スペイン語旅行、第75回敗戦記念日(聖母被昇天の祝日)記念シリーズNo1

8月15日(土)

本日は75年目の日本敗戦無念日(終戦記念日)です。

思えば勝者である五大国(米・ソ・中・英・仏)による勝者の歴史観と表裏一体をなしている枢軸国(独・伊・日)の自虐史観に「寄り添う」ことに疑問を感じはじめていた多感な高校生であった私は、大学受験の二次試験で文部省(当時)の価値観で汚染された社会科を選択せざるを得ない文科系への進学を回避し、理科系、最終的には医学部に進学することを決断しました。

しかも、一次試験の社会科の2科目は、受験の2週間になって、日本史・世界史から、倫理社会・政治経済に変更した記憶があります。そして、その判断と行動は正解であったと、今でも信じています。

 

そこで18歳当時の私を振り返って、当時漠然と抱いていた素朴な歴史的疑惑を御披露いたします。未熟な高校生の考えであるということに免じて、読みながしてください。

 

疑惑その1:

『第二次世界大戦は、自由と民主主義に根差した善なる連合国が全体主義で帝国主義ファシズムの悪なる枢軸国に勝利した戦い』と教えられました。しかし、ソ連や中国のような共産主義国家が、果たして民主的であって、全体主義・帝国主義でない国家と言えるでしょうか?

 

疑惑その2:

『英国は第一次世界大戦の戦勝によりポンド覇権国となり、米国は第二次世界大戦の戦勝によりドル覇権国となりました。』ただし、第二次世界大戦により、西は東ベルリンやポーランドから東は北朝鮮に至るまで共産圏が一挙に拡大したのであるから、自由主義国家の勝利というより、むしろ共産主義国家圏の大躍進を招いたと総括すべきだったのではないでしょうか?

 

疑惑その3:

『日本陸軍の石原莞爾中将が唱えた<大東亜共栄圏>の発想は、欧州列強からのアジアの解放策として、画期的で大胆かつとても秀逸な着想だったと考える』と発言したら、『飯嶋、おまえ、今頃そんな危険思想を引きずっていたら東大文一は到底受からん!万一、大蔵省(当時)や外務省に入れてもすぐに干されてしまうぞ!』というリベラルな教師からの慈愛に満ちた有難いアドバイスをいただき、今でも感謝しています。しかし、そこですかさず『日本史は日本人にとって必須科目とすべきです。しかし、それ以上に、受験科目の一つにすることの国家的弊害は大きいと考えます。ですから私はたった今、理系に進むことにしました。』と答えたら、絶句されてしまいました。

 

疑惑その4:

『中国共産党政権が英国による阿片戦争について一切批判しないのは何故なのでしょうか?』彼らの唱える人権や人道主義は、相対的なものに過ぎず、損得の駆け引きの際の方便に過ぎないのではないのでは?

 

疑惑その5:

『世界で唯一の被爆国である日本人や世界中の人々は、重大な国際法違反を犯した米国の国家的犯罪の犠牲者となった被爆者に対して、なぜここまで冷淡でいられるのでしょうか?国のために犠牲になった特攻隊員についても同様です。戦争を繰り返さなくとも、このままでは、臆病で卑怯者の遺伝子ばかりが増え、自己犠牲的で勇敢な英雄の遺伝子は減り続けていくことにはならないでしょうか?』

 

疑惑その6:

『腑抜けのフランスや卑怯な南北朝鮮までが戦勝国』というのには納得がいきません。棚ぼたに過ぎません。

 

疑惑その7:

『United Nationsを<国際連合>という明らかな誤訳がまかり通るのはなぜなのでしょうか。外務省の翻訳だとすれば、とても情けなく絶望的な気分になります。自国民をイメージ操作して誤解を与えるのは裏切り行為です。より妥当な訳は<連合国>、実質的には<戦勝者クラブ>ではないのでしょうか?その《国連憲章》のあからさまな敵国条項が削除されないまま、日本が多額の協力金を支払い続けることは屈辱的であり、是正されるべきです。このままでは将来に向かっての国益を大いに損なうのではないでしょうか。』

 

疑惑その8:

『憲法改正や核兵器保有の是非を論じる前に、敵国条項削除キャンペーンを推進することが筋ではないでしょうか。連合国に対する敵国の地位のままで憲法九条を改正しようとすることは、国際的にも不利であるばかりか、危険極まりない行動だと思われます。』

 

そこで、欧州の中で、上記の国々に属さないスペインでの歴史記述を眺めてみることにしました。

 

 

El fin de la Segunda Guerra Mundial
第二次世界大戦の終焉

 

El Día de la Victoria en Europa
ヨーロッパの勝利の日

 

Los duros años de la Segunda Guerra Mundial quedaban atrás con la esperada celebración de la victoria en Europa. Esta jornada histórica fue inmortalizada por los objetivos de muchas cámaras.
第二次世界大戦の苦難の年は、ヨーロッパで期待されていた勝利の祝宴を終えた。この歴史的な日は、多くのカメラのレンズによって不滅のものとなった。

 

Guiomar Huguet Pané
ギオマール・ユグエ・パネ

 

08 de mayo de 2020 · 07:30 · Lectura:
2020年05月08日 - 07:30 - 読書

 

Los datos que definen el conflicto militar de la Segunda Guerra Mundial son atroces. Oficialmente, la guerra empezó el 1 de septiembre de 1939, cuando Hitler invadió Polonia, y terminó el 2 de septiembre de 1945 con la capitulación de Japón. Durante estos seis años de enfrentamientos entre los ejércitos Aliados y las Potencias del Eje, el mundo entero se vio inmerso en uno de los peores conflictos bélicos que ha vivido la humanidad. Se calcula que el número de víctimas alcanzó la terrible cifra de entre 50 y 70 millones y aproximadamente 100 millones de soldados fueron movilizados durante la contienda. Y, a pesar de que estos datos son espeluznantes, además, diferentes hechos que tuvieron lugar durante el periodo de guerra –el Holocausto, los bombardeos a objetivos civiles o el uso de armas nucleares entre muchos otros- también cambiaron el mundo para siempre.
第二次世界大戦の軍事衝突を定義するデータはひどい。公式には、ヒトラーがポーランドに侵攻した1939年9月1日に開戦し、1945年9月2日に日本の降伏で終戦した。連合軍と枢軸国の間のこれらの6年間の戦いの間に、全世界は、人類がこれまでに経験したことのない最悪の戦争の一つに陥った。犠牲者数は5000万人から7000万人という恐ろしい数字に達し、戦闘中には約1億人の兵士が動員されたと推定されている。そして、これらの数字は衝撃的だが、ホロコースト、民間人への爆撃、核兵器の使用など、戦時中に起こったさまざまな出来事もまた、世界を永遠に変えてしまった。

 

コメント:

『核兵器』を実践で使用した米国は最悪です。ですから核兵器開発に着手し、しかもユダヤ人を迫害したヒトラーを擁護する気はさらさらありません。しかし、ヒトラーは英米に対しては、たびたび休戦を求めていましたが英国は無視を続けていました。そして、ヒトラーがポーランドに侵攻した際には非難した英米諸国は、なぜ2年後にポーランドを襲ったソ連には同様の態度を表明しなかったのか、不合理だと考えます。英米は、敵国が戦争を回避できない状況に追い込んで悪者扱いする謀略が得意です。ドイツばかりでなく日本も、まんまとこの手に嵌められ、歴史も大きく歪められました。

 

 

Por todo esto y porque una guerra de tamañas dimensiones supone siempre un trauma indeleble en el imaginario de cualquier país y de toda su población durante generaciones, cuando llegó el final de la Segunda Guerra Mundial en los frentes europeos con la rendición del ejército nazi en mayo de 1945, se vio la necesidad de marcarlo en el calendario de forma especial. Así, se declaró el 8 de mayo de 1945 como el Victory in Europe day, el Día de la Victoria en Europa. Estas son algunas de las imágenes que lo explican.

そのため、このような規模の戦争は、何世代にもわたってどの国の、そしてその国民全体の想像力の中にも忘れがたいトラウマとなっているため、1945年5月のナチス軍の降伏によって第二次世界大戦がヨーロッパ戦線で終結したときには、特別な方法でこの日をカレンダーに記す必要があった。こうして、1945年5月8日はヨーロッパ戦勝記念日とされた。それを説明する画像(省略)
コメント:そもそも、第二次世界大戦の原因は、欧州諸国間の争いが主であり、日本は欧米の利権に巻き込まれた被害者ということになるでしょう。ヨーロッパでの戦いは5月8日で終結し、二面戦争を展開していた米国は、日本との太平洋戦争に専念できる体制になりました。しかし、世界の態勢は、すでに決していたにも関わらず、その後3カ月を経ても決着がつきませんでした。本土決戦に突入し、ゲリラ攻撃作戦を取れば、あるいは後のベトナム戦争のように最終的には米国が根負けした可能性はあります。たとえそうだとしても犠牲者を減らす目的という理由は原爆行使の正当化事由には到底成り得ません。ただし、幸いにも天皇陛下の英断と果断な行動で多くの国民の命が守られたことは間違いありません。