側面も発見しました。

 

しかし、以上の6タイプの患者さんを見捨ててしまった後に残る現代医療というものが具体的にイメージできません。

 

なぜならば、以上の6タイプの患者さんを見捨てることなく、可能な限り、逃げず、避けず、誤魔化さず、30年近く臨床をつづけてきた結果、患者さん達ばかりでなく私たち自身も人間的に成長し、人格を練磨することを経験してきたからです。

 

人間は患者であれ医者であれ、関係性の中で成長できる存在だと信じています。

 

 

ただし、そうした私たちでさえ匙(さじ)を投げざるを得ないケースがあります。

 

その第一は、病気のままでいたい人。その多くは、病気が治ってしまうと困る人です。

 

<疾病利得>といって、経済的な補償や、義務の免除などのため、残念ながら、このようなタイプの人が増えているのも事実です。

 

「病人のままでいたほうが、都合が良い、楽だ」と考えている人です。

 

このような人であっても苦痛や苦悩は取り除いて欲しいと願うものです。           

 

その間だけは、医者を頼りにしますが、苦痛や苦悩が軽快してくると、勝手に治療を中断してしまうようです。

 

表面的な自覚症状が消失したからといって、勝手に治療中断すると、水面下で病気が進行して手に負えなくなることがあるのを知っていて欲しいと願います。

 

 

その第二は、医療者の積極的な診療意欲を損ねてしまう人、

 

すなわち、社会的使命と人類愛の基づく医師の誠意が通じない人です。

 

とても残念なことですが、きちんと治ろうとしない患者さんは、きちんと治そうとしない医者との相性が良いように見受けられます。

 

そうして流行っているところがあるのも現実です。

 

望み通りの睡眠薬を大量に院内処方してくれる病院、ウイルス性の感染症であるにもかかわらず抗生物質もついでに処方してくれる病院、自ら喫煙者で、患者さんにも喫煙はストレス解消に役立つから適量なら良いと勧める医師、等等。

 

こうした事例は、不健康な人は不健康な飲食物をおいしく感じるのに似ています。

 

その逆は、『良薬口に苦し』です。未熟で傲慢な人は、甘い言葉や誘いにとても弱いものです。その反面、誠意のある他者からの忠告に耳を貸さないばかりか、怒りをあらわにすることがあります。

 

治りたくない患者さんにとっては、そこそこ、なあなあ、つまり、生かさぬよう、殺さぬようさじ加減してくれる医者が、いわゆる<使える医者>のようです。

 

治せなかったり、かえって病気をこじらせたりしてしまう医者ばかりでなく、治療に熱心な医者も<使えない医者>、ということになってしまいかねない模様です。

 

にわかに信じがたいことでしょうが、高円寺南診療所の30年間の臨床経験を踏まえたうえでの冷静な観察所見です。

 

 

いかがでしたでしょうか。皆様のご意見、ご感想を楽しみにしております。