金曜日:イタリア語旅行、伊中(意中)関係に要注意(中伊)!No1

9月18日(金)
週間<外国語>旅行

 

欧州のコロナパンデミックの主要な入り口の一つは、中国政府の支配下に置かれていたイタリアのジェノバ港からだったのではないかと、私は疑っています。ジェノバからロンバルディア州の州都ミラノまでは至近の距離です。そのロンバルディア州は、パンデミックでとてつもなく大きな被害を受けました。

 

ジェノバといえばマルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)。彼が生きた13世紀半ばから14世紀の前半までは、日本では鎌倉時代に当たります。また当時の中国は元(モンゴル帝国)でした。彼は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』)を口述した冒険家でもあります。

 

黄金の国ジパング

 

マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、自らは渡航しなかったが 日本のことをジパング(Zipangu)の名でヨーロッパに初めて紹介しました。バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介しています。あたかも日本人が白人であるかのような記述は興味深いです。しかし、これは当時から、日本人は庶民に至るまで身体や身なりを清潔に保つ習慣を持つ民族であることが周辺諸国にも知られていたのではないのかと私は想像しています。ただし、1274年、1281年の元寇についても触れているが、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である京都まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もあります。

 

「黄金の国」伝説は、奥州平泉の中尊寺金色堂についての話や遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いに金が使われていたことによって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられます。また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられます。

 

日本では、偶像崇拝(仏教)が信仰されていることや、埋葬の風習などに触れているが、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から東南アジアおよびインドまでに及んでいます。また、これらはフリーセックス的な性風俗ともども十字軍遠征以来ヨーロッパ人が持っていた「富」および「グロテスク」という言葉で彩られるアジア観の典型をなぞったものと考えられます。

 

当時の日中貿易は杭州を拠点に行われていました。しかし1500海里という表現は泉州から九州北部までの距離と符合し、ここからマルコは日本の情報を泉州で得たと想像されます。「ジパング」の呼称も中国南部の「日本国」の発音「ji-pen-quo」が由来と思われる点がこれを裏付けます。この泉州は一方でインド航路の起点でもあり、マルコの日本情報はイスラム商人らから聞いたものである可能性が高いとされます。

 

このように、イタリアと中国の通商の歴史は古いのですが、そういえば、正倉院の御物のヴェネチアグラスは、シルクロードを渡ってきた舶来品で、旧い中国の史書には大秦国と呼ばれていたローマ帝国から伝来したものなのでしょうか。昔は絹の道、今は「一路一帯」、時の流を感じます。このように古来からの伊中関係ですが、近現代に至っても、両国は互いに意中の国同士のようです。

 

 

Il Giornale 紙より

 

Io, testimone dello sviluppo delle relazioni tra Italia e Cina
私は、イタリアと中国の関係の発展を目撃した

 

Quanti dettagli nei ricordi di un giovane diplomatico cinese degli anni ‘60
1960年代の中国の若き外交官の記憶の中に、どれだけの詳細があるのか

 

 

Cinquant’anni fa, la Repubblica Popolare Cinese e Italia istituirono e svilupparono relazioni basate sui principi di ugualianza, mutuo vantaggio e rispetto reciproco, apportando un contributo positivo alla società umana. Aver assistito all’istituzione e allo sviluppo di tali relazioni tra due Paesi culle di antiche civiltà è stata per me una grande fortuna.

 

50年前、中華人民共和国とイタリアは、平等、互恵、相互尊重の原則に基づいて関係を構築し、発展させ、人類社会に積極的に貢献してきました。古代文明の揺りかごである二国間の関係の構築と発展に立ち会えたことは、私にとって大きな幸運でした。

 

 

Il contesto internazionale

 

国際的な文脈

 

 

Alla fine della Seconda guerra mondiale, i popoli di tutti i Paesi intrapresero la difficile missione di ricostruire le proprie case, presero vita vigorosamente movimenti di liberazione nazionale, in Africa ci furono sollevamenti popolari seguiti da dichiarazioni d’indipendenza.

 

第二次世界大戦の終わりには、すべての国の人々が家を再建するという困難な使命に乗り出し、精力的に民族解放運動を開始し、アフリカでは民衆の反乱が起こり、それに続いて独立宣言が行われた。

 



Il popolo cinese conquistò la vittoria decisiva nella Guerra di Liberazione. Il primo ottobre 1949, il presidente Mao proclamò la fondazione della Repubblica Popolare Cinese. La nascita della Nuova Cina scioccò il mondo, ma in ogni parte del globo vari Paesi dichiararono l’uno dopo l’altro di riconoscere la Repubblica Popolare Cinese come l’unico governo legittimo del popolo cinese. Il 2 giugno 1946 era nata la Repubblica Italiana. Già negli anni Cinquanta politici italiani visionari e forze di sinistra lanciarono appelli per l’istituzione di legami diplomatici con la Nuova Cina, ma, per vari motivi, la normalizzazione delle relazioni tra i due Paesi non riusciva a materializzarsi. Dopo aver chiuso l’ambasciata a Nanjing, l’Italia non aveva più inviato personale diplomatico di alcun livello a Taiwan.

 

解放戦争で中共が決定的な勝利を収めた。1949年10月1日、毛沢東主席は中華人民共和国の建国を宣言した。新中国の誕生は世界に衝撃を与えたが、世界各地では、中華人民共和国を中華民族の唯一の正統な政府と認めると宣言した国が相次いだ。1946年6月2日、イタリア共和国が誕生した。すでに1950年代には、先見の明のあるイタリアの政治家や左翼勢力が新中国との国交樹立を訴えていたが、さまざまな理由で両国関係の正常化は実現しなかった。南京大使館を閉鎖した後、イタリアはどのレベルの外交官も台湾に派遣しなくなった。