故郷(茨城)探訪

 

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常陸國住人 

飯嶋正広

 

常陸国飯嶋氏のルーツ探訪(その9)

 

応永26年(1419)から天正18年(1590)にかけての飯島氏

 

泰平で長続きしたとされる応永の約35年間も、常陸国においては必ずしも平穏な時代ではなかったようにみられます。その後の飯島氏にとっても、主家(本家?)の江戸氏とともに水戸の近隣の支配を拡げたものの、ごく限られた期間の表面的な繁栄に過ぎなかったのではないかと見られます。とまれ、応永年間の後も、応仁の乱が終焉した文明5年(1473)をその間に挟み、およそ170年に及ぶ領主として支配していた時の流れの有様については興味深いものを感じています。

 

飯島氏が、飯島(水戸市)から勝倉(旧:勝田市、新:常陸那珂市)に本拠を移した時期は、江戸氏3代通房が水戸城を奪った応永34年(1427)以降であろうと思われます。

それは、河和田城のある河和田に隣接して飯島があるように、勝倉城は那珂川を挟んで水戸城と指呼の距離にあります。

そして、飯島氏は江戸氏の重臣であるとされますが、一族であるという資料もあります。もちろん一族が臣下になることに矛盾はありません。

 

いずれにしても、主家の江戸氏の新領となった、河和田・鯉渕・赤尾関などの地名に並んで飯島が登場していないことに疑問を感じていました。しかし、そもそも飯島が河和田の一部であると認識されていたのではないかと考えると納得がいくように思われます。

そして、飯島氏の棟梁が飯島から勝倉(城の内、台城)に移った後も、飯島には砦(飯島砦)が築かれていて、七字氏(飯島の同族か?)が部将として支配していたようです。

 

現在に続く水戸市飯島町字薬師原の七字氏について、太田亮の「姓氏家系大辞典」によれば、「悉知」姓が改められたとあります。私自身の知人にはいませんが「悉知」「七字」両姓とも茨城に多いとされる苗字です。また<茨城県水戸市飯島町(旧:悉知)発祥。記録時代不詳の地名。伝承での比定地。伝承では室町時代に称する。

同地に江戸時代にあった。茨城県水戸市三湯町では草分けと伝える。>とあります。

 

さて、応永年間から時代が降り永禄年間(1558年から1570年までの期間)に飯島七郎という者が勝倉を領しており、永禄5年(1562)8月、相馬盛胤が多珂郡に侵攻してきたとき、勝倉台の館主飯島七郎は佐竹の軍師として戦ったという説があります。

 

「佐竹秘録」に記された義重の代の家臣名簿に軍師として「小田原伊勢、飯島七郎、神長将監、藤弥衛門、安次郎兵衛、同次三郎、岡民部少輔」がみえます。

「常陸遺文」所収の金上系図に、鎌倉時代の人に「飯島七郎頼明、勝倉藤山二居」とあるが、史料の信憑性に問題があるという指摘があります。その理由として、永禄のころ、勝倉の地が佐竹氏の支配下にあったとは思われないので、たしかなことは不明である、ということです。

 

しかし、この考察が妥当でないことは、永禄5年(1562)8月に、勝倉台の館主飯島七郎が佐竹の軍師として戦った説から、飯島七郎の本拠とする勝倉が佐竹氏の支配下でなくてはならないという先入観にまどわされたものであると考えます。

永禄年間、すなわち1558(永禄元年)から1570(永禄12年)については、勝倉は水戸城に本拠を置く累代の江戸家との密接なつながりがあるため、当然、佐竹領ではありません。

永禄元年(1558)および同5年(1562)の水戸城主は、いずれも江戸氏7代当主忠通(1564死去)、また永禄12年(1570)の水戸城主は江戸氏9代当主重通(1567家督相続)でした。

 

さらに、飯島七郎の先祖は江戸氏の一族であり、当時は江戸氏の譜代の重臣であるとしても、陸奥の相馬氏が常陸国を侵攻するという非常事態において、それを迎え撃つ佐竹氏に軍師として急遽加勢することは何ら不思議ではないと考えます。

その当時の江戸氏と佐竹氏の関係も複雑であり、互いに姻戚関係となったり、江戸氏が佐竹氏に臣従したり、あるいは佐竹領を脅かしたりするなど、謀略に満ちた駆け引きが繰り広げられているからです。

 

しかし、私がここで興味深く感じられるのは、「飯島七郎頼明」と名乗る人物が、鎌倉時代に既に勝倉に居していた可能性が残されていることです。鎌倉時代は1333年(元弘3年/正慶2年)に終焉を迎えますが、常陸国飯島氏の名の初出となる飯島七郎光忠・子息宗忠の「熊野山願文」(1391)と比べても極端に大きな年代的隔たりはありません。

つまり、飯島七郎という名乗りが鎌倉期から続いてきた名跡である可能性も若干残されているのではないかということです。また、これに比べて飯島の地名(現水戸市飯島町)は、旧くは悉知と呼ばれていたことから、飯島氏が悉知を支配することで、その地を飯島と命名した可能性も残されていることになります。

 

そこで再び「勝倉今昔多抄」に立ち戻ってみたいと思います。それは、巻末の年表(勝倉年代表)がよく整理されているからです。
 

抜粋ですが、室町時代の表の中から、飯島氏関連の記述を抜粋してみます。

「1392(元中9年)南北朝合一、1427(応永34年6月2日)大掾(21世)満幹は河和田城主江戸但馬守通房に敗れ水戸城を奪われる。<勝倉関係の記録>勝邑城主持幹その子幹行大敗し、録千貫を奉り江戸氏に降る。この戦で不二佐久(藤咲)要、鹿島二郎、福平(福田)信方等18名戦死。江戸氏の一族、飯島七郎城の内に台城を築き城主となる。1561(永禄5年)佐竹義昭相馬盛胤と孫沢原に戦いこれを破る。<勝倉関係の記録>台城主飯島氏、佐竹軍の軍師となり参戦。台城主飯島氏失脚、持幹四世の孫満幹その領地を併合する。」

 

天正十八年(1590)

水戸落城時討死江戸氏家臣(常陸誌料):飯島縫殿(いいじまぬいのすけ)

天正末期の江戸氏支城砦

 


天正(1573~1592)末期は(1590頃か?)

城砦:飯島、部将:七字勘解由、

典拠:江戸旧記

 

1572年                       

勝倉城主:飯島縫殿
水戸城主:江戸通政

 

1582年

勝倉城主:飯島縫殿

水戸城主:江戸重通

 

1590年

勝倉城主:飯島縫殿

水戸城主:江戸重通


<出典:「戦国大名事典」より>

 

1572年から1590年に至る勝倉城主が飯島縫殿であることを前提とするならば、飯島縫殿は同時に七郎を名乗っていた可能性はあるのかがよくわかりません。同一人物であるとすれば、江戸家臣で勝倉城主の飯島七郎縫殿は天正十八年十二月に佐竹義宣に滅ぼされたことになります。いずれにせよ、七郎は、飯島氏の通字であるとするのが妥当なのではないかと考えます。しかも、水戸城落城時の飯島縫殿と飯島砦の部将七字勘解由は同族である可能性が高いと考えています。

 

ただし、上記の表には誤りがあるようです。1572年(元亀3年)は、9代当主重通が城主であったと考えられます。その理由は、8代当主通政が1567年(翌永禄10年)に、享年30で死去しているからです。また、通政は、1570年(永禄13年/元亀元年)に14歳で元服し、1572年には16歳になっていたからです。なお「重」の字は佐竹義重から偏諱を受けたとされます。1590年(天正18年)12月19日に重通は佐竹義重の攻撃を受け、居城の水戸城を落とされて結城晴朝の下へ落ち延びました。 慶長3年(1598年)、享年43にて死去。

 

今回をもって、常陸国飯島氏のルーツ探訪のシリーズは、いったん終了といたします。

新たな資料が入手できましたら、更なる研究を進めていきたいと考えます。

以下は、参考資料です。

 

<歴代水戸城主江戸氏通史>

江戸 通景:江戸氏2代当主。

那珂通泰の子、通高は嘉慶二年(1388)には南朝方の難台城を攻略する軍功をあげています。しかし、通高はこの難台城攻めで戦死し、その賞として子の通景は鎌倉公方氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられた。江戸氏を名乗る。因みに、飯島は河和田、鯉渕、赤尾・関に囲まれる場所に位置する。

 

江戸 通房:江戸氏3代当主。

初めは河和田城(水戸市)を本拠としていたが、応永34年(1427)水戸城主・大掾満幹が青屋祭を行うために城を離れて常陸府中に向かった隙に水戸城を占拠して自らの居城とした。その後、子・通栄を額田小野崎氏の後継者に送り込み、周辺を子弟で固める一方、守護の佐竹義人と結んだ。義人の後を巡る佐竹義俊・実定兄弟の争いに対しては山入祐義と共に実定を支持し、享徳元年(1452)に実定が常陸太田城を占拠し義俊から佐竹氏の家督を奪うと、通房は実定の補佐役としてその政権を支える役目を果たす。享徳の乱では、関東管領上杉房顕に従って古河公方足利成氏と戦い、長禄3年(1459)には、室町幕府将軍である足利義政から幕府と主君・実定への忠節を賞賛されている。但し、11月には成氏派の小田持家に敗れている。

寛正6年(1465年)、死去。享年56。

 

江戸 通長:江戸氏4代当主。

江戸通房あるいは通房の子・通秀(修理亮)の嫡男として誕生。
寛正6年(1465)、家督相続。当時の常陸守護・佐竹氏では、先々代の佐竹義人が一旦家督を譲った嫡男・義俊を廃して弟・実定を守護にした事から内紛が生じていた。通長は実定を支持していたが、実定の死後に義俊が常陸太田城に復帰して、実定の嫡男・義定は水戸城の通長を頼った。ところが、義人の死後の文明9年(1477)に義俊方の刺客が水戸城を襲撃して義定を暗殺すると、通長はこれに驚いて義俊に降伏した。その後は佐竹氏傘下として文明13年(1481)には小鶴原の戦いで小田成治を破り、続いて鹿島郡に進出するなど、常陸南東部に勢力を広げた。ところが、延徳2年(1490)に山入義藤が佐竹氏に叛旗を翻すとこれに加担した。明応3年(1494)、病没。通長には子が無かったため、家督は弟・通雅が継いだ。

 

江戸 通雅:江戸氏5代当主。

寛正4年(1463)、誕生。父は江戸通房または江戸通秀あるいは江戸通長ともされる。文明18年(1486)、大山義成と共に徳宿城主・徳宿三郎を滅ぼす。延徳2年(1490)、山入の乱で山入義藤に呼応し水戸城周辺から那珂川にかけての佐竹氏の所領を奪うも、明応元年(1492)に義藤が死ぬと岩城氏の仲介で佐竹義舜と和睦、那珂川周辺の所領を義舜に返還。翌明応3年(1494)、父または兄である通長が没したため、家督相続。以後、佐竹義舜に従属して永正元年(1504)、義舜と共に山入氏義を攻め滅ぼした。永正7年(1510)12月2日、義舜から「一家同位」の家格を認められたが、直後の12月20日に死去。享年49。

 

江戸 通泰:江戸氏6代当主。

文明18年(1486)、江戸通雅の子として誕生。永正7年(1510)、父が没すると兄・通則も先だって死去していたため家督相続。
佐竹義舜に従属して常陸南部に勢力を広げる。永正の乱では義舜と共に足利高基を古河公方に擁立して小田氏などと戦った。大永4年(1524年)には大掾忠幹や鹿島氏重臣・松本政信(右馬)と結んで鹿島義幹を攻め下総国に追放、通泰の姪婿・通幹(大掾忠幹の実弟)を鹿島氏当主に送り込み 、鹿島郡進出を図った。天文元年(1532)、大洗の小幡義清を滅ぼし、その城を奪う。しかし、鹿島郡への進出は後に大掾氏と敵対したために、その野望を十分に果たす事は出来なかった。天文4年(1535年)、死去。享年50。

 

江戸 忠通:江戸氏7代当主。

永正5年(1508年)、江戸通泰の子として誕生。天文4年(1535年)に父・通泰が没したため家督相続。佐竹氏の所領を侵略するが伊達稙宗の斡旋で佐竹義篤と和睦。その後、内紛を収拾し勢力を拡大する佐竹義篤に従属。宇留野義元の起こした部垂の乱(享禄2年(1529年)から天文9年(1540)や天文11年(1542)からの伊達氏の洞の乱に出兵。天文14年(1545)、佐竹義篤が病死すると佐竹氏に反抗、義篤の後を継いだ佐竹義昭と争う。天文19年(1550)に戸村で勝利を収めたが、翌天文20年(1551年)に降伏に追い込まれた。
後に許されて小田氏治と大掾慶幹の仲裁を行い、また弘治2年(1556)に芳賀高定の要請を受け嫡男・通政や足利義氏、佐竹義昭らと共に、壬生綱雄に宇都宮城を追放された宇都宮広綱が宇都宮城に復帰する際、援軍として参加。
晩年は嫡男・通政の健康問題に悩まされる。鹿島神宮に鎧兜一式を奉納して健康回復を願うも好転せず、やむなく嫡孫・重通を後継者としたが、永禄7年(1564)重通が9歳の頃、死去した。享年57。

 

江戸通政:江戸氏8代当主。

天文7年(1538年)、江戸忠通の子として誕生。
弘治2年(1556)、芳賀高定の要請を受け父・忠通や足利義氏、佐竹義昭らと共に、壬生綱雄に宇都宮城を追放された宇都宮広綱が宇都宮城に復帰する際、援軍として参加。しかし、通政は生まれつきの病弱で、回復の見込みが無いため廃嫡して孫・重通を後継者とするが、永禄7年(1564)に父・忠通が急死し、重通も僅か9歳であったために重通の元服までという条件で通政が当主となった。
永禄9年(1566年)、上杉謙信と佐竹義重の意見が対立した際にその仲裁を行っているが、翌永禄10年(1567年)、死去。享年30。その治世は僅か3年であった。
江戸重通:江戸氏9代当主
弘治2年(1556年)、江戸通政の嫡男として誕生。
永禄10年(1567年)、父・通政が病死したため家督を相続。この頃になると北条氏政の関東における勢力拡大が常陸にまで及び、重通は佐竹義重に半従属の形で従って北条軍の侵攻に対抗していた。永禄13年/元亀元年(1570年)、元服。「重」の字は佐竹義重から偏諱を受けたと思われる。
天正3年(1575年)、江戸氏が保護していた真言宗の僧侶に絹衣の着用を許可。これは当時、朝廷が定めた僧侶の服装規定に反するものであったため、正親町天皇と織田信長が揃って問責の使者を出した。ところが、重通はこれを逆手に取って朝廷と信長に自分を売り込み、翌年8月4日には従五位下・但馬守に補任される事になった(絹衣相論)。

しかし、北条軍の攻勢は激しく、天正6年(1578年)に重通は後北条氏と降伏に近い形で和睦した。ところが、ここでも重通は抜け目無く佐竹氏・北条氏両方に自分を売り込んで大掾氏・鹿島氏の討伐の許しを得る。

天正15年(1587年)に鹿島郡を制圧し、翌天正16年(1588年)には佐竹義重の援軍を受け大掾清幹を降伏させた。

だが、こうした急激な拡大路線によって負担を強いられた神生氏など家臣団が離反し始めて家中は分裂、江戸氏は急速に衰退していく。

また、その後も江戸氏と大掾氏の対立は収まらなかったとみられ、天正18年(1590年)の小田原征伐に際して、大掾清幹は豊臣秀吉の命に応じて出陣する佐竹義宣に対して秀吉への詫言(謝罪)を依頼する書状を送っている。実は重通も同様の動きを見せており、近世以来言われてきた「江戸・大掾両氏は北条氏と結んで参陣しなかった」という説は事実ではなく、江戸氏・大掾氏ともに豊臣方について出陣する意向はあったものの、留守中、相手側による攻撃を互いに恐れて出陣できず、同盟国である佐竹義宣らに秀吉への執り成しを望んでいたのが実情であったと考えられている。
しかし、ここにおいて佐竹義宣はこれを常陸統一の好機と捉えて江戸氏・大掾氏らの執り成し要請を黙殺し、8月1日に秀吉から常陸全域54万石の安堵を受けた。

これにより、同年12月19日に重通は佐竹義重の攻撃を受け、居城の水戸城を落とされて結城晴朝の下へ落ち延びた。佐竹軍はそのまま南下して府中城を攻略し、大掾氏も滅ぼした。

慶長3年(1598年)、死去。享年43。

 

重通の子・水戸宣通は越前国の結城秀康に仕えた。