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<新型コロナ対策:北京中医薬大学国学院院長、李良松大学院教授からのアドバイス!>

 

新型コロナウイルス肺炎蔓延制御に対する古代疫病対策からの啓発No1

 

古代瘟疫治验对新冠病毒肺炎疫情防控的启示
说天下

2020年02月11日

新型コロナウイルス肺炎蔓延制御に対する古代疫病対策からの啓発
2020年2月11日

 

 

在中华民族发展的历史长河中,根据历代文献记载,自公元前7世纪至公元20世纪,我国发生较大规模的瘟疫达700多次,如东汉末期不到50的时间里,死于疾疫达1500万人以上;又如公元1232年汴京大疫,50天内竟然死了95万人。因此,从政治、经济、军事和文化的视角来研究传染病对中国历史的冲击和影响,并探寻其规律和特点,为当代和未来的传染病防治工作提供历史的借鉴,具有极其重要的历史意义和积极的现实意义。

中国国家の長い成長の歴史(註1)において、史書(註2)によれば、紀元前7世紀から西暦20世紀まで、700件以上の大規模な疫病が中国内で発生し、東漢(註3)王朝時代末のように50年間以内に、病死者は1500万人以上に達していました。別の例では、1232年(註4)の卞京(註5)での疫病では、50日以内に死者が95万人にも達していました。したがって、中国史上での感染症の衝撃的影響を政治的、経済的、軍事的そして文化的側面から研究し、またその法則や特徴を探究することによって、現在および未来の感染症予防のための歴史的参考資料として提供します。

 

(註1)中国の歴史:中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。史書に記された中国最古の王朝は「夏」(紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃)である。ちなみに中国医学の始祖とされる黄帝(紀元前2510年~紀元前2448年)はそれより以前の伝説的皇帝であるが現在でも尊崇を集めている。その背景として後の漢の時代では著者不明の医学書を黄帝のものとして権威を付けるのが流行したためとされる。現存する中国最古の医学書とされ現代でも鍼灸医学の基本テキストとされる『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』は黄帝の著作とされている。

 

(註2)中国の史書:中国の最古の史書は、「書経(尚書)」とされる。『書経』は三代~春秋時代までを扱い、秦の穆公の記載があるため、成立は早くとも秦の穆公が在位を開始した紀元前659年以降であるさらに、書経の中の『洪範』で記されている政治学は五行説が基になっており、五行説の成立は戦国時代であることから、成立年代は早くとも戦国時代(紀元前5世紀以降)までに限られる。

また『春秋』は、魯国の年次によって記録された、中国春秋時代に関する編年体の史書である。儒教では、孔子の手が加わった、もしくは孔子が作ったとされ、その聖典である経書(五経または六経)の一つとされている。しかし、孔子が手を加える以前の『春秋』は既に散佚しており、孔子が『春秋』のどこに手を加えて経書の『春秋』にしたのか、不明なところも多い。その内容は王や諸侯の死亡記事、戦争や会盟といった外交記事、日食・地震・洪水・蝗害といった自然災害(伝統的には災異と呼ばれる)に関する記事などが主たるもので、年月日ごとに淡々と書かれた年表風の歴史書である。春秋時代(紀元前770年 - 紀元前403年)は、紀元前453年晋が韓魏趙に分割された時点、または紀元前403年韓魏趙が諸侯に列した時点をもって春秋時代の終わり戦国時代の始まりとする。

 

(註3)東漢(中国名):後漢(25年 - 220年)は、中国の古代王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽)と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌遷都へ遷都。五代の後漢と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安を都とした前漢を西漢という)。また、ちょうどこの時代に活躍した華佗(?-208年)は麻沸散という薬を使って史上初の全身麻酔を行い腹部の大手術を行い「神医」として歴史に名を残す。また「五禽戯」と呼ばれる体操による健康法(導引)の発明者とも言われている。水氣道®は、現在この操体法を水中で応用するための研究を始めている。

 

(註4)1232年:日本では鎌倉時代で、この年に御成敗式目が制定された。その丁度40年後の1272年には、日本も下述の金朝と同様に第1回目の元寇(文永の役)で知られるモンゴル襲来を受けることになった。

 

(註5)卞京(中国古名):金(1214年-1233年)の都で、南京開封府と称した。現在の河南省開封市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、11世紀から12世紀にかけては世界最大級の都市であった。金はモンゴルの攻略を受け燕京(現在の北京)から開封に遷都とし、河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止められず、1232年に三峰山の戦いで大敗し、軍主力が消滅した。以後は抵抗もままならず、1234年に開封を包囲、占領された。皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州への逃亡をはかったが、モンゴルと南宋の連合軍に挟撃されて自殺、後を受けた末帝も即位からわずか半日でモンゴル軍に殺害され、ここに金は滅亡した。なお、17世紀になって同じ女真族が「金」を名乗る王朝を建てたが、これは「後金」と呼ばれて区別される。後金はのちに「清」と改称し、大帝国を築いた。ちょうどこの当時を生き、後に医聖と称えられる張仲景 ( 150頃-219頃)は自分の一族を傷寒(感染性疾患)により失い、その不合理に憤慨して『傷寒卒病論』を著した。この書にはそれまでの研究を元に張仲景の研究の成果が載せられており、後世の中医学のバイブルとされた。日本の漢方界でも、特に古方派を中心に非常に重視されている。杉並国際クリニックも感染症対策としては「傷寒論」(内容は伝染性の病気に対する治療法が中心)の発想を尊重している。