4月22日(水)水曜日:ドイツ語旅行

ドイツ銀行物語

 

第3話:ドイツ銀行の20世紀史

 

1904年、ドイツ銀行はDeutsche Petroleum-Aktiengesellschaft (DPAG) をベルリンに設立。これはやがてブリティッシュ・ペトロリアム(BP)となりました。

 

1914年の第一次世界大戦勃発時点で、トルコ石油の25%を支配しました。しかしロイヤルダッチ・シェルも25%を占め、あとの50%はBP が保有しました。交渉を重ねてもドイツ銀行の支配率は変わりませんでした。これが第一次世界大戦開戦の重要な背景です。(註:かつての大英帝国の、まさに帝国主義はアジアだけでなく、ドイツをも窮地に追い   込んでいたのです。)

 

1933年に、反ユダヤ的政策を押し出したアドルフ・ヒトラーのナチ党は、総選挙に勝利しドイツの政権を握ると、ドイツの大手企業にユダヤ系社員の追放を強制する方針を示しました。これを受けてドイツ銀行は取締役会からユダヤ系役員3人を追放し、またドイツ政府によるユダヤ系資本の押収による経済の「アーリア化」に関与しました。

 

1938年11月までにドイツ銀行はナチスドイツによる363件のユダヤ系事業押収に協力したことが社史に記録されています。第二次世界大戦では占領地の銀行を併合し大きくなりました。この時期、ドイツ銀行はドイツ最大の銀行としてドイツ政府やナチ党に多く融資しており、ゲシュタポへの銀行施設提供、アウシュヴィッツ強制収容所や隣接するIG・ファルベン社施設への融資なども行いました。

 

1948年4月1日、第二次世界大戦のドイツ敗戦と東西ドイツへの分割に伴い、ドイツ銀行は資本主義体制下の西ドイツに組み込まれたものの、連合国軍司令部からさらに10分割命令を受け分離解体されました。

 

1952年には、連合国による占領体制が終わった後、10の銀行は3つに統合しました。

 

1956年にシュティンネス・コンツェルンの後継であり、創業者の息子が56%を支配していたヒューゴー・シュティンネス・コーポレーションが敵性資産として競売にかけられることになりました。戦前からのドイツ経済の巨人ヘルマン・ヨーゼフ・アプスはこのシュティンネスを弁護し『競売にかけたりして国の返済能力が落ちたらどうするのか』と凄みを効かせました。当時の西独首相コンラート・アデナウアーまでも個人的に働きかけもあって、合衆国政府は彼らの主張を受け容れ、シュティンネスの競売を特例としてあつかい、ここへ西ドイツが参加することを認め、西独の財閥解体は頓挫しました。西ドイツでは銀行法第12条と第19条により自己資本規制さえクリアすれば持ち株比率を好きなだけ上げることができました。また、1965年の株式法改正までは、株主の指示がないかぎり、寄託されている株式議決権を無期限に行使できました。

 

1957年には三つの大銀行は合併統合し、西ドイツのフランクフルトを本店として「ドイツ銀行」が復活しました。(註:世界的なメガバンク化の走りだったとではないでしょうか?)

 

1958年に競争制限禁止法が成立し、西ドイツの財閥解体が完全に失敗しました。このような法律環境で、銀行は1989年のベルリンの壁崩壊直前までの30年以上もの間、戦前同様に参加企業へ監査役を派遣して経営を支配することが許されていました。

 

1965年の株式法改正までは、1965年の株式法改正により、寄託されている株式議決権の行使は最長5ヶ月に制限されました。それまでは、株主の指示がないかぎり、寄託されている株式議決権を無期限に行使できました。

 

1975年、ドイツ銀行は、フレデリック・カール・フリックからダイムラー・ベンツの株を10億ドル超を購入しました。

 

1986年のドイツ銀行が保有する寄託株式による議決権シェアは、まずダイムラー・ベンツ株で41.80%、次にクレックナー・フンボルト・ドイツ株で44.24%、そして自己株式では47.17%に上りました。

 

1989年のベルリンの壁崩壊後、11月7日にアルフレート・ヘルハウゼンの主導でダイムラークライスラー・エアロスペースが設立されました。ヘルハウゼンはダイムラー・ベンツの監査役会会長でもあり、ヘルムート・コール首相の経済顧問としても辣腕をふるい、同月にドイツ銀行はロンドンの投資銀行モルガン・グレンフェル銀行を買収しました。再統一の勢いもあり、ドイツ銀行はドイツ経済ごと機関化しました。一企業の役員が他企業の監査役を最高10社まで兼務することを認めていた株式法第100条が改正され、兼務が制限されるようになりました。

 

1995年からは商業銀行から投資銀行へ事業の主軸を移しはじめました。(註:この投資銀行の業務は、一般的にアセットマネジメントや投信受託と不可分です。)

 

1998年に、ドイツ銀行は機関化された資力でアメリカ8位のバンカース・トラスト(Bankers Trust)を買収しました。

 

1999年にはクレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)買収にも参加して、ブリュッセルのクレディ・リヨネ・ベルギーを買収した。日本の三井グループ中核企業のさくら銀行(現三井住友銀行)に対して買収検討を行なったこともありました。また同年にはドイツ銀行はナチスドイツとの関与を公式に認め謝罪し、同年暮れには他のドイツの大手企業とともに52億ドルの補償基金をホロコースト生存者のために供出しました。

 

2000年にドイツ銀行の傘下企業の証券部門は、名称を「ドイチェ証券」から「ドイツ証券」に変更しました。「ドイチェ」の方がドイツ語の表音として正しいが、「日本でドイチェだと、なかなかドイツの銀行と認識してもらえない」とのことから日本法人の正式名称は「ドイツ銀行」としています。 ただし、資産運用部門は「ドイチェ・アセット・マネジメント株式会社」と「ドイチェ」のままであり、グループ内の従業員は、「ドイツ」ではなく「ドイチェ」と呼ぶ場合が多いです。(註:20世紀末に企業名を改称することによって、日本企業や日本人個人投資家への認知度を高め、日本企業の積極的買収など、21世紀の事業展開をはかろうという強い意図があったのではないでしょうか?)