外国人診療と外国語:10月25日<カタカナ文字考>

日本はかつてとても凄い文化国でした。

 

なぜなら、いささか逆説的ですが、戦後このかた、多くの国民が英語を全く使えなくても、あるいは使わなくても生活がなりたってきた国だったからです。

 

それには日本語の素晴らしさ、というか日本人の翻訳能力が秀でていたことも一因だと思います。

 

とくに幕末明治初期、西洋近代の学術思想を日本に取り入れるにあたって、翻訳は重要な役割を果たしてきました。

 

そのうち、特に目立っているのは西周(1829-1897)が考案した抽象概念を表す近代漢語でした。残念ながら大和言葉は抽象概念向きではありません。

 

 

西周は日本の近世から近代にかけて生きた啓蒙思想家です。

 

父は津和野藩医でしたが、西は藩校や大阪で儒学を学んだのち、江戸に出てオランダ語、英語を習得しました。

 

安政4年(1857)幕府の蕃書調所教授手伝並となり、文久2年(1862)から慶応元年(1865)までオランダへ留学したのち、

 

明治元年(1868)『万国公法』を訳刊し、3年兵部省出仕、かたわら明六社に参加し『明六雑誌』に論文を発表した人物です。

 

15年元老院議官、23年貴族院勅選議員。西洋哲学、論理学等の導入者として、多くの術語を考案しました。

 

このように、西の翻訳なくして、今日に至る日本の人文・社会・自然科学の近代化はありえなかったとさえ言えるのです。

 

 

それでは、今日の学術文化はどうかというと、それがとても危ういのです。

 

危ういという根拠の一つは、英語をはじめとする外国語から入ってくる新しい概念を翻訳できる知識人が、わが国において枯渇しているからです。

 

私個人の感想からすれば、カタカナ用語は要注意、といつも考えています。

 

たとえば、診療所と表記すれば良いところを、わざわざクリニックという名称を付けることについて、他者に対しては批判しませんが、私自身は好みません。

 

 

平成8年の規則改正によって、開業医にも解禁された標榜科目が4つあり、

 

それはアレルギー科、リウマチ科、心療内科、リハビリテーション科です。

 

これらの領域は平成時代の国民的医療ニーズを反映している領域であると受け止めることができます。

 

偶然ですが、現代病に取り組もうとしていた当時の高円寺南診療所の流れに合致したため、新しい標榜科目になりました。

 

 

ここで、お気づきでしょうが、4つの専門領域のうち、なんと3つまでがカタカナです。

 

 

例外的に漢字表記の心療内科は心理療法(ただし、心身医学療法が中核)を得意とする内科の専門分野であって、

 

物療内科(物理療法内科、東大のアレルギー・リウマチ科の前身)という呼称のパクリです。

 

これがまた、諸々の政治的な事情があって、多くの方に誤解を与える名称になりつつあるのは悲劇の一言に尽きます。

 

 

リハビリテーションは、本来は社会的復権の意味で用いられていました。

 

中国語では復康医学(簡体字から変換)と表記していてさすがに漢字の国です。

 

リハビリテーションセンターは復康医学中心と表記されています。

 

復康とは健康を回復して、その人らしさを取り戻す、つまり社会的存在としての個の復権に他なりません。

 

そして、健康とはWHOの定義にあるごとく身体的な側面ばかりに限られないはずです。

 

しかし、残念ながらカタカナのリハビリテーションは、リハビリなる極めて下品な(と私は感じています)略語とともに歪(いびつ)で自分勝手なイメージが形成されつつあるようです。

 

 

現在の日本で、もし西周のような漢籍にも英語にも精通しているような教養人が医学会に存在していたら、

 

アレルギーとかリウマチなどのカタカナでお茶を濁すような真似はしなくて済んだはずではないかと思われます。

 

 

カタカナ語は日本語に成りすました外国語もどきです。

 

今年は“イメージ操作”という言葉が流行しましたが、カタカナ語を多用する人は、騙しの天才です。

 

 

ときには、そんな言葉を発している張本人自身が誤解して使用していることがあります。

 

ドイツ語の名詞アルバイトArbeitは、仕事の意味はありますが、決してパートタイムの仕事を意味しません。

 

フランス語の動詞とらばーゆtraveillerは、仕事をするという意味はありますが、転職する、という意味はありません。

 

バブル経済とかリーマン・ショックとかマニフェストだとか、メルトダウンなどのカタカナを必要以上に多発して悦に入っている人々は、

 

責任を他に転化しているだけ、あるいは雲にまいているだけのようで何だか信用できません。

 

それと同じくらい信用できない人は<人は見た目が100%>などというタイトルの本をさも得意そうに出版する類の人です。

 

 

独り歩きしがちなイメージを都合よく操作して、しかも、いざとなったら、それを言い逃れや責任回避の口実とするペテン師・詐欺師が増えているのは嘆かわしい限りです。

 

 

私は共産党員ではありませんが、ある意味シンパです。

 

なぜかというと大衆受けしそうになさそうな日本共産党という党名を一貫として守り続け、一切変更しない不器用で愚直な姿勢には共感すら覚えるからです。

 

それに引き換え、左翼と呼ばれたくない人々の自称であるリベラルとかリベラリストとかのカタカナ表記を好む御仁には、世間様にどのように恰好よく映るかを気にするあまり、

 

自ら泥を被るようなことは避けようとします。私は、そこに何やら胡散臭いものを感じてしまうのです。